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最古日本の女性生活の根柢(さいこにほんのじょせいせいかつのこんてい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-29 16:04:39  点击:  切换到繁體中文


     二 君主――巫女

 大化の改新の一つの大きな目的は、政教分離にあった。そう言うよりは、教権を奪うことが、政権をもとりあげることになるというところに目をつけたのが、この計画者の識見のすぐれていたことを見せている。
 村の大きなもの、郡の広さで国と称した地方豪族の根拠地が、数えきれないほどあった。国と言うと、国郡制定以後の国と紛れやすいゆえ、いまこれを村と言うておこう。村々の君主は、しだいに強い村の君主に従えられてゆき、村々は大きな村の下に併合せられていって、大きな村の称する国名が、村々をもめてしまうことになった。秋津洲あきつしま磯城島しきしまやまと、みな大和平原における大きな村の名であった。他の村々の君主も、大体において、おなじような信仰組織を持って、村をべていた。倭宮廷の勢力が、村々の上に張ってくると、事大の心持ちから、自然にいよいよ似よったものになってきたであろう。
 村の君主は国造くにのみやつこと称せられた。後になるほど、政権の含蓄がこのことばに乏しくなって、教権の存在を感じるようになっていったようである。国造と称することを禁じ、村の君主の後をすべて郡領こおりのみやつこと呼びかえさせ、一地方官吏とみなすことになっても、なおひそかに国造と称するものが多かった。平安朝になっても、政権に関係なく、村々の君主の祀った神を、子孫として祀っている者には、国造の称号を黙認していたようである。出雲国造・紀国造・宗像ムナカタ国造などの類である。倭宮廷でも、天子自ら神主として、神に仕えられた。村々の君主も、神主として信仰的に村々に、勢力を持っていたのである。
 神主の厳格な用語例は、主席神職であって、神の代理とも、象徴ともなることのできる者であった。神主と国造とは、ほとんど同じ意義に使われていることも多いくらいである。村の神の威力を行使することのできる者が、君主として、村人に臨んだのである。村の君主の血縁の女、娘・妹・叔母などいう類の人々が、国造と国造の神との間に介在して、神意を聞いて、君主のために、村および村人の生活を保つさまざまの方法を授けた。その高級巫女の下に、多数の采女ウネメという下級巫女がいた。
 この組織は、倭宮廷にもそなわっていた。神主なる天子の下に、神に接近して生活する斎女王いつきのみこといふ高級巫女が、天子の近親からえらばれた。伊勢の斎宮に対して、後世賀茂の斎院のできたことからみれば、本来は主神に仕える皇族女子のほかにも、有力な神に接する女王の巫女があったことは考えられる。そうしてこの下に、天子の召使とも見える采女ウネメがいた。宮廷の采女は、郡領の娘をして、ある期間宮廷に立ち廻らせられたものである。采女は単に召使のように考えているのは誤りで、実は国造における采女同様、宮廷神に仕え、兼ねてその象徴なる顕神アキツカミの天子に仕えるのである。采女として天子の倖寵こうちょうを蒙ったものもある。これは神としての資格においてあったことである。采女は、神以外には触れることを禁ぜられていたものである。
 同じ組織の国造の采女の存在、その貞操問題が、平安朝の初めになると、宮廷から否定せられている。これは、元来なかった制度を、模倣したと言わぬばかりの論達であるが、実は宮廷の権威にかかわると見たためであろう。このことは、日本古代に初夜権の実在した証拠になるのである。村々の君主の家として祀る神のほかにも、村人が一家の間で祀らねばならぬ神があった。庶物にくっついて常在する神、時を定めて来臨する神などは、家々の女性が祀ることになっていた。
 これらの女性が、処女であることを原則とするのはもちろんであるが、それは早く破れて、現に夫のない女は、処女と同格と見た。しかもそれは二人以上の夫には会わなかったものという条件があったようである。それがさらにくずれて、現に妻として夫を持っている者にも、巫女の資格は認められていたと見える。「神の嫁」として、神にできるだけ接近してゆくのが、この人々の為事しごとであるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である。斎女王も、処女を原則としたが、なかには寡婦を用いたこともある。
 しかし、このいま一つ前の形はどうであろう。村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。魏志倭人伝の邪馬台ヤマト国の君主卑弥呼ヒミコは女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功じんぐう皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、日本紀を見れば知られることである。万葉人の時代でも、女帝にはことに、宗教的色彩が濃いようである。喜田博士が発見せられた女帝を中天皇ナカツスメラミコト(万葉には中皇命)と言うのも、博士の解説のように男帝への中継ぎの天子という意でなく、宮廷神と天子との中間に立つ一種のすめらみことの意味らしくある。古事記・日本紀には天子の性別についても、古いところでは判然せない点がある。そういうところは、すべて男性と考えやすいのであるが、中天皇の原形なる女帝がなお多くあらせられたのではあるまいか。
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王同様の為事をして、聞得大君キコエウフキミ(ちふいぢん)と言うた。しょう家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下に当るのろ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴ほうふつさせるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。

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