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土曜夫人(どようふじん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 10:12:15  点击:  切换到繁體中文


      七

 春隆を訪ねて来た陽子の玄関の声をきいた時、章三はなぜかはっとした。
 しかし、なぜはっとしたのか、その理由はあとで判ったが、その時は判らなかった。いや、自分がはっとしたことすら、気づいていたかどうか。
「聴いたような声だな」
 という、しびれるような懐しさも、はっきり意識の上へは浮び上っていなかったようだ。
「乗竹というと、あの乗竹……か」
 侯爵の乗竹とちがうかと、章三はきいた。そうよと、貴子はすかさずいったが、
「侯爵よ。侯爵の若様よ。いやな奴よ」
 と、畳みかける口調がふとぎこちなかった。
「来てるのか」
「いやな奴よ」
「いやな奴テ、どないいやな奴っちゃ……?」
「へんな女なんか、連れ込んで……。今来たのがそうよ。男は三十過ぎなくっちゃ、だめね」
 自分でもそれと気がつかぬ女の本能から、貴子は章三の手前、春隆をやっつけていたが、しかしまんざら心にもないことをいっているわけでもなかった。嘘の中に軽い嫉妬の実感はあったのだ。もっとも貴子は春隆をそんなに好いているわけでもなかった。真底から男に惚れるには、余りに惚れっぽいのだ。つまり、簡単な浮気の気持――だが、春隆には大した魅力を感じているわけでもなかった。ただ、貴族――それだけかも知れない。貴族も相場は下った。しかし、相場が下ったから、貴子のような女は近づいて行くのだ。パトロンのある女は、こんどは逆に自分より非力の男と浮気したがるものだ。春隆も、貴子の眼にはそれだけ相場が下ったのか、終戦後の輿論だろうが、一つには、げんに金払いがわるい。もっとも、貴子は貴族を軽蔑しているわけではなかった。貴子は自分の名に「貴」の一字があることを、つねにある種の誇りを持って、想い出していたのだ。
 章三は鈍感ではなかったから、貴子が春隆の悪口を余りにいいすぎることに気がついた。貴子という女は、めったに客の悪口をいったことがなかった。自分の店へ来る客はいわゆる上客ばかしだというのが、貴子の自慢で、パトロンの章三にはとくにそれを誇張していたくらいだ。
「なんや、こいつ侯爵に気があるのンか」
 章三は不機嫌な唇を噛んだまま、鉛のように黙ってしまった。
 そして三十分許りたった頃、いきなりバタバタと階段を降りる足音がして、靴を出してくれと、昂奮した女の声が聴えた。
「まア、そないお怒りにならんと、泊っとうきやす」
「履物どこですの……?」
「もう電車おへんえ。泊っとうきやす」
「帰ります。履物出して下さらないの?」
 章三ははっとして廊下へ出て行った。玄関の女は振り向いた。視線が合った。
「あ」
 女はいきなり、はだしのままで、玄関を飛び出して行った。――陽子だった。


    夜の花

      一

 四条通りを横切ると、木屋町の並木は、高瀬川のほとりの柳も舗道のプラタナスも急に茂みが目立った。
 田村の玄関をはだしのまま逃げ出して来た陽子は、三条の方へその舗道を下って行きながら、誰もついて来る気配のなかったのにはほっとしたが、章三を見た驚きは去らなかった。
「あたしはいつもあの男から逃げている!」
 小石があるせいか一層歩きにくいはだしを、情なく意識しながら、陽子はつぶやいた。
 陽子が東京の家を逃げ出して京都へ来ているのも、実は章三という男のせいだったのだ。
 陽子の父の中瀬古鉱三は、毒舌的な演説のうまさと、政治資金の濫費と、押しの強さで政界に乗り出していたが、元来一徹者の自信家で、人を小莫迦にする癖があり、成り上り者の東条英機などを、政界の軽輩扱いにして、鼻であしらい、ことごとに反撥したので、東条軍閥に睨まれて、軽井沢の山荘に蟄居し、まったく政界より没落していた。
 ところが、終戦直前のある日、鉱三崇拝者の山谷某が大阪から山荘を訪れて来て、同行の木文字章三という青年実業家を紹介した。
 陽子が茶を運んで行くと、章三は陽子には眼もくれず、ひとりぺらぺらと喋っていた。
「僕は儲けました。これからも儲けます。最近、ある化学的薬品を使えば、酢、醤油、ソース、いや酒までつくれるという簡単な醸造法の特許権を、安く買い取りました。日本もいよいよポツダム宣言で手を打つらしいでンな。そうなったら、大いに今言いました事業で儲けます。あんさんの時代も日本がポツダム宣言で手をあげたら、やって来ますな。政治資金のことなら、一つ僕に心配させて下さい」
 鉱三はあっけに取られていたが、やがて終戦になり、政界復帰の機が熟したと見ると、大阪へ電報を打った。
 章三は東京の鉱三の寄寓先へ飛んで来て、三百万円の小切手を渡すといきなり言った。
「先生、何か情報ありまへんか。僕のほしいのは早耳と、それから、お嬢さんです」
 いつの間に見染めたのか、陽子を妻にくれという章三の言葉は、鉱三を驚かせたが、しかし、小切手を背景にした章三の精悍な顔と、押しの強さは、鉱三の青年時代を想わせて、満更でもなかった。難になる家柄の点も、民主主義という言葉が、この際便利だった。
 まず妻を説き、それから陽子を説き伏せに掛ったが、陽子もやはり民主主義を言った。そして、親娘は言い争った。
「民主主義のために闘うというパパが、あたしにいやな人と結婚しろとおっしゃるの……?」
 言い過ぎたと思ったが、陽子はもう家を出る肚をきめていた。父ものっぴきならなかったが、陽子ももうせっぱ詰っていた。
 陽子はたれにも頼らず自活して行くむずかしさを思ったが、そのむずかしさが自分の能力を試すスリルだと、ひそかに家を出て京都へ来たのだ……。
 おそくまでともっている紅屋橋のほとりのしるこ屋の提灯ももう灯が消えて、暗かった。
 三条小橋まで来ると、陽子はうしろからいきなり肩を掴まれた。

      二

 陽子はどきんとした。どんな女でも、深夜の暗い道でいきなり肩を掴まれれば、はっとするだろうが、しかし、陽子は肩を掴まれたということよりも、掴んだ男が章三ではないかという予感の方がどきんと来たのだ。章三をそれほど怖れている自分が、不思議なくらいだった。
 田村をはだしで逃げ出したのも、そうだ。春隆の誘惑をのがれるために逃げるのだったら、堂々と靴を出させて、帰った筈だ。それだけの気位の高さは持っていたのだ。ところが、章三を見ると、もう靴どころではなく、はだしという、自尊心から言っても人に見せたくない醜態を演じてしまったとは、何としたことであろう。
 京都へ逃げて来ていることを、一番知られたくない章三に見つかってしまったという狼狽にはちがいなかったが、しかし、それも章三という男だけには、何かかなわないという気持があったからであろう。何かジリジリとした粘り強い迫力に、みこまれているようだった。だから肩を掴んだ背後の男を、章三だと……。しかし、振り向くと、巡査であった。
「何をしてるんだ……?」
「はア……?」
 咄嗟に意味は判らなかった。
「今時分、何をしてるんだと、きいとるんだ」
「歩いているんです」
 むっとして答えると、巡査もむっとして、
「歩いてることは判ってる。寝てるとは言っとらん。何のために歩いとるんだ……?」
「家へ帰るんです」
「家はどこだ……?」
「京都ホテルの裏のアパートです」
 章三に居所を知られたくないという無意識な気持から茉莉のアパートの所を言った。
「今時分まで、何をしとった……?」
「お友達のお通夜に行っていました」
「商売は何だ……?」
「お友達はダンサーです」
「お前の商売をきいとるんだ」
「ダンサーです」
「なぜ、はだしになっとるんだ……?」
 半分むっとした気持から、からかうような口調になっていた陽子も、しだいに気味悪くなって来た。夜おそく歩いていて、闇の女と間違えられて、拘引された女もいるという。
「踊ると、足がほてって仕方がないんです。電車があれば、靴をはいて帰りますが、歩くのははだしの方が気持がいいんです」
「靴はどうした……? 持っとらんじゃないか」
「お友達のアパートへ預けて来ました」
「どこだ、そのアパート」
「京都ホテルの……いいえ、丸太町です」
「丸太町から来たのなら、逆の方向に歩いてる筈だ。来い!」
 巡査はいきなり陽子の腕を掴むと、三条大橋の方へ連れて行った。
 橋のたもとには、女を一杯のせたトラックが待っていて、どれもこれも闇の女らしかった。

      三

 検挙した闇の女を警察へ送るトラックであることは、一眼で判った。
「違います。あたしは……」
 商売女ではないと、陽子は言いかけたが、巡査はそれには答えず、
「そら一丁!」
「よし来た!」
 トラックの上の声が応じて、陽子はまるで荷物のように簡単に、積み上げられてしまった。
 橋のたもとの街燈は、ガス燈のように青白く冴えて、柳の葉に降り注ぐ光の中を、小さな虫が群がって泳いでいた。陽子はトラックの上からふっとそれをながめた途端、気の遠くなるような孤独を感じた。
 加茂川のせせらぎの単調なあわただしさは、何か焦躁めいた悔恨の響きを、陽子の胸に落していたが、やがてそれがエンジンの騒音に消されて、トラックが動き出した。
 橋を渡ると、急にカーブした。途端に陽子は茉莉を想い出した。
 陽子がダンサーになったのは、茉莉と知り合ったからであった。しかし、直接の動機はロマンティックなものではない。実は、家出して京都で宿屋ぐらしをしているうちに、二月の金融非常措置令の発表という殺風景な事情が、陽子をダンサーにしたとも言えよう。
 家の方へは行先を隠し、また京都では素姓を隠す必要上、陽子は転入証明も配給通帳もわざと持って来なかった。だから、旧円を新円に替えることも、通帳から生活資金を引き出すことも出来なかった。旧円流通の期限が来ると、宿賃はおろか電車にも乗れないと、陽子は狼狽した。
 新聞には、鉱三の封鎖反対論が出ていた。陽子は身にしみて同感だったが、しかし、一月前の父は、インフレ防止のためには封鎖策よりほかにないと、会う人毎に喋っていた筈だ――と想い出すと、一徹者だった父も選挙の成績をよくするためには、清濁ばかりか、黒も白も一緒に呑んでしまうようになるのかと、不可解な気がした。それが利口なのか利口でないのか、判らなかったが、父も鳩山一郎と共に何かタガがゆるんだような気がして、尻尾をまいて帰る気になれなかった。
「あたしの家出が封鎖のためにオジャンになったと判れば、パパは封鎖賛成論に逆戻りするかも知れないわ」
 皮肉だけはつぶやいたが、しかし、たまたまセットに行った美容院で、茉莉と知り合い、相談を持ちかけた時は、全く途方に暮れていたのだ。
 陽子は十五の年からダンスを知っていたし、好きでもあった。が、ダンサーをして新円を稼いで行くことを、陽子の自尊心が許したのは、ホールの環境に汚れずに、溺れるくらいダンスが好きでありながら、毅然として純潔を守って行く茉莉の自信の強さに刺戟されたからであった。
 だから、陽子は茉莉がたよりであり、茉莉の死が陽子を全く孤独な気持に陥しいれたのもそのためだ。茉莉も陽子をたよっていた。
「それだのに、あたしはお通夜に行ってあげられない」
 取りかえしのつかぬ二重の想いに揺れているうちに、やがてトラックは警察署についた。

      四

 トラックから降りると、陽子はそのまま闇の女たちと一緒に、留置場へ入れられた。
 深夜の町をはだしで歩いていたというだけでも、疑われるのは無理もないと諦めていたが、しかし、警察へ行けばすぐ釈放されるだろうと、楽観もしていた。
 それだけに、留置場の狭い穴をくぐった時は、泣けもしない気持だった。身動きも出来ない狭さや、不潔さや、いやな臭気もたまらなかったが、何よりも茉莉のお通夜に行けなくなったことが、情なかった。
 それもみな、田村なぞへ行ったからだと、今更の後悔と一緒に、京吉の顔がうかんだ。
「田村はよせ、行くな!」
 と、京吉も停めたし、お通夜も気になったし、素姓をかぎつけたのを好餌にして釣ろうという春隆のワナは月並みで俗悪だったから、余りに見えすいてもいた。
 ところが、わざわざそのワナの中へ飛び込んで行ったのは、むろん春隆に口止めさせるためであった。
 京都でダンサーをしているという秘密が春隆の口から洩れて父の耳にはいれば、強引につれ戻されるおそれはあったし、それに家出生活の辛さを我慢している気持の中には、誰も自分の素姓を知らないというひそかなスリル感があった。新聞の種になってしまっては、もうつまらないし、父の政治的人気に疵がつくという心配もあった。
 一つには、京吉が命令するように停めたということへの、天邪鬼の反撥が、陽子の足を田村へ向けたのだ。
 しかしまた、それと同じ天邪鬼が、田村へ行く時間を出来るだけ伸ばして、春隆を待たせてやろうという気持を、ふと起させた。
「お願いです。誰にもおっしゃらないで……」
 と、思わず哀願したホールでの、みじめに狼狽した自分をそのまま持って行きたくなかったのだ。必ず来るという春隆の自信にも一応反撥したかったのだ。待たせる方が有利だという、女特有の本能も無意識に働いていた。
 だから陽子は十番館を出た足で、まず近くのすし常という店へわざわざ寄って行った。
 すし常の主人は変った男で、毎晩ホールへ行ってラストまで踊り、帰ってからそろそろ店をあけて、すしを握るのだが、準備に暇が掛るので、ホール帰りのダンサーがわざと遅く行っても、大分待たされる。しかし、やはりダンサーの常連が多いのは、この店の主人からチケット代りに無料でくえるすし券を貰うからであろう。
 やっとすし常を出ると、陽子は田村へ行ったが、案内されてはいった時の春隆の部屋は、煙草のけむりが濛々として、待たせた時間の長さを思わせていた。
 ――と、そんなことまで今陽子が想い出したのは、ちょうど陽子の隣りに膝をかかえて坐っている若い娘が、留置場の中へいつの間に持ってはいったのか、急に煙草を吸い出したからであろうか。
「姉ちゃん、一口吸わしたげよか」
 浴衣をだらんと着たその若い娘は、陽子へ話し掛けて来た。チマ子だった。

      五

「あたし……? いらないわ」
 陽子が断ると、チマ子は吸い掛けの煙草を突き出して、
「遠慮せんでもええわ。はよ吸わんと、日本の煙草すぐ消えるさかい……」
 留置されている娘とは思えなかった。
「いいのよ。あたし喫めないのよ」
「へえん……? 真面目やなア」
 チマ子のその言葉に、陽子は微笑した。
 実は田村へ行った時、春隆も同じような言葉を言った――それを、想い出したのである……。
「煙草いかがです。どうぞ」
「喫めませんの、あたし……」
「本当……? 真面目だなア」
 そう春隆は言ったが、ビールの瓶は持って、
「――しかし、この方なら……」
「あら、いただけませんの」
「そうですか。じゃ、無理にすすめちゃ悪いから……しかし本当に飲めないんですか。少しぐらいなら……、飲むんでしょう……? 半分だけ……注ぐだけです。悪いかな、飲ましちゃ。僕も好きな方じゃないんです」
 細かい神経を働かせながら、さすがに粘りも見せて、一人ペラペラ薄い唇を動かせていた。
「東京へお行きになるんですの?」
「ええ、明日」
「お行きになっても、あたしのこと誰にもおっしゃらないで下さいません……?」

「今夜のこのこと……?」
 春隆はもううぬぼれていた。
「いいえ、ホールでおっしゃったこと……」
「ああ、あのこと……」
「もし誰かに知れると、あたしまた姿をくらまさなくっちゃなりませんわ。そしたら、十番館で踊っていただけなくなりますわねえ」
 これくらいの殺し文句は、陽子も使えるくらい、――頭がよかった。
「いや、大丈夫ですよ。あはは……。二人っきりの秘密にして置きましょう。じゃ、かん盃!」
「だめですの。本当に……」
「そうですか。じゃ、食事……」
「済んで来ましたの」
 それで遅かったのか、誰と食べて来たのかと、春隆は興冷めしたが、しかし、陽子の来た時間が遅かったのは、もっけの幸いだと思った。女中を呼んで、
「くるま呼べる……? くるまなければ、この方帰れないんだ」
「今時分、おくるまなンかおすかいな」
 あっては困る春隆のはらを、むろん女中は見ぬいていて、これは上出来だったが、余り心得すぎて、春隆がだんだんに陽子をひきとめる技巧を使おうと思っているのも知らず、あっという間に、さアどうぞと別室の襖をあけてしまった。
 行燈式のスタンド、枕二つ並んでいる。今見せてはまずい! と春隆が眉をひそめた途端、陽子はいきなり部屋を飛び出してしまったのだ。帰るきっかけをなくしかけていた陽子にとっては、女中が申し分のないきっかけを与えてくれたようなものだが、しかし、そのあとが……廊下の章三、はだし、巡査、留置場……。
「ああ、いやな土曜日!」
 思わず額をおさえていると、
「姉ちゃん、飴あげよか」
 チマ子がまた話し掛けて来た。

      六

 陽子はあきれてチマ子を見た。
 兵児帯は留置される時に、取られたのであろう。だらんとはだけた浴衣の裾は立てた膝にまきつけていても、すぐみだれ勝ちになるのだが、それが案外だらしなく見えなかったのは、白粉気のない皮膚の清潔さと、青み勝ちに澄んだ眼の、怜悧そうな光のせいであろう。にやっと笑ってうかべたエクボには、あどけない少女も感じられた。
「こんな可愛いい子が……」
 煙草や飴玉をひそかに留置場へ持ってはいっている大胆不敵さに、陽子は驚いたのだ。
「トラックに乗ってる間に、浴衣の縫込みへこっそり入れといたってン」
 チマ子はペロリと舌を出して、素早く陽子に飴玉を渡した。陽子は茉莉を想い出した。
「姉ちゃん、ブラックガールのわりにきれいな」
「ブラックガール……?」
 すぐに意味が判らなかったが、
「――ああ。ちがうのよ。間違えられたのよ」
「そうやろと思った」
 チマ子は留置場の中を見廻して、
「――そこらにいる奴と大分ちがうと思った。あそこにいる女、あれ常習犯で病院へ入れられとったのに、毎晩こっそり逃げ出して、商売しとってん。病院にいると、親が養われへんそうや。まず親の働き口から見つけたらんと、あの女の病気いつまでたっても癒れへん。うちが警察やったら、あの女が入院してる間、毎日五十円ずつやる。ほな、あの女も安心して病気癒す気になるやろ。けど、巡査でも一日五十円月給取ってるやろかなア」
「そうね。――あんた頭いいじゃないの。政治家より頭いいわ」
「うちが頭よかったら、日本中みな頭ええわ。たれかテこないしたらええいうこと、判ってる。政治家かテ阿呆ばっかしと違う。けど、政治家が日本中の人間の一人一人のことを考えてたら、演説してまわるひまもないくらい、忙しいさかいに、だれのことも考えんと、自分のことばっかし考えてるンやろ。――うちは阿呆や、阿呆やなかったら、泥棒みたいなもンせえへん。しても、ドジ踏めへん」
「あんた泥棒したの……?」
「うん、下手売ったワ」
 と、与太者の口調になって、
「――監獄にいたはるお父さんを助けたげよ思って、娘が泥棒するなんテ、トックリ味噌つめるより、まだ阿呆や。けど、壺がなかったから、トックリにつめな仕様がない」
「一体、何を盗んだの……?」
「写真機!」
「ふーん」
 陽子はふと木崎を想い出し、そこが留置場だということをいつか忘れていた。
「あんまりええ写真機持っとるさかい、こんなン盗んだったかテ構めへんやろ思って、アパートまでついて行って、笑って来たってん。ほな、掴まってン」
「笑う……?」
「笑ういうたら、盗むこっちゃ」
 そして、ケタケタとチマ子は笑った。

      七

「喧しいな。ええ加減におしやす」
 長い体を持て余して、窮屈そうにゴロンゴロン寝ていた痩せぎすの女が、チマ子の笑い声に眉をひそめた。
 留置場の鈍い灯が、左の眉毛の横に出来たコブを、青く照らしている。そのコブがゴム脹だとすれば、もういまわしい毒が末期へ来ているのかも知れない。
 水銀を飲まされたようなしわがれた声で、
「――豚箱へはいって、面白そうに笑う人がおすか。――喧しゅうて眠られへん」
「きつうきつう堪忍どっせ」
 チマ子はわざとらしい京都弁で言ったが、すぐ大阪弁に戻り、
「――喧しかったら、独房へはいったらええやないの。ここはあんた一人の留置場とちがう。無料宿泊所や、贅沢いいな!」
「何やテ、もう一ぺん言うとオみ!」
 と、女はむくりと起き上って、
「――わてを誰や思ってンにヤ……?」
 仏壇お春のあだ名を持った、私娼生活二十年という女だった。
 今はどうサバを読もうと思っても、四十以下には言えぬくらい老けてしまったが、若い頃はこれでも自分に迷って先祖の仏壇を売った男もいるくらい、鳴らしたものだ、四条の橋の上に張店みたいに並んだ何とかガールのお前のような女とは、ものが違うのだ――というお春の言葉は、陽子の耳をあかくさせたが、チマ子は負けずに言いかえした。
「あんたが仏壇お春やったら、うちは兵児帯おチマや。兵児帯おチマは喧嘩は売っても、体は売れへん。――年をきいたら笑って十七、可愛いあの子は兵児帯おチマ、喧嘩は売っても、体は売らぬ――とセンターでフライが唄うてるのを、あんた知らんのンか」
 三条河原町から四条、京極へかけて、京都の中心(センター)で、天プラ(フライ)の不良学生たちが唄っている唄を、チマ子は口ずさんだが、急にあーあと、自嘲めいた声になると、
「――ほんまに、うちのような娘を持った親はえらい災難や」
 その言い方にみんな笑った。お春も笑いながら、よれよれの背中を向けて、横になったが、留置場の床の痛さに骨ばった自分の体を感じた途端、お春はふと母親を想った。母親はもう七十、あと三年ももつまいが、しかし、自分の体が稼げなくなる時は、それよりも早く来るのではなかろうか。
 女が女である限り、どんなに醜くても、汚くても、たとえ五十を過ぎても、男相手に稼いで行ける――というお春の自信も、病気のまわった体を思えば、にわかに心細い。
「みんな、わてみたいになるンどっせ。しまいには、骨だけしか売るもンがない」
 あーあとお春も奇妙な溜息をついたが、もうだれも笑わず、何かしーんと黙って、うなだれてしまった。
 チマ子はしかしキラッと眼を光らせて、いきなり陽子の耳に口を寄せて来た。
「姉ちゃん、うちの頼み、きいてくれはる……?」

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