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鯉魚(りぎょ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-26 8:16:46  点击:  切换到繁體中文

底本: ちくま日本文学全集 岡本かの子
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1992(平成4)年2月20日
校正に使用: 1992(平成4)年2月20日初版


底本の親本: 岡本かの子全集
出版社: 冬樹社

 

   一

 京都の嵐山あらしやまの前を流れる大堰川おおいがわには、みやびた渡月橋とげつきょうかかっています。その橋の東詰ひがしづめ臨川寺りんせんじという寺があります。夢窓国師むそうこくしが中興の開山で、開山堂に国師の像が安置してあります。寺の前がすぐ大堰川の流で「梵鐘ぼんしょうは清波をくぐって翠巒すいらんひびく」というすずしい詩偈しげそのままの境域であります。
 開山より何代目かって、室町時代も末、この寺に三要というそうが住持をしていました。
 禅寺ぜんでらでは食事のとき、施餓鬼せがきのため飯を一はしずつはちからわきへ取除とりのけておく。これを生飯さばと言うが、臨川寺ではこの生飯を川へ捨てる習慣になっていました。すると渡月橋上下六町の間、殺生せっしょう禁断になっている川中では、平常から集りんでいた魚類が寄って来て生飯をべます。毎日の事ですから、魚の方ですっかり承知していて、寺の食事のかねが鳴るともう前のふちへ集って来て待っています。
 淵の魚へ食後の生飯を持って行って投げあたえる役は、沙弥しゃみの昭青年でありました。年は十八。元は公卿くげの出ですが、子供の時から三要の手元に引取られて、坐禅ざぜん学問を勉強しながら、高貴の客があるときには接待の給仕に出ます。かみはまだおろさないで、金襴きんらん染絹そめぎぬの衣、腺病質せんびょうしつたちと見え、き通るばかり青白いはだに、切りみ過ぎたかのようなはっきりした眼鼻立めはなだち、男性的なするどい美しさを持つ青年でした。寺へ引き取られたこどもの時分から、魚にをやりつけているので、魚の主なものは見覚えてしまい、友だちか兄弟のように馴染なじんでしまっていました。
 五月のある日、しぶしぶ雨が降る昼でした。淵の魚はさぞ待っているだろうと、昭青年は網代笠あじろがさかさの代りにして淵へ生飯を持って行きました。川はすっかりきりかくれて、やや晴れた方の空に亀山かめやま小倉山おぐらやままつこずえだけが墨絵すみえになってにじみ出ていました。昭青年がいま水際に降りる岩石の階段に片足を下ろしかけたとき、その石のかげになっている岸と水際との間のなぎさに、薄紅うすべにの色の一かたまりが横たわっているのが眼に入りました。ひとみらしてよく見ると、それが女のかぶかつぎであることがわかり、それを冠ったまま、むすめが一人たおれているのが判りました。昭青年は急いで川砂利かわじゃりの上へ飛び下り、娘のそばけ寄って、き起しながら
「どうしたのですか」
 とくと、娘は力無い声で、昨日から食事をしないのでえにつかれ、水でも一口飲もうと、やっと渚まで来たが、いつの間にか気が遠くなってしまったというのでした。
「それじゃ、幸い、ここにこいにやる生飯があります。これでもおあがりなさい」
 鉢を差し出してやると、娘はうれしそうに食べ、水をすくって来て飲ませると、娘はやっと元気を恢復かいふくした様子、そこで娘の身元ばなしが始まりました。
 応仁おうにんの乱は細川勝元、山名宗全の両頭目の死によって一時、中央では小康を得たようなものの、戦禍せんかはかえって四方へき散された形となって、今度は地方地方で小競合こぜりあいが始まりました。そこで細川方の領将も、山名方の領将も国元の様子が心配なので取る物も取りあえず京都から引返すという有様。
 ここに細川方の幕僚ばくりょう丹波たんばを領している細川下野守教春しもつけのかみのりはるも、その数にれず、急いで国元へ引返して行きました。教春の一人娘早百合姫さゆりひめは三年前、京都の戦禍がややしずまっていたとき、京都滞陣たいじんの父のやかたに呼び寄せられ、まだ十四さいの少女であったが、以来日々、茶の湯、学問、まいつづみなど師匠ししょうを取って勉強していました。今年十七の春父が急いで国元へ引返す際、かれはすぐにさわぎを打ち鎮めて京へ帰れる見込みで、留守るすの館には姫の従者として男女一人ずつ残しておきました。もっとも生活費はあまるほど充分じゅうぶん残して行きました。
 ところが、それからだんだん国元の様子が父に不利になって来て、近頃ちかごろではまるっきり音沙汰おとさたもありません。うわさには一族郎党ろうとう、ほとんど全滅ぜんめつだとの事です。すると、早百合姫に附添つきそっていた家来の男女は、薄情はくじょうなもので、両人しめし合せ、館も人手に売渡うりわたし、金目のものは残らずさらってどこかへ逃亡とうぼうしてしまいました。
 父の行方ゆくえの心配、都に小娘一人住みのあやうさ、とうとう姫も決心して国元へ帰ろうとほとんど路銀も持たずただ一人、この街道をみ出して来たのでした。しかし、旅支度さえ充分でない上にすぐと悪漢達に追いかけられたりして、姫は全く不安と饑えとで、疲れ果ててしまったのでした。
 姫は言い終ってさめざめと泣きました。
「せっかく、たすけて頂いたようなものの、行先の覚束おぼつかなさ、途中とちゅう難儀なんぎ、もう一足も踏み出す勇気はございません。いっそこの川へ身を投げて死にとうございます」
 またさめざめと泣き続けます。昭青年はこれをいてはらわたむしられるような思いをしました。そして、彼女かのじょを救う一番いい方法は、寺へたのんでしばらく国元の様子の判るまで置いてもらうことだと思いましたが、乱世のならわし、同じような悲運な事情で寺へ泣付いて来る者がたくさんあって、それをいちいち受容うけいれていたのでは寺がたまりません。まして女人の身、いっそう都合つごうが悪いのです。寺で断られるのは知れ切ったこと。しかたなく昭青年は言いました。
「まあ、生きておいでなさい。どうにかなりましょう。食事は私が粗末そまつながら運んで来ますから、しばらくこの辺のどこかにしのんでおいでなさい。人に見付からぬように」
 昭青年だとて、先にあてがあるわけではありませんが、差当って今の取りし方としては、これ以外に無かったのでした。あたりを見廻みまわすと、幸い、とまで四方を包んだ船がある。将軍が大堰川へ船遊びの際、伴船ともぶねに使う屋根船で、めったに人の手にれません。昭青年は苫を破り分けて早百合姫をその中へ入るよううながしました。
 姫はさほど有難ありがたいとも思わぬ様子でしたが、それでもいやとは言わず、船の中へ隠れました。そして言いました。
さびしいから食事の時以外にもなるたけ、ちょいちょい訪ねて来て下さいましね」

     二

 寺の人達の間にこんな噂が出るようになりました。
「どうもこの頃、昭沙弥は、生飯をやると言っちゃ日に五六ぺんも、そわそわ川へ行く。あんまり鯉に馴染なじみがつき過ぎて鯉にせられたのではないか」
「そのくせ、淵の鯉は、ときの鐘を聴いてもこの頃は集って来んようだ。わしは気を付けて行って見るが確かにそうだ」
「それは変だな」「変だ」「変だ」と噂し合うようになりました。それはそのはずです。せっかくの生飯も、昭青年は苫船の中の美しい姫にやってしまうので、淵の鯉は、いつも待ちぼうけです。しまいにはあきらめて鯉達は斎の鐘に集らなくなりました。噂が耳に入るほど余計に昭青年は用心します。すきうかがい折を見ては苫船へ通います。その度に自分がもらった菓子かし、果物など、食べたりをしてそでに忍ばせ、姫にそっと持って行ってやります。そうこうするうち日も移って、梅雨つゆもすっかり明けた真夏の頃となりました。
 片方は十八の青年、片方は十七の乙女おとめ。二人は外界をみな敵にして秘密の中で出会うのです。自然とこいが芽生えて来たのも当然です。

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