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舞台の言葉(ぶたいのことば)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-30 19:36:20  点击:  切换到繁體中文

底本: 日本の名随筆70 語
出版社: 作品社
初版発行日: 1988(昭和63)年8月20日
入力に使用: 1988(昭和63)年8月20日第1刷


底本の親本: 新しき演劇のために
出版社: 創元社
初版発行日: 1952(昭和27)年1月

 

 舞台の言葉、即ち「劇的文体」は、所謂いわゆるせりふ(台詞)を形造るもので、これは、劇作家の才能を運命的に決定するものである。
 普通「対話」と呼ばれる形式は、文芸のあらゆる作品中に含まれ得る文学の一技法にすぎないが、これが「劇的対話」となると、そこに一つの約束が生じる。それはつまり、思想が常に感情によつて裏づけられ、その感情が常に一つの心理的韻律リズムとなつて流動することである。甲の白が乙の白によつてより活かされてゐることである。「心理的飛躍に伴ふ言葉の暗示的効果」が、最も細密に計画されてゐることである。
 これは、「自然な会話」と何も関係はない。この「自然な会話」が、「劇的対話」と混同されたところに、写実劇の大きな病根がある。ことに日本現代劇の大きな病根がある。「自然な会話」の総てが悪いのではない。「平凡な会話」が「自然なる」が故にしとされたところに、危険がひそんでゐる。
「今日は」
「いらつしやい。だれかと思つたらあなたですか」
「よく雨が降りますな」
「ほんとによく降りますな」
「みなさんお変りありませんか」
「はい、有りがたうございます、お蔭さまでみんなぴんぴんしてゐます。ところで、お宅の方は如何です。さうさう、奥さんがどこかお悪いとかで……」
「なあに、大したことはないんですよ。医者は脚気だと云ふんですが、何しろ、あの気性ですから、少しいいと、すぐ不養生をしましてね」
「それは御心配ですな。どうも脚気といふやつは……」
 かういふ種類の白は、一時、いやでも、おほ方の脚本中に発見する白である。こんな月並なことをくどくどと喋舌られてゐては、聞いてゐるものがたまらない。
「自然な会話」必ずしも、上乗な「劇的対話」でないことはこの通りであるが、その中に何も劇的事件がないからだ、内容がないからだと云ふかもしれない。
 それもたしかに一つの理由である。然し、そんならこれはどうだ。
「今日は」
「おや、こいつはお珍らしい」
「降りますね、よく」
「どうかしてますね」
「みなさん、お変りは……」
「ええ別に……。ところで、奥さんがどつかお悪いつていふぢやありませんか」
「なあに、大したことはないんです。脚気だと云ふんですが、何しろ、あの気性でせう、無理をするんです、少しいいと」
「無理をね……。脚気か……こいつ」
 前と同じ場面、同じ人物である。云つてゐることも違はない。文句を少し変へただけである。
 それだけで、既に多少「月並」でなくなつてゐると思ふ。会話が生きてゐる。より「劇的対話」になつてゐる。舞台の言葉になつてゐる。この二つの面の優劣は、さほど格段の差に於て示されてゐないことは勿論であるが、少しでもそれが認められれば、それでいい。
 この相違は、優劣はどこから来るか。前の方は、言葉そのものの印象イメエジがぼんやりしてゐる。言ひ換へれば、大抵の人間が、大抵の場合に、ほとんど無意識にさへ口にする言葉使ひである。従つて心理の陰影が稀薄である。特殊な人物の、特殊な気持が、はつきりつかめない。つかめても、それに興味がもてない。つまり、お座なりといふ感じが退屈を誘ふ。機械的といふ感じが、韻律の快さと反対なものを与へる。感情の飛躍がないから注意力を散漫にする。
 これは単に一例にすぎないが、もつと複雑な心理や、重大な事件を取扱つた場面でも、これに似た表現上の欠陥が、人物の対話を「非舞台的」にしてゐることは事実である。実生活の断片、これほど自然な場面はない筈であるが、同時に多くの場合、これほど非芸術的な場面はないと云つてもいい。殊に現代日本人の生活に於て、この感が愈々いよいよ深い。
 舞台の上の巧みな対話、これは、現実の整理によつて初めて得られるものである。一見、こんな気のきいた対話が、この人物に出来る筈はないと思はれるやうな対話が、舞台上では、あたり前の「日常会話」になり、見物を退屈させないやうな「日常の会話」、それが満足に書けて、初めて劇作家は劇を書くことができるのである。人物にある議論をさせる場合、ある述懐をさせる場合、ある説明をさせる場合、ある哀訴をさせる場合、いづれも、この「呼吸」が必要である。議論そのもの、述懐そのもの、説明そのもの、哀訴そのものが、戯曲の一節として、何も妨げになるものではない。一時排斥された独白さへも、それが立派な「劇的文体」によつて語られる場合には、優れた一つの「劇的場面」となり得るのである。舞台の上で読む「手紙」さへも、この心掛けで書かなければならない。
 今まで、主として、写実的な場面について論じたやうな形になつたが、もともとこの写実といふことが、既に現実の複写ではないのであるから、現実整理の筆を更に現実修正の域に押し進めることは、作者の趣味、才能によつて如何なる程度までも許さるべきである。現実修正は更に現実変形、現実拡大、現実様式化に押し進めることもできる訳である。ただその根柢に、その核心に、飽くまでも実人生の姿が潜められてゐなければならないことは、文芸の本質から云つて当然なことである。これはもう、「表現」以前の問題である。制作過程の出発点である。従来わが国に紹介せられた外国劇が、日本現代劇を本質的に発達させ得なかつた理由として、その翻訳が単に劇の思想乃至ないし形式のみを伝へるに止まつて、真の「劇的美」を形造る一要素、即ち「文体のもつ戯曲的魅力」を等閑に附してゐたといふ一事を前章にも一寸述べておいたのであるが、これはもう一度繰返して云ふ必要がある。
 ここでその翻訳の例を挙げることは容易であるが、自分の経験から云つても、かつてイプセンの邦訳(誰のだつたか忘れたが)を読んで、当時多くの人々と共に少からず感心し、なるほど、近代劇の巨匠と云はれる筈だ、これは天才に違ひないとひとり大いに悦に入つてゐたところが、間もなく同じ作者の同じ作品を、仏語訳で読み返して見て、殆ど別なものであると云ふ感じを受けた。邦訳は、無論そんなに悪いものではないと思つてゐたにも拘はらず、仏訳を読んだ時の、あの感動は、実に名状し難きほどのものであつた。これはまた、とても素敵なものだ。どうしてどうして、邦訳で読んだ時のイプセンは、いはば、餡をさらつた饅頭のやうなものであることがわかつた。翻訳劇といふものは、さては中味のない饅頭だな、うつかりしてゐてはいけない、と私は思つた。

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