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半七捕物帳(はんしちとりものちょう)33 旅絵師

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-28 10:02:08  点击:  切换到繁體中文

底本: 時代推理小説 半七捕物帳(三)
出版社: 光文社時代小説文庫、光文社
初版発行日: 1986(昭和61)年5月20日
校正に使用: 1997(平成9)年5月15日第11刷

 

   一

「江戸時代の隠密おんみつというのはどういう役なんですね」と、ある時わたしは半七老人にいた。
「芝居や講釈でも御存知の通り、一種の国事探偵というようなものです」と、老人は答えた。「徳川幕府で諸大名の領分へ隠密を入れるというのは、むかしから誰も知っていることですが、その隠密は誰がうけたまわって、どういう役目を勤めるかということがよく判っていないようです。この隠密の役目を勤めるのは、江戸城内にある吹上ふきあげの御庭番で、一代に一度このお役を勤めればいいことになっていました。
 なぜ御庭番がこのお役を勤めることになったかというと、それにはいろいろの説がありますが、三代将軍家光公がある時、吹上の御庭をあるいている時に、御庭番の水野なにがしというのを呼んで、これからすぐに薩摩へくだって、鹿児島の城中の模様を隠密に見とどけてまいれと、将軍自身に仰せ付けられたので、水野はその隠密の洩れるのを恐れて、自分の屋敷へ帰らずにお城からまっすぐに九州へ下ったということです。水野が庭作りに化けて薩摩へ入り込んで、城内の蘇鉄そてつの根方に手裏剣を刺し込んで来たというのは有名な話ですが、嘘だかほんとうだか判りません。とにかくそれが先例になって、隠密の役はいつも吹上の御庭番が勤めることになったのだと、江戸時代ではもっぱら云い伝えていました。御庭番は吹上奉行の組下で若年寄の支配をうけていましたが、隠密の役に限ってかならず将軍自身から直接に云い付けられるのが例となっているので、御庭番はさして重い役ではありませんが、隠密の役は非常に重いことになっていました。
 それですから、御庭番の家に生まれた者はなんどき其の役目を云い付けられるか判らないので、その覚悟をしていなければなりません。勿論、侍の姿で入り込むわけには行きませんから、いざという時には何に化けるか、どの人もふだんから考えているんです。手さきの器用なものは何かの職人になる。遊芸の出来る者は芸人になる。勝負事の好きなものは博奕打ばくちうちになる。おべんちゃらの巧い奴は旅商人たびあきんどになる。碁打ちになる、俳諧師になる。梅川の浄瑠璃じょうるりじゃあないが、あるいは順礼じゅんれい、古手買、節季候せきぞろにまで身をやつす工夫くふうを子供の時から考えていた位です。そうして、かの水野が先例になったのでしょう。その役目を云い付かると同時に将軍から直々じきじき御手許金を下さる。それを路用にしてお城からまっすぐに出発するのが習いで、自分の家へ帰ることは許されないことになっていました。
 幕府が諸大名の領内へ隠密を出すのは、いろいろの場合があるので一概には云えませんが、大名の代換だいがわりという時には必ず隠密を出しました。それは例のお家騒動に注意するためです。前にもいう通り、隠密は一代に一度のお役で、それを首尾よく勤めさえすれば、あとは殆ど遊んでいるようなもので、まことに気楽な身分にも見えますが、この隠密という役はまったく命懸けで、どこの藩でも隠密が入り込んだことに気がつくと、かならずそれを殺してしまいます。もともと秘密にやった使ですから、見す見す殺されたことを知っていても、幕府からは表向きの掛け合いは出来ません。所詮は泣き寝入りの殺され損になるに決まっていたものです。隠密の期限は一年で、それが三年をすぎても帰って来なければ、出先で殺されたものと認めて、その子か又は弟に家督相続を仰せ付けられることになっていました。しかしひと思いに殺されたのは運のいい方で、意地の悪い大名になるとそれを召し捕って、面当てらしく江戸へ送りかえしてよこすのがあります。それですから、万一召し捕られた場合には、たといどんな厳しい拷問をうけても、自分が公儀の隠密であるということを白状しないのが習いで、もし白状すれば当人は死罪、家は断絶です。そういう恐ろしいことになっていますから、隠密がもし召し捕られた場合には眼をつむって責め殺されるか、但しは自殺するか破牢するか、三つに一つを選むよりほかはないので、隠密はかならず着物の襟のなかにうす刃の切れ物を縫い込んでいました」
「なるほど、ずいぶん難儀な役ですね」
「それですから、隠密に出された人たちは、その出先で、いろいろのおそろしいこともあり、おかしいこともあり、悲劇喜劇さまざまだそうですが、なにしろ命懸けで入り込むんですから、当人たちに取っては一生懸命の仕事です。いや、その隠密についてこんな話があります。これは今云った悲劇喜劇のなかでは余ほど毛色の変った方ですから、自分のことじゃありませんけれど、受け売りの昔話を一席弁じましょう。このお話は、その隠密の役目を間宮鉄次郎という人がうけたまわった時のことで、間宮さんはこの時二十五の厄年やくどしだったと云います。それから最初におことわり申しておくのは、このお話の舞台はおもに奥州筋ですから、出る役者はみんな奥州弁でなければならないんですが、とんだ白石噺しらいしばなしの揚屋のお茶番で、だだあがあまを下手にやり損じるとかえってお笑いぐさですから、やっぱり江戸弁でまっすぐにお話し申します」

 文政四年五月十日の朝、五ツ(午前八時)を少し過ぎた頃に、奥州街道の栗橋の関所を無事に通り過ぎた七、八人の旅人がぞろぞろつながって、房川ぼうかわわたし(利根川)にさしかかった。そのなかには一人の若い旅絵師がまじっていた。渡し船は幾そうもあるので、このひと群れは皆おなじ船に乗り込んで、河原と水とをあわせて三百間という大河のまん中まで漕ぎ出したときに、向うから渡ってくる船とすれ違った。広い河ではあるが、船の行き馴れている路はいつも決まっているので、両方の船は小舷こべりが摺れ合うほどに近寄って通る。船頭は馴れているので平気でさおを突っ張ると、今日はふだんより流れのぐあいが悪かったとみえて、急に傾いてゆれた船はたがいにすれ違う調子をはずして、向うから来た船の舳先へさきがこっちの船の横舷よこべりへどんと突きあたった。
 つき当てられた船はひどく揺れて傾いたので、乗っていた二、三人はあわててちかかった。船頭があぶないと注意するひまもなしに、一人の若い娘はからだの中心を失って、河のなかへうしろ向きに転げ落ちてしまった。どの人も顔色を変えてあっと叫ぶ間に、船頭は棹をすてて飛び込んだ。かの旅絵師もつづいて飛び込んだ。見る見る川しもへ押し流されて行った娘は、七、八間のところで旅絵師の手につかまえられると、水練の巧みらしい彼は、娘を殆ど水のなかから差し上げるようにして、もとの船へ無事に泳いで帰ったので、大勢はおもわず喜びの声をあげた。取り分けその娘の親らしい老人と供の男とは手を合わせて彼を拝んだ。船頭は乗合一同にひどくあやまって、ともかく向う岸まで船を送り着けた。
 娘はさのみに弱ってもいなかった。そのころは五月であるからこごえることもなかった。渡し小屋で濡れた単衣ひとえを着かえて、彼女は父と供の男とに介抱されながらしばらく休んでいるうちに、旅絵師は娘の無事を見とどけて、自分も着物を着かえて、そのまま行こうとすると、大切な娘の命を助けられたそのお礼がまだ十分に云い足りないというので、老人はしきりに彼を抑留ひきとめた。娘だけを駕籠に乗せて、自分たちは近い宿しゅくまで一緒にあるいて行って、老人はある立場たてば茶屋の奥座敷へ無理にかの旅絵師を誘い込んで、ここであらためて礼を云った上で酒やさかなを彼にすすめた。
 老人は奥州の或る城下の町に穀屋こくやの店を持っている千倉屋伝兵衛という者であった。年来の宿願しゅくがんであった金毘羅こんぴらまいりを思い立って、娘のおげんと下男の儀平をつれて、奥州から四国の琴平ことひらまで遠い旅を続けて、その帰りには江戸見物もして、今や帰国の途中であると話した。この時代に足弱あしよわと供の者とを連れて奥州から四国路までも旅行をするというのは、よっぽど裕福の身分でなければならないことは判り切っていた。伝兵衛はもう六十と云っていたが、身のたけも高く、頬の肉も豊かで、見るからすこやかな、いかにも温和らしい福相をそなえた老人であった。
 旅絵師も自分のゆく先を話した。かの芭蕉の「奥の細道」をたどって高館たかだちの旧跡や松島塩釜の名所を見物しながら奥州諸国を遍歴したい宿願で、三日前のゆうぐれに江戸を発足ほっそくして、路草を食いながらここまで来たのであると云った。
「それはよい道連れが出来ました」と、伝兵衛は喜ばしそうに云った。「唯今申す通り、わたくし共も長の道中をすませて、これから奥州の故郷へ帰るものでございます。足弱連れで御迷惑かも知れませんが、これも何かの御縁で、途中まで御一緒においでなされませんか」
「いや、御迷惑とはこちらで申すこと、実はわたくしも奥州道中は初旅で、一向に案内が知れないので、心ぼそく思っていたところでございますから、御一緒にお連れくだされば大仕合わせでございます」
 相談はすぐに決まって、山崎澹山たんざんとみずから名乗った若い旅絵師は、伝兵衛の一行に加わることになった。道連れといっても、これは自分の娘の命を救ってくれた恩人であるから、伝兵衛主従も決して彼を疎略には扱わなかった。
 その晩は小山の宿しゅくに泊まったが、旅籠はたご賃その他はすべて伝兵衛がまかなった。これから幾日もつづく道中に、それではまことに困ると澹山はしきりにことわったが、伝兵衛はどうしてもかなかった。あくる晩は宇都宮に着いたが、その翌日もひるすぎまでここに逗留して、伝兵衛は澹山を案内して二荒ふたら神社などに参詣した。その後の道中も、毎晩の宿はかなりの上旅籠で、澹山はなんの不自由もなしに奥州路にはいった。

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