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我牢獄(わがろうごく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-31 11:05:54  点击:  切换到繁體中文

底本: 現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1969(昭和44)年6月5日
入力に使用: 1985(昭和60)年11月10日初版第15刷
校正に使用: 1977(昭和52)年4月20日初版第7刷

 

もし我にいかなる罪あるかを問はゞ、我は答ふる事を得ざるなり、しかれども我は牢獄のうちにあり。もし我を拘縛こうばくする者の誰なるを問はゞ、我は是を知らずと答ふるの外なかるべし。我は天性怯懦けふだにして、強盗殺人の罪を犯すべき猛勇なし、豆大の昆虫をそこなふても我心には重き傷痍しやういを受けたらんと思ふなるに、法律の手をして我を縛せしむる如きは、いかでか我がし得るところならんや。政治上の罪は世人のうらやむところと聞けど我は之を喜ばず、一瞬時いちじの利害に拘々こう/\して、空しく抗する事は、余の為すあたはざるところなればなり。我はらず、我は悟らず、如何いかなる罪によりて繋縛の身となりしかを。
 然れども事実として、我は牢獄のうちにあるなり。今更に歳の数をかぞふるもうるさし、かくに我は数尺の牢室に禁籠きんろうせられつゝあるなり。我が投ぜられたる獄室は世の常の獄室とは異なりて、全く我を孤寂に委せり、古代の獄吏も、近世の看守も、我が獄室を守るものにあらず。我獄室の構造も大に世の監獄とはたがへり、先づ我が坐する、否坐せしめらるゝ所といへば、天然の巌石にして、余を囲むには堅固なる鉄塀あり、余を繋ぐには鋼鉄の連鎖あり、之に加ふるに東側の巌端には危ふく懸れる倒石ありて我をおびやかし、西方の鉄窓には巨大なる悪蛇を住ませて我を怖れしめ、前面には猛虎のをりありて、我室内に向けて戸を開きあり、後面には彼の印度あたりにありといふ毒蝮どくまむしの尾の鈴、断間たえまなく我が耳に響きたり。
 我は生れながらにして此獄室にありしにあらず。もしこの獄室を我生涯の第二期とするを得ば、我はたしかに其一期を持ちしなり。その第一期に於ては我も有りと有らゆる自由をち、行かんと欲するところに行き、とゞまらんと欲する所に住まりしなり。われはこの第一期と第二期とのはなはだ相懸絶する者なる事を知る、即ち一は自由の世にして、他は牢囚の世なればなり、然れどもくも懸絶したるうつりゆきを我は識らざりしなり、我をとらへたるものゝ誰なりしやを知らざりしなり、今にして思へば夢と夢とが相接続する如く、我生涯の一期と二期とは※(「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2-12-81)ぼう/\たるうちにうつりかはりたるなるべし。我は今この獄室にありて、想ひを現在に寄すること能はず、もし之を為すことあらば我は絶望の淵に臨める嬰児なり、然れども我は先きに在りし世を記憶するが故に希望あり、第一期といふ名称は面白からず、是を故郷と呼ばまし、然り故郷なり、我が想思の注ぐところ、我が希望の湧くところ、我が最後をかくるところ、この故郷こそ我に対して、我が今日の牢獄を厭はしむる者なれ、もしわれに故郷なかりせば、もしわれにこの想望なかりせば、我は此獄室をもて金殿玉楼と思ひしつゝ、たのし娑婆しやば世界と歓呼しつゝ、五十年の生涯、誠に安逸に過ぐるなるべし。
 我は我天地を数尺の大さと看做みなすなり、然れども数尺と算するも人間のわざに外ならず、之を数万尺と算ふるも同じく人間の業なり、要するに天地の広狭は心の広狭にありて存するなり、然るに怪しくも我は天地を数尺の広さとして、己れが坐するところを牢獄と認む、然り牢獄なり、人間の形せる獄吏は来らずとも折々に見舞ひ来るもの、是れ一種の獄吏に外ならず、名誉是なり、権勢是なり、富貴是なり、栄達是なり、是等のもの、我に対する異様の獄吏にてあるなり。
 彼等は我に対しては獄吏と見ゆれども、或一部の人には天使の如くにあるなり、彼等が人々を折檻せつかんする時に、人々は無上の快楽を感ずるなり、我眼わがめ曇れるか、彼等の眼ひたる、之を断ずる者は誰ぞ。
 デンマルクの狂公子を通じて沙翁さをうの歌ひたる如くに、我は天と地との間をひめぐる一痴漢なり、崇重そうちようなる儀容をなし、威厳ある容貌を備へ、く談じ、能く解し、能く泣き、能く笑ふも、人間はつひに何のたはれごとなるべきやを疑へり、然り、我が五十年の生涯に万物の霊長としてほこるべき日は幾日あるべき、我は我をひくうするにあらず、我自ら我を高うせんとするにもあらず、唯だ我が本我のいかに荘厳を飾らしむるも、遂に自らをあざむくに忍びざるなり。
 我は如何に禅僧の如くに悟つてのけんと試むるとも、我が心宮を観ずること甚深なればなるほど、我は到底悟つてのけること能はざるを知る、風流の道も我を誘惑する事こそあれ、我をして心魂をゆだねて、趣味と称する魔力に妖魅えうみせらるゝに甘んぜしめず。常におもへらく、人間はいかにいかなる高尚の度に達するとも、畢竟ひつきやうするに或種類の偶像に翫弄ぐわんろうせらるゝに過ぎず、悟るといふも、悟ること能はざるが故に悟るなり、もし悟るといふことを全然悟らざるといふ事に比ぶれば、多少は静平にして澹乎たんこたる妙味ありといへども、是も一種の階級のみ、人間は遂に、多く弁ぜざれば多く黙し、多く泣かざれば多く笑ひ、一の偶像に就かざれば他の偶像を礼す、一の獄吏に笞責ちせきせられざれば他の獄吏の笞責に遭ふ、これも是非なし、獄吏と天使とを識別すること能はざる盲眼をいかにせむ。
 しきかな、我は吾天地を牢獄と観ずると共に、我が霊魂の半塊を牢獄の外に置くが如き心地することあり。牢獄の外に三千乃至ないし三万の世界ありとも、我には差等なし、我は我牢獄以外を我が故郷と呼ぶが故に、我が想思の趣くところは広濶くわうくわつなる一大世界あるのみ、而して此大世界にわれは吾が悲恋を湊中そうちゆうすべき者を有せり。捕はれてこの牢室に入りしより、すべての記憶は霧散し去り、己れの生年をさへ忘じ果てたるにもかゝはらず、我は一個の忘ずること能はざる者を有せり、たゞに忘ずること能はざるのみならず、数学的乗数を以て追々に広がり行くとも消ゆることはあらず、木葉このはは年々歳々新まり行くべきも、我が悲恋は新たまりたることはなくしていや茂るのみ、江水は時々刻々に流れ去れども、我が悲恋はよどみよどみて漫々たる洋海をなすのみ、不思議といふべきは我恋なり。
 もし我が想中に立入りて我恋ふ人の姿を尋ぬれば、我は誤りたる報道を為すべきにより、言はぬ事なり、言はぬ事なり、雷音洞主が言へりし如く我は彼女の三百幾つと数ふるの骨をづると云ふにあらず、の皮を好しと云ふにあらず、おもしろしと云ふにあらず、楽しと云ふにあらず、我は白状す、我が彼女と相見し第一回の会合に於て、我霊魂は其半部を失ひて彼女のうちに入り、彼女の霊魂の半部はたゝれて我うちに入り、我は彼女の半部と我が半部とを有し、彼女も我が半部と彼女の半部とを有することゝなりしなり。しかれども彼女は彼女の半部と我の半部とをて、彼女の霊魂となすこと能はず、我も亦た我が半部と彼女の半部とをて、我霊魂と為すこと能はず、この半裁したる二霊魂が合して一になるにあらざれば彼女も我も円成せる霊魂を有するとは言ひ難かるべし。然るに我はゆくりなくも何物かの手に捕はれて窄々さく/\たる囚牢のうちにあり、もし彼女をして我と共にこの囚牢の中にあらしめば、この囚牢も囚牢にあらずなるべし、な彼女とは言はず、前にも言へりし如く我が彼女を愛するは其骨にあらず、其皮にあらず、其たましひにてあれば、我は其魂をこの囚牢のうちに得なむとおもふのみ。
 日光を遮断しやだんする鉄塀はひとしく彼女をも我より離隔して、かりの通ふべき空もなし、夢てふもの世にたのむべきものならば、我は彼女と相談あひかたる時なきにあらず、然れどもその夢もはかなや、始めに我をたばかりて、のちにはおそろしき悪蛇の我を巻きしむるに終る事多し。眠りをうまきものと昔しの人は言ひけれど、我は眠りのうちに熱汗に浴することあり。或時は、我手して露の玉に湿うるほふ花のかしらをうち破る夢を見、又た或時は、春におくれて孤飛する雌蝶の羽がひを我が杖の先にて打ち落す事もあり、かつてらかりしものを、彼女に会ひてより和らげられし我が心も、度々の夢に虎伏す野に迷ひ、獅子ゆるほらに投げられしより、再びれに暴れて我ながらあさましき心となれり。眠りはしかく我に頼めなき者となりしかど、もしうつゝの味気なきに較ぶれば、斯かるゝ丈も慰めらるゝひまあるなり。
 うつゝに於ける我が悲恋は、雪風凛々りん/\たる冬の野に葉落ち枝折れたる枯木のひとり立つよりも、激しかるべし。然り、我はでに冬の寒さに慣れたり、慣れしと云ふにはあらねど、我はこれに怖るゝ心を失ひたり、夏の熱さにも我は我がはらわたを沸かす如きことは無くなれり、唯だ我九膓を裂きてた裂くものは、我が恋なり、恋ゆゑにもだゆるにあらず、牢獄の為に悶ゆるなり、我は籠中にあるを苦しむよりも、我が半魂の行衛ゆくゑの為に血涙を絞るなり。雷音洞主の風流は愛恋を以て牢獄を造り、己れ是に入りて然る後に是を出でたり、然れども我が不風流は、牢獄のうちに捕繋せられて、然る後に恋愛の為に苦しむ、我が牢獄は我を殺す為に設けられたり、我もた我牢獄にありて死することを憂ひとはせざれども、我をして死す能はざらしむるもの、則ち恋愛なり、而して彼は我を生かしむることをもせず、空しく我をして彼のデンマルクの狂公子の如く、我母が我を生まざりしならばと打ちかこたしむるのみ。
 春やしと覚ゆるなるに、我牢室をること数歩の地に、黄鳥の来鳴くことありて、我耳を奪ひ、我魂を奪ひ、我をしてしばらく故郷に帰り、恋人の家に到る思ひあらしむ、その声を我が恋人の声と思ふて聴く時に、恋人の姿は我前にあり、一笑して我を悩殺する昔日せきじつの色香は見えず、愁涙の蒼頬さうけふに流れて、くれな闌干らんかんたるを見るのみ。
 軒端けんたん数分の間隙よりくゞり入るは、世の人の嫦娥じやうがとかあだなすなる天女なれども、我が意中人の音信を伝へ入るゝことをなさねば、我は振りかへり見ることもせず。いづこの庭にうゑたる花にやあらむ、折にふれては妙なるかをりを風がもて来ることもあれど、我が恋ふ人のたまをこゝに呼び出すべきかをりにてもなければ、要もなし、気まぐれものゝ蝙蝠かうもり風勢ふぜいが我が寂寥せきれうの調を破らんとてもぐり入ることもあれど、捉へんには竿なし、し捉ふるとも、我が自由は彼の自由を奪ふことによりて回復すべきにあらず、して我恋人の姿を、この見苦しき半獣半鳥よりうつし出づることの、望むべからざるをや。
 是の如きもの我牢獄なり、是の如きもの我恋愛なり、世は我に対して害を加へず、我も世に対して害を加へざるに、我は斯く籠囚の身となれり。我は今無言なり、膝を折りて柱にもたれ、歯をみ、眼をめいしつゝあり。知覚我を離れんとす、死のはりは我がうしろに来りてをりうかゞへり。「死」は近づけり、然れどもこの時の死は、生よりもたのしきなり。我が生ける間の「明」よりも、今ま死するきはの「薄闇うすやみ」は我に取りてありがたし。暗黒! 暗黒! 我が行くところはあづかり知らず。死も亦た眠りの一種なるかも、「眠り」ならば夢の一つも見ざる眠りにてあれよ。をさらばなり、をさらばなり。

 透谷庵主、透谷橋外の市寓にみて、近頃高輪たかなわの閑地に新庵を結べり。樹かすかに水清く、もつとも浄念を養ふに便あり。たまたま「女学雑誌」の拡張に際して、主筆氏の許すところとなりて、旧作を訂し紙上に載せんとす。こは其第一なり、もしそれ全篇の佶屈※(「敖/耳」、第4水準2-85-13)きつくつがうがにして、意義も亦た諒し難きところ多きに至りては、余の文藻に乏しきの罪として、深く責め玉はざらんことを願ふ。たゞ篇中の思想の頑癖に至りては、或は今日の余の思想とは異るところなり、友人諸君の幸にして余が為にいたく憂ひ玉はざらんことを。
(著者附記)
(明治二十六年六月)




 



底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「女學雜誌 三二〇號」女學雜誌社
   1892(明治25)年6月4日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2005年5月18日作成
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