怪しの館 短編 |
国枝史郎伝奇文庫28、講談社 |
1976(昭和51)年11月12日 |
1976(昭和51)年11月12日第1刷 |
1976(昭和51)年11月12日第1刷 |
帷子姿の半身
トントントントントントン……トン。
表戸を続けて打つ者がある。
「それまた例のお武家様だ……誰か行って潜戸を開けてやんな」
こう忠蔵は云いながらズラリと仲間を見廻したが俺が開けようというものはない。
トントントントンとそう云っている間も戸外では続けざまに戸を叩く、森然森然と更けた七月の夜の所は本所錦糸堀でひたひたと並んでいる武家屋敷から少し離れた堀添いの弓師左衛門の家である。家内の者は寝てしまったが宵っ張りの職人達は仕事場に集まり、団扇でパタパタ蚊を追いながら、浮世小路の何丁目で常磐津の師匠が出来たとか柳風呂の娘は婀娜だとか噂話に余念のないさなか、そのトントントンが聞こえて来たのである。
「小六、お前開けてやんな」
職人頭の忠蔵は中で一番若輩の小六というのへ顎をしゃくったがいっかな小六が聞かばこそ泣きっ面をして首を縮めた。
「チェッ」と忠蔵は舌打ちをしたが、「由さんお前お輿を上げなよ」
「へ、どうぞあなたから」――由蔵はこう云うと舌を出したが、にわかにブルッと身顫いをした。さも恐ろしいというように。
「松公、お前立つ気はないか?」
「どうぞお年役にお前さんから……私はどうも戸を開けるのが昔から不得手でございましてね」
「つまらない事云わねえものだ。戸を開けるに得手も不得手もねえ。みんな厭なら仕方がねえ」忠蔵はひょいと立ち上がったがどこか腰の辺が定まらない。土間へ下りると下駄を突っかけそこから仕事場を振り返り、
「おい確り見張っていねえ」
こう云ったのは忠蔵自身がやはり恐い証拠でもあろう。それでも足音を忍ばせてそっと表戸へ近寄ると潜戸の閂へ両手を掛けた。
とたんにトントンと叩かれたのでハッと一足退いたが、連れて閂がガチリと外れ、その音にまたギョッとしながら忠蔵は店へ飛び上がった。と、潜戸がスーと開いて、まず痩せこけた蒼白い手が指先ばかりチラリと見え、それから古ぼけた帷子姿を半身ぼんやりと浮かばせるとツト片足が框を跨ぎ続いて後の半身がヨロヨロと土間へはいって来た。
顔は胸まで俯向いている。雪のように白い頭髪を二房たらりと額際から垂らし、どうやら髻も千切れているらしく髷はガックリと小鬢へ逸れ歩くにつれて顫えるのである。身長勝れて高くはあるが枯木のように水気がなく動くたびに骨が鳴りそうである。左の肩をトンと落とし腕はだらりと脇に下げ心持ち聳やかした右の肩を苦しそうな呼吸の出し入れによって小刻みに波のように動かすのである。所々剥げた蝋鞘の大小を見栄もなくグッタリと落とし差しにして、長く曳いた裾で踵を隠し泳ぐようにスースーと歩いて来る。
ほとんどどこにも生気がない。老武士その人にないばかりでなくその老武士がはいって来ると共に総る物が生気を失い陰々たる鬼気に襲われるのであった。店に飾ってある弓や矢や点されてある行燈までぼっと光を失ってしまう。
老武士は顔を埋ずめたまま店先までスーと寄って来たが余韻のない嗄れた低い声で、
「弓弦を一筋……」と咽ぶように云った。
「へーい」
と忠蔵は応じたが何がなしに総身ゾッとして、木箱を探る手が顫えたのである。それでも弓弦を差し出すと、また同じ声同じ調子で、
「小中黒の征矢三筋……」
「…………」今度は忠蔵は言葉もなく云われた矢を取って差し出した。と老武士は小手を振ったがこれは鳥目を投げたので、投げたその手で二品を掴むとクルリと老武士は方向を変え、そのスースーと泳ぐような足で開いたままの潜戸から煙りのように闇夜の戸外へ消えて行った。
その翌日のことである――
「ほんとかな? それは? その噂は? ふうむ、不思議な老人じゃの……」
誂えた弓をわざわざ見に来た旗本の次男恩地主馬は声をはずませてこう訊いた。
「ほんとも本当、昨夜で十日、きまって参るのでござりましてな……」
こう云って忠蔵は居住いを正し、真っ昼間ながら四辺を見廻し、
「それで家中もうすっかり怖気を揮っておりますので」
「で何かな、その老人は、どこから来るのか解らぬのかな?」
「へい、それがあなた解るくらいなら……」
「そうさな、恐ろしくもないわけだな……でそれでは今日まで後を尾行た事もないのだな?」
「そんな事、かりにも出来ますようなら家内一同夜になるとああまでしょげ返りは致しませぬので……」
本所の七不思議
主馬はちょっと頷いてそれから小声で笑ったが、
「忠蔵、安心するがよいわ。それがし今夜朋輩と参って曲者の正体見現わしてくりょうに」
「どうぞお願い致します」忠蔵は喜んで頭を下げた。
「弓の方は期日までに頼んだぞ」
「それはもう承知でございます」
「化物沙汰に心を奪われ商売の方を疎かにしては商人冥利に尽きるというものだ――それでは今夜参ると致そう」
「よろしくお願い致します」
主馬はそのまま立ち去って行ったがはたして夜になると、朋輩二人を連れ、弓師左衛門の家へやって来た。
左衛門夫婦も挨拶に出て雑談に時を費したがいつもの時刻に近付くと怱々夫婦は引き退り後には主馬と朋輩の武士と忠蔵達が五、六人店を通して土間の見える職人部屋に残っていた。
夜はしんしんと更けて来た。何となく物凄く思われるかして主馬を初め集まっている者は、次第に言葉数が少くなった。とその時表戸をトントントントンと叩く音がする。ハッと皆は眼を見合わせむっと一時に呼吸を呑んだ。
それでもさすがは武士だけに主馬は躊躇もせず立ち上がり、がちりと閂を取り外した。まず細い手があらわれる。それから半身が浮き出して来る。泳ぐような歩き方ではいって来るとその老武士は云うのであった。
「弓弦を一筋……」と消えるような声で、
「ヘーイ」
と忠蔵は顫えながら云った。
「小中黒の征矢三筋……」
「ヘーイ」
と忠蔵はまた応じた。
くるりと老武士は方向を変えると吸われるように潜戸の隙から戸外の夜の闇にまぎれ込んだ。
「方々」と主馬は声をかけた。どうやらその声には生気がない。それでも自身真っ先に立って同じ潜戸から戸外へ出た。首うな垂れた老武士は星月夜の道をスースーと三間ばかり彼方を歩いている。主馬と朋輩と三人の武士は穿いている雪駄の音さえ忍ばせ着かず離れず慕い寄った。
ものの半町も行った頃、その老武士は右へ曲がった。で三人も右へ曲がった。右へ曲がってまた半町老武士はスースーと歩いたが、そこでピタリと足を止めた。と門の開く音がして左側の家並の一所からふと人声が聞こえたかと思うと老武士の姿は見えなくなった。
「…………」
三人は黙って顔見合わせた。それから静かに足を運び老武士の姿の消えた辺まで用心しながら近付いた。
道場構えの一宇の屋敷がそこに広々と立っている。森然と四辺は物寂しくもちろん燈火の影さえもない。三人はしばらく彳んだまま余りの不思議さに言葉も出ない。彼ら三人は三人ながらこの辺の地理には慣れている。そしてほとんど毎日のようにこの往来も通っているのである。それにもかかわらずこんな所にこんな立派な道場屋敷の建っているということを一度もこれまで見たことがない。
「どうも不思議だ」とまず主馬が朋輩の一人へ話しかけた。「たしかここには柏屋という染め物店があった筈だのに……」
「さようさ、全く不思議だの」話しかけられた主馬の朋友の南条紋太郎が頷きながら、「しかも拙者は今日昼頃たしかにこの前を通った筈じゃ。そしてその時はその柏屋がちゃんと店を開いていたのじゃ。いかに大江戸は素早いと云ってもものの一日と経たないうちに格子造りの染め物店が黒門厳めしい武家屋敷となるとはちとどうも受け取れぬ話じゃわい」
「さては狐狸にでもつままれたかの」――もう一人の朋輩荒木内記は呻くような声でこう云った。
「全体どうも本所という土地が化物には縁の近い土地での。それ本所の七不思議と云って狸囃しにおいてけ堀片葉の芦に天井の毛脛、ええとそれから足洗い屋敷か……どうもここにあるこの屋敷もそのうちの一つではあるまいかの?」
「馬鹿を云わっしゃい、臆病千万」
と主馬は一口に打ち消したが、その実やはり心のうちではそいつを考えていたのであった。
「主馬殿、ともかくも帰った方が泰平無事ではござらぬかの」――紋太郎は小声で誘って見た。
「君子危きに近寄らずじゃ」
「とは云えこのまま帰っては弓師左衛門や忠蔵へ対してちと面目がござらぬではないか」主馬は煮え切らずこんな事を云った。それから門へ近寄って何気なくトンと押して見た。すると門はゆらゆらと揺れギーという寂しい音を立てて内側へ自然と開いたのであった。
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