三
澹山は蒲団の下に隠してある匕首を先ず探ってみた。そうして自分の耳を蒲団に押し付けて、熟睡したような寝息をつくっていると、足音は障子の外でとまった。もしやおげんが執念ぶかく忍んで来たのかとも疑ったが、その足音はもっと力強いように思われた。
「先生」と、外の人は小声で呼んだ。「もうおやすみでござりますか」
それが伝兵衛であると知って、澹山はすぐに答えた。
「いや、まだ起きて居ります。御主人ですか」
「はい。では、ごめんください」
勝手を知っている伝兵衛は暗いなかへはいって来ると、澹山は起き直って行燈の火をともした。
「夜ふけにお邪魔をいたしまして相済みませんが、荒木様の御子息様からおあつらえの掛物はまだお出来に相成りませんか」と、伝兵衛は坐り直して訊いた。
申し訳のない延引と澹山があやまるように云うのを聴きながら、伝兵衛は少し考えていたらしいが、やがてやはり小声で云い出した。
「就きましては先生、一方の御仕事のまだ出来あがらないうちに、こんなことをお願い申すのは甚だ心苦しいようではござりますが、実は別に大急ぎで願いたいものがござりまして……」
「ははあ。それはどんなお仕事で……」
「御承知くださりますか」
「承知いたしましょう。わたくしで出来そうなことならば……」と、澹山は快く答えた。
「ありがとうござります」と、伝兵衛も満足したらしくうなずいた、「では、恐れ入りますが、これからわたくしと一緒にそこまでお出でくださりませんか。なに、すぐ近いところでござります」
これからどこへ連れてゆくのかと思ったが、澹山は素直に起きて着物を着かえて、匕首をそっとふところに忍ばせた。その支度の出来るのを待って、伝兵衛は庭口の木戸から彼を表へ連れ出した。今度は提灯を持たないで、二人は暗い路をたどって行った。伝兵衛は始終無言であった。
江戸の隠密ということが露顕したのかと、澹山はあるきながら考えた。城内の者が伝兵衛に云いつけて、自分をどこへか誘い出させて闇打ちにする手筈ではあるまいかと想像されたので、暗いなかにも彼は前後に油断なく気を配ってゆくと、伝兵衛はさっき帰って来た田圃道を再び引っ返すらしく、それを行きぬけて更に向うの丘へのぼって行った。丘のうえには昼でも暗い雑木林が繁っていて、その奥の小さい池のほとりには古い弁天堂のあることを澹山は知っていた。
堂守は住んでいないのであるが、その中には燈明の灯がともっていた。その灯を目あてに、伝兵衛は池のほとりまで辿って来て、そこにある捨て石に腰をおろした。澹山も切株に腰をかけた。
「御苦労でござりました。夜が更けてさぞお寒うござりましたろう」と、伝兵衛は初めて口を開いた。「そこで、早速でござりますが、わたくしが折り入って描いて頂きたいのはこれでござります」
澹山をそこに待たせて置いて、伝兵衛はうす暗い堂の奥にはいって行ったが、やがて二尺ばかりの太い竹筒をうやうやしく捧げて出て来た。彼は自分の家から用意して来たらしい蝋燭に燈明の火を移して、片手にかざしながらしずかに云った。
「まずこれを御覧くださりませ」
かなりに古くなっている竹は経筒ぐらいの太さで、一方の口には唐銅の蓋が厳重にはめ込んであった。その蓋を取り除けて、筒の中にあるものを探り出すと、それは紙質も判らないような古い紙に油絵具で描かれた一種の女人像で、異国から渡って来たものであることは誰の眼にも覚られた。伝兵衛がさしつける蝋燭の淡い灯で、澹山はじっとこれを見つめているうちに彼の顔色は変った。
「これは何でございます」と、彼はしずかに訊いた。
「弁天の御像でござります」
それは嘘であることを澹山はよく知っていた。この古びた女人像は、切支丹宗徒が聖母として礼拝するマリアの像であった。四国西国ならば知らず、この奥州の果ての小さい寂しい城下町でこんなものを見いだそうとは、澹山はすこしく意外に思って、手に持っている其の油絵と伝兵衛の顔とをしばらく見くらべていると、伝兵衛の方でも彼の顔をのぞき込みながら云った。
「先生、いかがでござりましょう。それを模写して頂くわけにはまいりますまいか」
澹山は黙っていた。伝兵衛もしばらく黙ってその返事を待っていた。蝋燭の灯は夜風にちらちらとゆれて、時々にうす暗くなる光りの前に、彼の顔は神々しく輝いているように見られた。澹山は一種の威厳にうたれて、おのずと頭が重くなるように感じた。
「大方は御不承知と察して居りました」と、伝兵衛はやがてしずかに云い出した。「それはわたくし共に取りましては、命にも換えがたい大切の絵像でござります。この弁天堂もわたくしの一力で建立したのでござります。娘を連れて金毘羅まいりと申したのも、実は四国西国の信者をたずねて、それと同じような有難い絵像をたくさん拝んで来たのでござります。こう何もかも打ち明けて申しましたら、御禁制の邪宗門を信仰する不届き者と、あなたはすぐにわたくしの腕をつかまえて、うしろへお廻しになるかも知れません。しかしわたくし一人をお仕置になされても、私には又ほかに幾人もの隠れた味方がござります。迂闊な事をなさると、却ってあなたのお為になりますまい。あなたの御身分もわたくしはよく存じて居ります。今日まで百日あまりのあいだに、わたくしが一度口をすべらしましたら、失礼ながらあなたのお命はどうなっているか判りません。娘の命を助けてくだされた御恩もあり、もう一つは斯ういう御無理をお願い申したさに、今日までわたくしは固く口をむすんで居りました。この後とても決して口外するような伝兵衛ではござりません。その代りに……と申しては、あまりに手前勝手かは存じませんが、どうぞ快く御承知くださりませ」
自分をここまで誘い出して、おそらく闇討ちにでもするのであろうと澹山は内々推量していたが、その想像はまったく裏切られて、彼は思いもよらない難題を眼のまえに投げ付けられた。彼は国法できびしく禁制されている切支丹宗門の絵像を描かなければならない羽目に陥ったのである。隠密という大事の役目をかかえている彼は、手強くそれを刎ねつけることが出来ない。相手が伝兵衛ひとりならばいっそ斬って捨てるという法もあるが、ほかにも彼と同じ信徒があって、その復讐のためにこっちの秘密を城内の者に密告されると、我が身が危ない。わが身のあぶないのは江戸を出るときからの覚悟ではあるが、大事の役目を果たさずには死にたくない。邪宗門ということが発覚すれば、伝兵衛も命はない。隠密ということが発覚すれば、澹山も命は無い。どっちも命がけの秘密をもっているのであるが、この場合には相手の方が強いので、澹山も行き詰まってしまった。
しかし斯う順序を立てて考えたのは、それから余ほど後のことで、その一刹那の澹山はただ何がなしに相手に威圧されてしまったという方が事実に近かった。
「これを模写してどうするんです」と、彼はわざと落ち着き払って訊いた。
「それはおたずね下さるな」と、伝兵衛はおごそかに云った。「わたくしの方に入用があればこそ、こうして折り入ってお願い申すのでござります」
自分の頼みを素直に引き受けてくれる上は、自分たちもかならずあなたの身の上を保護して、秘密の役目を首尾よく成就させてやると、伝兵衛は彼の信仰する神のまえで固く誓った。
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