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世界怪談名作集(せかいかいだんめいさくしゅう)十六

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-27 10:30:27  点击:  切换到繁體中文


       二

 コスモは自分の獲物を注意して持ち帰った。その途中も、誰かそれを見付けはしないか、誰か後からけて来はしないかという懸念で、絶えず不安を感じていた。彼は幾たびか自分のまわりを見まわしたが、別に彼のうたがいをひくようなこともなかった。かりに彼の後をける者があるとしても、いかに巧妙なる間者スパイでもその正体を暴露するであろうと思われるほどに、町は非常に混雑して、町の灯は非常に明かるかった。
 コスモはつつがなく下宿に帰り着いて、買って来た鏡を壁にかけた。彼は体力の強い男であったが、それでも帰って来たときには、鏡の重さから逃がれて、初めて救われたように感じた。彼はまずパイプに火をつけて、寝台に体をなげ出して、すぐにまた、いつもの幻想にいだかれてしまった。
 次の日、かれは常よりも早く家へ帰って、長い部屋の片端にあるの上の壁にかの鏡をかけた。それから丁寧に鏡のおもてのちりを拭き去ると、鏡は日光にかがやく泉のように清くみえて、覆いをかけた下からもひかっていた。しかも彼の興味は、やはり鏡のふちの彫刻にあった。それを出来るだけ綺麗にブラッシュをかけて、その彫刻のいろいろの部分について製作者の意図が那辺なへんにあったかを見いだすために、精密な研究を始めたが、それは不成功に終わった。後には退屈になって失望のうちにやめてしまった。そうして、鏡に映る部屋のなかをしばらくぼんやりと眺めていたが、やがて半ば叫ぶような声で言った。
「この鏡はふしぎな鏡だな。この鏡に映る影と、人間の想像とのあいだに何か不思議な関係がある。この部屋と、鏡に映っている部屋と、同じものでありながら、しかもだいぶ違っている。これは僕が現在住まっている部屋のありさまとは違って、僕の小説のなかで読んだ部屋のように見える。すべてありのままとは違っている。一切のものは事実のさかいを脱して芸術の境地に変わっている。普通ならば、ただ粗末な赤裸裸せきららの物が、僕にはすべて興味あるものに見える。ちょうど舞台の上に一人の登場人物が出て来ただけで、もうこの退屈で堪えられない人生から逃がれて愉快になるようなものである。芸術というものは、疲れ切った日常の感覚から逃がれ、不安な日常の生活から離れて自然に帰り、また、われわれの住む世界から懸け離れた想像に訴えて、自然をある程度まであるがままに生かして、あたかも毎日なんの野心もなく、なんの恐れをも持たずに生活している子供の眼に、そのまわりをめぐる驚異の世界を示して、それに対してなんの疑いをもいだかしめないようにするがごときものではあるまいか。今のあの鏡のうちにうつる骸骨をみると、怖ろしい姿に見える。その骸骨はこの忙がしい世界を隔てて、さらに遠い世界をながめる望楼のように、見えない物をも見るかのごとく寂然せきぜんとして立っている。またその骨や、その関節は、僕自身のこぶしのように生けるがごとくに見える。……さらにまた、鏡のうちにうつる戦闘用のおのを見ろ。それはあたかも甲冑かっちゅうをつけた何者かがその斧を手に持って、力強い腕で相手のかぶとを打ち割り、頭蓋骨や脳を打ち砕き、他の迷える幽霊とともに未知の世界を侵略しているようにも見える。もし出来るものならば、僕はあの鏡のうちの部屋に住みたい」
 こんな囈語うわことめいたことを言いながら、鏡のうちを見つめてちあがるや、彼は異常の驚きに打たれた。鏡にうつっている部屋のドアをあけて、音もなく、声もなく、全身に白い物をまとっている婦人の美しい姿があらわれたのである。婦人は憂わしげな、消ゆるがごとき足取りで、彼に背中をみせながら、しずかに部屋のはずれの寝台に行き、わびしげにそこへ腰をおろして、悩ましげな、悲しげな表情をその美しい眼に浮かべながら、無言の愛情をこめた顔をコスモの方へ振り向けた。
 コスモはしばらく身動きもせずに、けるに避けられぬその眼を彼女の上にそそいだ。動けば動かれるとは思いながら、さて振り返って、鏡のなかならぬ本当の部屋にむかって、まともに彼女を見るほどの勇気も出なかった。しかも最後に、思わずふっと寝台の方を見かえると、そこには何の影もなかった。驚きと怖れとが一つになって、再び鏡にむかうと、鏡のうちには依然として美女の姿が見えるのである。彼女は今や眼をとじて、その睫毛まつげのあいだからは熱い涙をながしつつ、その胸に深い溜め息をつくばかりで、死せるがごとくに静かであった。
 コスモは自分の心持ちを、自分で何とも言いあらわすことが出来ないくらいであった。彼はもう自覚を失って、ふたたび元へはかえらない人になってしまった。彼はもう鏡のそばに立っていられなくなった。それでも、貴女きじょに対して失礼だとは心苦しく思いながら、また彼女が眼をあいて自分と眼を見合わせはしないかと恐れながら、なお、いつまでもじっと彼女を見つめていた。やがて彼は少しく気が楽になった。彼女はしずかに眼瞼まぶたをひらいたが、その眼にはもう涙が宿っていなかった。そうして、しばらくぼんやりしていたが、やがてまた、あたりの物を見ようとするかのように、部屋のうちを見まわしていたが、その眼はコスモの方へ向けられなかった。
 鏡にうつっている部屋のうちには、彼女の眼をいた物はないらしかった。そうして、最後に彼を見るとしても、彼は鏡にむかっているのであるから、当然その背中しか見えないわけである。鏡のうちに現われている二人の姿――それは現在の部屋において彼がうしろ向きにならない限り、彼と彼女とが顔を見あわせることが出来ないのである。しかも彼がうしろを向けば、現在の部屋には彼女の姿は見いだせないのである。そうなると、鏡のうちの彼女からは、彼がくうを見ているように眺められて、眼と眼がぴったりと出合わないために、かえって相互の心を強く接近させるかとも思われた。
 彼女はだんだんに骸骨の上に眼を落とした。そうして、それを見るとにわかにふるえて眼をとじたように思われた。彼女は再び眼をひらかなかったが、その顔にはいつまでも嫌悪けんおの色が残っていた。コスモはこのいやな物をすぐに取りのけようかと思ったが、それがために自分の存在を彼女に知らせたらば、あるいは彼女に不安を与えはしないかという懸念があったので、彼はそのままにして立ちながら彼女をながめていると、彼女の眼瞼は宝玉をおさめた貴い箱のように、その眼をつつんでいた。そのうちに、彼女の困惑の表情は次第に顔の上から消えていって、わずかに悲しみの表情を残しているばかりになった。その姿は動かないらしく、ただその呼吸するごとに規則正しいからだの動きを見るばかりになった。コスモは彼女の眠ったことを知った。
 彼は今や何の遠慮もなしに彼女を見つめることが出来た。かれは質素な白い長い着物を着ている彼女の寝すがたを見た。その白い着物がいかにもよくその顔に値いして、いい調和をなしていた。しなやかなその足、おなじように優しい手、それらは彼女がすべての美をあらわして、その寝すがたは彼女の完全な肢体のくつろぎを見せていた。
 コスモは飽きるほどそれを見つめていた。のちにはこの新しく発見した神殿のほとりに座を占めて、さながら病床に侍座じざする人のように、機械的に書物を手にとった。書物をみても、心はそのページの上に集中しないのである。彼は今までの経験にまったく反対している目前の出来事にひどく驚かされているばかりで、その驚きは断定的、思索的、自覚的などということなしに、単なる受動的のものであった。しかし、そういうなかにもコスモの空想は彼一流の夢を送って、一種の陶酔に入っていた。
 彼は自分でも分からないほど長く腰をかけていたが、やがて驚いてちあがって総身そうみをふるわせながら再び鏡をながめると、鏡のうちに女はもういなかった。鏡はただこの部屋をあるがままにうつすのみで、ほかには何物もみえなかった。それは中央の宝石を取り去られた金の象嵌ぞうがんのごとく、または夜の空にかがやく星の消えたるがごとくであった。彼女はその姿と共に、鏡のうちにうつっていた一切のめずらかなる物を持ち去って、鏡の外にある物となんの異ることもなくなってしまった。それを見て彼はいったん失望したが、彼女はきっと再び帰って来るに相違ない、たぶん、あしたの夜も同じ時刻に帰って来るという希望をいだいて自ら慰めていた。そうして、もし彼女が重ねて来たならば、かの骸骨をみせていやな心持ちを起こさせないようにするばかりでなく、すべて彼女に不愉快をあたえそうな物は、鏡にうつらない部屋の隅にことごとく移して、出来るだけこの部屋のうちを取り片づけた。


 

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