六
これは、ほんの些細な、一小事件にすぎなかった。兵卒達は、パルチザンの出没や、鉄橋の破壊や、駐屯部隊の移動など、次から次へその注意を奪われて、老人のことは、間もなく忘れてしまった。
丘の病院からは、谷間の白樺と、小山になった穴のあとが眺められた。小川が静かに流れていた。栗島は、時々、院庭へ出て、白樺のあたりを見おろした。
彼は、あの土をもり上げた底から、なお、叫び唸る声がひゞいて来るような気がした。狭い穴の中で、必死に、力いっぱいにのたうちまわっている、老人が、まだ、目に見えるようだった。彼は慄然とした。
日が経った。次の俸給日が来た。兵卒は聯隊の経理室から出張した計手から俸給を受取った。彼等は、あの老人を絶滅して以来、もう、偽せ札を造り出す者がなくなってしまったと思っていた。殊に、絶滅の仕方が惨酷であったゞけ、その効果が多いような感じがした。
彼等は、自分の姓名が書かれてある下へ印を捺して、五円と、いくらか半ぱの金を受取った。その金で街へ遊びに行ける。彼等は考えた。
「おや、こいつはまた偽札じゃないか。」不意に松本がびっくりして、割れるように叫んだ。
「何だ、何だ!」
「こいつはまた偽札だ。――本当に偽札だ!」
その声は街へ遊びに行くのがおじゃんになったのを悲しむように絶望的だった。
「どれ?……どれ」
それはたしかに、偽札だった。やはり、至極巧妙に印刷され、Five など、全く本ものと違わなかった。ところが、よく見るとSも、Hも、Yも、栗島も、同様に偽札を掴まされていた。軍医正もそうだった。
ところが、更に偽札は病院ばかりでなく、聯隊の者も、憲兵も、ロシア人も、掴まされていた。そして今は、偽札が西伯利亜の曠野を際涯もなく流れ拡まって行っていた。…………
(一九二八年五月)
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