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三浦老人昔話(みうらろうじんむかしばなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 0:07:56  点击:  切换到繁體中文


刺青の話

       一

 そのころの新聞に、東京の徴兵検査に出た壮丁のうちに全身に見ごとな刺青ほりものをしている者があったという記事が掲げられたことがある。それが話題となって、三浦老人は語った。
「今どきの若い人にはめずらしいことですね。昔だって無暗むやみに刺青をしたものではありませんが、それでも今とは違いますから、銭湯にでも行けばきっと一人や二人は背中に墨や朱を入れたのが泳いでいたものです。中には年の行かない小僧などをつかまえて、大供が面白半分に彫るのがある。素人に彫られては堪らない。小僧はひい/\云って泣く。実に乱暴なことをしたものです。刺青をしているのは仕事師と駕籠屋、船頭、職人、遊び人ですが、職人も堅気な人間は刺青などをしません。刺青のある職人は出入りをさせないなどと云ううちもありますから、い職人になろうと思うものは迂濶に刺青などは出来ないわけです。武家の仲間ちゅうげんなどにも刺青をしているものがありました。堅気の商人あきんどのせがれでありながら、若いときの無分別に刺青をしてしまって、あとで悔んでいるのもある。いや、それについて可笑おかしいお話があります。なんでも浅草辺のことだそうですが、祭礼のときに何かひと趣向しようというので、町内の若い者たちが評議の末に、三十人ほどが背中をならべて一匹の大蛇を彫ることになったのです。三十人がうろこのお揃いを着ていて、それが肌ぬぎになってずらりと背中を列べると、一匹の大蛇の刺青になるという趣向、まったく奇抜には相違ないので、祭礼の当日には見物人をあっと云わせたのですが、さあ其後が困った。三十人が一度に列んでいれば一匹の形になるが、ひとり一人に離れてしまうと何うにもならない。それでも蛇のあたまを彫った者はまあいのですが、そのほかの者はみんな胴ばかりだから困る。背中のまん中を蛇の胴が横ぎっているだけでは絵にも形にもならない。と云って、一旦彫ってしまったものは仕方がない。図柄によって何とか彫り足して誤魔かすことも出来ますが、大蛇の胴ではどうも困ると洒落れたいくらいで、これらは一生の失策でしょう。併しこんな可笑しいお話ばかりではない、刺青の為には又こんな哀れなお話もあります。わたくしは江戸時代に源七という刺青師ほりものしを識っていまして、それから聴いたお話ですが……。その源七というのは見あげるような大坊主で、冬になると河豚ふぐをさげて歩いているという、いかにも江戸っ子らしい、面白い男でしたよ。」
 老人が源七から聴いたという哀話は大体こういう筋であった。

 あれはたしか文久……元年か二年頃のことゝおぼえています。申すまでもなく、電車も自動車もない江戸市中で、唯一の交通機関というのは例の駕籠屋で、大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋、浅草の伊勢屋と江戸勘、吉原の平松などと云うのが其中で幅を利かしたもんでした。多分その初音屋の暖簾下か出店かなんかだろうと思いますが、芝神明の近所に初島はつしまという駕籠屋がありました。なか/\繁昌する店で、いつも十五六人の若い者が転がっていて、親父は清蔵、むすこは清吉と云いました。清吉は今年十九で、色の白い、細面のいきな男で、こういう商売の息子にはおあつらえ向きに出来上っていたんですが、唯一つのきずというのは身体からだ刺青ほりもののないことでした。なぜというのに、この男は子供のときから身体が弱くって、絶えず医者と薬の御厄介になっていたので、両親も所詮こゝの家の商売は出来まいと諦めて、子供の時から方々へ奉公に出した。が、どうも斯ういう道楽稼業の家に育ったものには、堅気の奉公は出来にくいものと見えて、どこへ行っても辛抱がつゞかず、十四五の時から家へ帰って清元のお稽古かなんかして、唯ぶら/\遊んでいるうちに、蛙の子は蛙で、やっぱり親の商売を受け嗣ぐようになってしまった。年は若し、男は好し、稼業が稼業だから相当に金まわりは好し、先ず申分のない江戸っ子なんですが、裸稼業には無くてならぬ刺青が出来ない。刺青をすれば死ぬと、医者から固く誡められているのです。
 前にも申す通り、この時代の職人や仕事師には、どうしても喧嘩と刺青との縁は離れない。とりわけて裸稼業の駕籠屋の背中に刺青がないと云うのは、亀の子に甲羅が無いのと同じようなもので、先ず通用にはならぬと云っても好いくらいです。いくら大きい店の息子株でも、駕籠屋は駕籠屋で、いざと云うときには、お客に背中を見せなければならない。裸稼業の者に取っては、刺青は一種の衣服きもので、刺青のない身体をお客の前に持出すのは、普通の人が衣服を着ないで人の前に出るようなものです。まあ、それほどで無いとしても、刺青のない駕籠屋と、掛声の悪い駕籠屋というものは、甚だ幅の利かないものに数えられている。清吉は好い男で、若い江戸っ子でしたが、可哀そうに刺青がないから、どうも肩身が狭い。掛声なんぞは練習次第でどうにでもなるが、刺青の方はそうは行かない。体質の弱い人間が生身なまみに墨や朱をすと、生命にかゝわると昔からきまっているんだから、どうにも仕様がない。
 背中一面の刺青ほりものをみて、威勢が好いとかいきだとかいう人は、その威勢の好い男や粋な大哥あにいになるまでの苦しみを十分に察してやらなければなりません。同じく生身をいじめるのでも、灸を据えるのとは少し訳が違います。第一に非常に金がかゝる。時間がかゝる。銭の二百や三百持って行ったって、物の一寸と彫ってくれるものではありません。又、どんなに金を積んだからと云って、一度に八寸も一尺も彫れる訳のものではありません。そんな乱暴なことをすれば、忽ちに大熱を発して死んでしまうと伝えられているのです。要するに少しずつ根気よく彫って行くのが法で、いくら焦っても急いでも、半月や一月で倶利迦羅紋々の立派な阿哥おあにいさんが無造作に出来上るというわけにも行かないのです。
 刺青師は無数の細い針を束ねた一種のさゝらのようなものを用いて、しずかに叮嚀に人の肉を突き刺して、これに墨や朱をだん/\にして行くのですが、朱を注すのは非常の痛みで、大抵の強情我慢の荒くれ男でも、朱入りの刺青を仕上げるまでには、鬼の眼から涙を幾たびかこぼすと云います。しかも大抵の人は中途できっと多少の熱が出て、飯も食えないような半病人になる。こんな苦しみを幾月か辛抱し通して、こゝに初めて一人前の江戸っ子になるのですから、どうして中々のことではありません。
 こんなわけだから、生きた身体に刺青などと云うことは、とても虚弱な人間のできる芸ではない。清吉も近来はよほど丈夫になったと人も云い、自分もそう信じているのですが、土台の体格が孱弱かよわく出来ているのですから、とても刺青などという荒行あらぎょうの出来る身体ではない。勿論、方々の医師いしゃにも診て貰ったが、どこでも申合わしたように、お前のからだには決して刺青なぞをしてはならぬ、そんな乱暴なことをすると命がないぞと、おどかすように誡められるのですが、当人はどうも思い切れないので、方々の刺青師にも相談してみたが、これも一応は清吉の身体をあらためて、お前さんはいけねえとかぶりをるのです。医師にも誡められ、刺青師にも断られたのだから、もう仕様がない。あたら江戸っ子も日蔭の花のように、明るい世界へは出られない身の上、これがいっしがない半端人足だったら、どうも仕方がないと諦めてしまうかも知れないが、なまじい相当の家に生れて、立派な大哥あにさん株で世間が渡られる身体だけになお/\辛いわけです。
 店に転がっている大勢の若い者は、みんなその背中を墨や朱で綺麗に彩色している。ある者は雲に竜を彫ってある。ある者はいわに虎を彫っている。ある者は義経を背負しょっている。ある者は弁慶を背負っている。ある者は天狗を描いている。ある者は美人を描いている。こういうのが沢山ごろ/\しているなかで、大哥と呼ばれる清吉ひとりが、生れたまゝの生白い肌を晒していると云うのは、幅の利かないことおびたゞしい。若い者だから無理はありません。清吉はひとに内証で涙を拭いていることもあったそうです。
 この初島の近処に梅の井とかいう料理茶屋があって、これも可なりに繁昌していたそうですが、そこの娘におきんちゃんというい女がいました。清吉とは一つ違いの十八で……。と云ってしまえば、大抵まあお話は判っているでしょう。まあ、なにしろそんなことで、お金清吉という相合傘が出来たと思ってください。両方の親達も薄々承知で、まあ出来たものならばゆく/\は一緒にしてやろう位に思っていたのです。芝居でするように、こゝで敵役のわる侍なんぞが邪魔に這入らないんですから、お話がちっと面白くもないようですが、どうも仕方がありません。ところが、こゝに一つの捫着もんちゃくが起った。と云うのは、なんでも或日のこと、その梅の井の門口で酔っ払いが二三人で喧嘩を始めたところへ、丁度に彼の清吉が通りあわせて、見てもいられないから留男に這入ると、相手は酔っているので何かぐず/\云ったので、清吉も癪に障って肌をぬいだ。すると、相手はせゝら笑って、「へん、刺青もねえ癖に、乙う大哥あにいぶって肌をぬぐな。」とか、なんとか云ったそうです。
 それを聞くと清吉はかっとなって、まるで気ちがいのようになって、穿いている下駄を把って相手を滅茶々々になぐり付けたので、相手も少し気を呑まれたのでしょう、おまけに酔っているから迚もかなわない。這々の体で起きつ転びつ逃げてしまったので、まあその場は納まりました。梅の井の家内の者も門に出て、初めからそれを見ていたのですが、その時に家の女房、即ちお金のおふくろがなんの気なしに、「あゝ、清さんも好い若い者だが、ほんとうに刺青のないのがきずだねえ。」と、こう云った。それがお金の耳にちらりと這入ると、これもなんだか赫として、自分の可愛い男に刺青のないと云うことが、恥かしいような、口惜いような、云うに云われない辛さを感じたのです。

       二

 勿論、清吉が堅気の人でしたら、刺青のないと云うことも別に問題にもならず、お金もなんとも思わなかったのでしょうが、相手が駕籠屋の息子だけにどうも困りました。お金のおふくろももとより悪気で云ったわけではない、ゆく/\は自分の娘の婿になろうという人を嘲弄するような料簡で云ったのではない、なんの気も無しに口が滑っただけのことで、それはお金もよく知っていたのですが、それでもなんだか口惜いような、きまりが悪いような、自分の男と自分とが同時に嘲弄されたように感じられたのです。それもおとなしい娘ならば、胸に思っただけのことで済んだのかも知れませんが、お金は頗る勝気の女で、赫となるとすぐに門口へかけ出して、幾らかおふくろに面当ての気味もあったのでしょう、「清ちゃん、なぜお前さんは刺青をしないんだねえ。」と、今や肌を入れようとする男の背中を、平手でぴしゃりと叩いたのです。
 事件は唯それだけのことで、惚れている女に背中を叩かれたと云うだけのことですが、何うもそれだけのことでは済まなくなった。前にもいう通り、梅の井の家内の者も大勢そこに出ている。喧嘩を見る往来の人もあつまっている。その大勢が見ているまん中で、自分の惚れている女に「刺青がない。」と云われたのは、胸に焼鉄やきがねと云おうか、眼のなかに錐と云おうか、兎にかくに清吉にとっては急処を突かれたような痛みを感じました。
 お金のおふくろは清吉やお金を嘲弄するつもりで云ったのではなかったが、お金の耳にはそれが一種の嘲弄のようにきこえる。お金も亦、清吉を侮辱するつもりでは無かったのですが、清吉の身にはそれが嘲弄のように感じられる。つまりは感情のゆき違いと云ったようなわけで、らでも逆上のぼせている清吉はいよ/\赫となりました。そうなると男は気が早い。物をも云わずにお金の島田をひっ掴んで、往来へ横っ倒しに捻じ倒すと、あいにくに水が撤いてあったので、お金は可哀そうに帯も着物も泥まぶれになる。それでも、利かない気の女だから倒れながら怒鳴りました。
「清ちゃん、あたしをどうするんだえ。腹が立つならいっそ男らしく殺しておくれ。」
 清吉はもう逆上のぼせ切っていたと見えて、勿論、ほんとうに殺す気でもなかったのでしょうが、うぬっと云いながら又ぞろ自分の下駄をったので、梅の井の人達もおどろいて飛び出して、右左から清吉を抱きすくめてしまったが、こうなると又おふくろが承知しない。
「清ちゃん、なんだってうちの娘をこんなひどい目に逢わせたんだえ。刺青ほりものが無いから無いと云ったのがどうしたんだ。お前さんはなんと思っているか知らないが、これはあたしの大事の娘なんだよ。指でも差すと承知しないから……。巫山戯ふざけた真似をおしでないよ。」
 お金と清吉との関係を万々承知ではあるけれども、自分の見る前で可愛い娘をこんな目に逢わされては、母の身として堪忍ができない。こっちも江戸っ子で、料理茶屋のおかみさんです。腹立ちまぎれに頭から罵倒こきおろすように怒鳴り付けたから、いよ/\事件は面倒になって来ました。清吉も黙ってはいられない。
「えゝ、撲ろうが殺そうが俺の勝手だ。この阿魔はおれの女房だ。」
「洒落たことをお云いでない。おまえさんは誰を媒妁人なこうどに頼んで、いつの幾日に家のお金を女房に貰ったんだ。神明様の手洗い水で顔でも洗っておいでよ。ほんとうに馬鹿々々しい。」
 おふくろは畳みかけて罵倒したのです。いくら口惜がっても清吉は年が若い、口のさきの勝負ではとてもこゝのおふくろに敵わないのは知れている。それでも負けない気になって二言三言云い合っているうちに、周囲まわりにはいよ/\人立ちがして来たので、おふくろの方でも焦れったくなって来た。
「お前さんのような唐人を相手にしちゃあいられない。なにしろ、お金はあたしの娘なんだからね。当人同士どんな約束があるか知らないが、お金を貰いたけりゃあその背中へ立派に刺青をしておいでよ。」
 おふくろは勝鬨のような笑い声を残して、奥へずん/\這入ってしまうと、お金はなんにも云わずに、つゞいて行ってしまった。取残された清吉は身顫いするほどに口惜がりました。
「うぬ、今に見ろ。」
 その足ですぐに駈け込んだのが源七老爺じいさんの家でした。老爺さんはその頃宇田川横町に住んでいて、近所の人ですからお互いに顔は知っていたのです。
 おなじ悪口でも、いっそ馬鹿とか白痴たわけとか云われたのならば、清吉も左ほどには感じなかったかも知れないのですが、ふだんから自分も苦にんでいる自分の弱味を真正面まともから突かれたので、その悪口が一層手ひどくわが身に堪えたのでしょう。源七にむかって、なんでもいから是非刺青ほりものをしてくれと頼んだのですが、老爺じいさんも素直にうんとは云わなかったそうです。
「お前さんはからだが弱いので、刺青をしないと云うことも予て聞いている。まあ、止したほうが可いでしょうよ。」
 こんな一通りの意見は、逆上のぼせ切っている清吉の耳に這入ろう筈がありません、じゃでも刺青をしてくれ、それでなければ男の一ぶんが立たない。死んでも構わないから彫ってくれと、斯う云うのです。源七も仕方がないから、まあ兎も角も念のためにその身体をあらためて見ると、なるほど不可いけない。こんな孱弱かよわいからだに朱や墨をすのは、毒を注すようなものだと思ったが、当人は死んでも構わないと駄々を捏ねているのですから、この上にもうなんとも云いようがない。それでも商売人は馴れているから、先ずこんなことを云いました。
「それほどお望みなら彫ってあげてもいが、きょうはお前さんが酔っているようだからおよしなさい。」
 清吉は酔っていないと云いました。今朝から一杯も酒を飲んだことはないと云ったのですが、源七はその背中の肉を撫でて見て、少しかんがえました。
「いえ、酒の気があります。酒を飲まないにしても、味淋の這入ったものを何かべたでしょう。少しでも酒の気があっては、彫れませんよ。」
 酒と違って、味淋は普通の煮物にも使うものですから、果して食ったか食わないか、自分にもはっきりとは判らない。これには清吉もちっと困った。
「味淋の気があっても不可ませんか。」
「不可ません。すこしでも酔っているような気があると、墨はみんな散ってしまいます。」
 刺青師が無分別の若者を扱うには、いつも此の手を用いるのだそうです。この論法で、きょうも不可いけない、あしたも不可ないと云って、二度も三度も追い返すと、しまいには相手も飽きて、来なくなる。それでも強情に押掛けてくる奴には、先ず筋彫りをすると云って、人物や花鳥の輪廓を太い線で描く。その場合にはわざと太い針を用いて、精々痛むようにちくり/\と肉を刺すから堪らない。大抵のものは泣いてしまいます。縦令よしんば歯を食い縛って堪えても、身体の方が承知しないで、きっと熱がる、五六日は苦しむ。これで大抵のものは降参してしまうのです。源七もこの流儀で、味淋の気があるを口実にして、一旦は先ず体よく清吉を追い返したのですが、なか/\この位のことで諦めるのではない。あくる日もその明くる日も毎日毎日根よく押掛けて来るので、源七老爺じいさんも仕舞には根負けをしてしまって、それほど執心ならば兎もかくも彫ってみましょうという事になりました。
 そこで源七は先ず筋彫りにかゝった。一体なにを彫るのかと云って雛形の手本をみせると、清吉は「嵯峨や御室おむろ」の光国と滝夜叉を彫ってくれと云う注文を出しました。おなじ刺青でも二人立と来ては大仕事で、殊に滝夜叉は傾城けいせいの姿ですから、手数がなか/\かゝる。無論、手間賃は幾らでもいゝと云うのですが、この男の痩せた生白い背中に、それほど手の込んだ二人立が乗る訳のものではないので、もうちっと軽いものをと色々に勧めたのですが、清吉はどうしても肯かない。是非とも「嵯峨や御室」を頼むと強情を張るので、源七はまた弱らせられました。併しあとで考えると、それにも一応理窟のあることで、彼のお金は一昨年おととしのお祭に踊屋台に出た。それが右の「嵯峨や御室」で、お金は滝夜叉を勤めて大層評判が好かったのだそうです。そう云う因縁があるので、清吉は自分の背中にも是非その滝夜叉を彫って貰いたいと望んだわけでした。
 源七もいよ/\根負けがして、まあなんでもい、当人の註文通りに滝夜叉でも光国でも彫ることにして、例の筋彫りで懲りさしてしまおうと云う料簡で、先ず下絵に取りかゝりました。それから例の太い針でちくり/\と突っ付きはじめたが、清吉は眼をつぶって、歯を食いしばって、じっと我慢をしている。痛むかと訊いても、痛くないと答える。それでも元来無理な仕事をするのですから、強情や我慢ばかりで押通せる訳のものではありません。半月も立たないうちに幾度もひどい熱が出て、清吉は殆ど半病人のようになってしまったが、それでも根よく通って来ました。
 当人の親たちも大変心配して、そんな無理をすると身体に障るだろうと、たび/\意見をしたのですが、清吉はどうしても肯かない。例の通り、死んでもかまわないと強情を張り通しているのだから、周囲まわりの者も手を付けることが出来ない。親たちも店の者もたゞ心配しながら日を送っているうちに、清吉はだん/\に弱って来ました。顔の色は真蒼になって、今年十九の若い者が杖をついて歩くようになった。それでも毎日かゝさず通って来るので、源七はその強情におどろくと云うよりも、なんだか可哀そうになって来ました。この上につゞけて彫っていれば、どうしても死ぬよりほかはない。最初からもう一月の余になるが、滝夜叉の全身の筋彫りがよう/\出来上ったぐらいのもので、これから光国の筋彫りを済まして、更に本当の色ざしを終るまでには、幾日かゝるか判ったものではない。清吉がその総仕上げまで生きていられないことは知れきっているので、なんとかしてこゝらで思い切らしたいものだと、源七も色々に考えていると、なんでも冬のなかばで、みぞれまじりの寒い雨が降る日だったそうです。清吉はもう歩く元気もない、殊に雨が降っているせいでもありましょう、自分の家の駕籠に乗せられて源七の家へ来ました。なんぼなんでもう見てはいられないので、半分死んでいるような清吉にむかって、わたしは医者ではないから、ひとの身体のことはよく判らないが、多年の商売の経験で大抵の推量は付く。おまえさんがこの上無理に刺青をすれば、どうしても死ぬに決まっているが、それでも構わずに遣る気か、どうだと云って、噛んで含めるように意見をすると、当人ももう大抵覚悟をしていたとみえて、今度はあまり強情を張りませんでした。
 この時に清吉は初めて彼のお金の一条をうちあけて、自分はどうしてもこの身体に刺青をして、梅の井の奴等に見せてやろうと思ったのだが、それももう出来そうもない。滝夜叉も光国も出来上らないうちに死んでしまうらしい。ついては「嵯峨や御室」の方を中止して、左の腕に位牌、右の腕に石塔を彫って貰いたいと、やつれた顔に涙をこぼして頼んだそうです。源七老爺さんも「その時にはわたしも泣かされましたよ。」とわたしに話しました。
 どうで死ぬと覚悟をしている人の頼みだから、源七も否とは云わなかった。その後も清吉は駕籠で通って来るので、源七も一生懸命の腕をふるって、位牌と石塔とを彫りました。それがようやく出来あがると、清吉は大変によろこんで、あつく礼を云って帰ったが、それから二日ほど経って死んでしまいました。初島の家から報せてやると、梅の井のお金もおふくろも駈けつけて来ましたが、今更泣いても謝っても追っ付くわけのものではありません。菩提寺の和尚様は筆を執って、仏の左右の腕に彫られている位牌と石塔とに戒名をかいて遣ったということです。
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