二
兼松が竜土の家へ帰った頃には、三月十二日ももう暮れかかっていた。旧暦の三月であるから、きょうは朝から生暖かい風が吹いて、近所の武家屋敷の早い桜はもう散り始めていた。汗ばんだ襟のほこりを手拭でふきながら、兼松は格子をあけてはいると、子分の勘太が待っていた。
「親分、御苦労でした。八丁堀の御用は長谷寺の一件じゃあありませんかえ」
「むむ。ここらでももう評判になっているか。察しの通り、銭の兜だ」と、兼松は長火鉢の前で一服吸いながら云った。「今も八丁堀の旦那と話して来たのだが、おめえはあの兜を見たか」
「見ましたよ。奉納場に飾ってあるのだから、手を着けてみる訳にゃあいかねえが、なにしろなかなか念入りの細工で……。江戸にあんな職人はありますめえ」
「おれは此の頃出不精になったのと、年寄りのくせに後生気が薄いので、まだお開帳へ参詣をしなかったが、それほど念入りに出来ている兜から小判五枚を引っぺがすのは容易じゃあねえ。恐らく素人の芸じゃああるめえ。金銀細工をする奴らだろう。かねてから付け狙っているうちに、きのう寺社方からのお指図で、急にその小判を取り外すことになったので、奴らも慌ててゆうべのうちに引っぺがしに来たのだろう。こっちの油断は勿論だが、奴らもなかなか抜け目がねえ。だが、勘太。こりゃあ案外早く知れるぜ」
「そうでしょうか」
「今も云う通り、寺社方からのお指図が出て、三日の猶予で落着したのはきのうの夕方だと云うじゃあねえか。世間ではまだ知る筈がねえ。それをすぐに覚って仕事に来た以上、なにか内輪に係り合いのある奴に相違ねえ。そのつもりで探りを入れたら、手がかりが付きそうなものだと思うが……」
「そうですね」と、勘太はうなずいた。「成程こりゃあ内輪の機密を知っている奴らに相違ありません。好うござんす。そのつもりで探ってみましょう」
「まあ、おれも一緒に行ってみよう。どうでもう開帳は仕舞った時刻だ。ゆう飯でも食って、それから出かけよう」
二人は夕飯を食って、暮れ六ツを過ぎた頃から竜土の家を出た。その頃の麻布は大かた武家屋敷で、場末には百姓地もまじっていた。笄橋を渡って、いわゆる渋谷へ踏み込むと、普陀山長谷寺の表門が眼の前にそびえていた。寺は曹洞派の名刹で、明治以後は大いに寺域を縮少されたが、江戸時代には境内二万坪にも近く、松、杉、桜の大樹が枝をかわして、見るから宏壮な古寺であった。
大きい寺には門前町があるが、ここにも門前の町屋が店をならべて、ふだんも相当に賑わっているところへ、今度の開帳を当て込んで急拵えの休み茶屋や、何かの土産物を売る店なども出来たので、ここらは場末と思われない程に繁昌していた。開帳は夕七ツ限りであるから、参詣人はみな散ってしまって、境内はもうひっそりとしているが、門前町はまだ何かごたごたして、灯の明るい店では女の笑い声もきこえた。
兼松は桐屋という花暖簾をかけた茶店へはいった。
「まだ店はあるのかえ」
「どうぞお休み下さい」と、若い女が愛想よく迎えた。
勘太もつづいてはいった。二人は床几に腰をかけて、茶をのみながら開帳の噂をはじめた。
「今度は大当たりだそうだな」と、兼松は笑いながら云った。
「時候がいいのに、お天気がよいので、たいそうな御参詣でございます」と、女も笑いながら答えた。「本所深川や浅草の遠方からも随分お詣りがあるようです」
「奉納物のなかで、銭の兜というのが評判だそうだが……」
「ええ。あの兜はほんとうに好く出来ていると云って、どなたも感心しておいでです」
「毎日飾ってあるのかえ」
「どういう訳だか知りませんが、それがきょうは飾ってなかったそうで……。わざわざお出でになって、力を落としてお帰りになった方もございます」
「なぜ引っ込ませたのだろう」と、勘太は空とぼけて訊いた。
「さあ、なぜでしょうか」と、女も首をかしげていた。「そのことでいろいろの噂もありますが……。何かお寺社の方からお指図があったのだそうで……」
二人はいろいろにカマをかけて訊いてみたが、兜の金銀紛失のことは飽くまでも秘密にしてあるらしく、茶屋の者らも知らないようであった。店もそろそろ仕舞いにかかる時刻に、いつまで邪魔をしてもいられないので、兼松は茶代を置いて表へ出ると、ひとりの女が摺れ違って通りかかったが、また何か思い直したように引っ返して、寺の門をくぐって行った。
「あの女を知らねえか」と、兼松は訊いた。
「知りませんな」と、勘太は見送りながら答えた。「年ごろは二十五、六、小股の切れあがった、野暮でねえ女だが……。ここらの人間じゃあありませんね」
「開帳だからいろいろの奴も来るだろうが、今頃あんな女が寺へはいるのはおかしい。まさかに坊主をたずねて来たわけでもあるめえ」
兼松に頤で指図されて、勘太はすぐに女のあとを尾けて行くと、女は普陀山の額をかけた大きい門をはいって、並木を横に見ながら急ぎ足にたどって行った。物に馴れた勘太は並木のあいだを縫って、覚られないように忍んでゆくと、右側に夜叉神堂がある。女はその石燈籠の前に立って、おぼろ月にあたりを見まわした。
長谷寺参詣の人は知っているであろうが、夜叉神堂はこの寺の名物である。夜叉神は石の立像で、そのむかし渋谷の長者の井戸の底から現われたと伝えられている。腫れものに効験ありと云うのであるが、その他の祈願をこめる者もある。いずれにしても、ここに参詣する者は張子の鬼の面を奉納することになっているので、古い面が神前の箱に充満している。何かの願掛けをする者は、まずその古い面をいただいて帰って、願望成就か腫物平癒のあかつきには、そのお礼として門番所から新らしい面を買って奉納し、あわせて香華を供えるのを例としている。その古い面は一年に二回焼き捨てるのであるが、それでも多数の参拝者があるために、鬼の面はいつでもうず高く積まれていた。
女は幾たびか左右に眼をくばって、堂の前に進み寄ったかと思うと、やがて神前の大きい箱に手をさし入れて、古い鬼の面をかきのけているらしい。どうするのかと勘太は桜の木蔭から窺っていたが、あいにく向きが悪いので、女の手もとは判らない。勘太は焦れて木かげから少しく忍び出ると、女は勘が早かった。人の気息のあるらしいことをすぐに覚ったと見えて、一枚の古い面を押し頂いて堂の縁に置いた。そうして、殊勝らしくひざまずいて礼拝した後、その面をささげて立ち去ろうとした。
「おい、姐さん」
勘太は姿をあらわして声をかけた。
「はい」
女は立ちどまった。その落ち着かない態度が勘太の注意を惹いた。
「おまえさん、何か探していたのかえ」
「夜叉神さまのお面をいただきに参りました」
「でも、なんだか箱のなかを引っかき廻していたじゃあねえか」
「同じお面を頂きますにしても、あんまり古くないのを頂きたいと思いまして……」
「おまえの家はどこだえ」
「麻布六本木でございます」
「商売は」
「明石という鮨屋で……」
「じゃあ、おまえは鮨屋のおかみさんだね」
「はい」
なんという証拠もないので、勘太もその上に詮議の仕様もなかった。さりとてこのまま放してしまうのも残り惜しいように思われるので、どうしたものかと思案していると、あとから来た兼松がずっと進み出た。
「おれはこの女の番をしているから、勘太、おめえはその箱のなかを調べてみろ」
それを聞いて、女の様子が俄かに変った。彼女は二人の間を摺りぬけて逃げ出そうとした。
「ええ、馬鹿をするな」と、兼松はうしろから女の帯をつかんだ。「こっちは男が二人だ。逃げられるなら逃げてみろ」
それでも逃げてみようとするらしく、女は身をもがいて駈けだそうとした。そのはずみに掴まれた帯はゆるんで、帯に挟んでいたらしい何物かがかちりと地に落ちた。勘太が手早く拾ってみると、それは月に光る二朱銀であった。
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