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雪たたき(ゆきたたき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 10:16:43  点击:  切换到繁體中文


「実は、我が昵懇じっこんのものであるでの。」
と云い出された。二人は大鐘をかれたほどに驚いた。それが虚言うそ真実まことかも分らぬが、これでは何様いう始末になるか全く知れぬので、又あらたに身内が火になり氷になった。男はそれを見て、「にッたり」を「にたにたにた」にして、
「ハハハ、心配しおるな、主人は今、海の外に居るのでの。安心し居れ。今宵こよいの始末を知らそうとて知らそう道は無い。帰って来居る時までは、おのれ等、敵の寄せぬ城に居るも同然じゃ。好きにし居れ、おのれ等。楽まば楽め。人のさまたげはせぬが功徳じゃ。主人が帰るそれまでは、我とおのれ等とは何の関りも無い。帰る。宜かろう。何様じゃ。互に用は無い。勝手にしおれおのれ等。ハハハハハハ、公方くぼう河内かわち正覚寺しょうがくじの御陣にあらせられた間、桂の遊女を御相手にしめされて御慰みあったも同じことじゃ、ハハハハハハ。」
と笑った。二人は畳にこうべをすりつけて謝した。其ひまに男は立上って、手早く笛を懐中して了って歩き出した。雪に汚れたかわ足袋たびの爪先のあとは美しい青畳の上に点々といんされてあった。

   中

 南北朝の頃から堺は開けていた。正平の十九年に此処の道祐どうゆうというものの手によって論語が刊出され、其他文選もんぜん等の書が出されたことは、既に民戸の繁栄して文化の豊かな地となっていたことを語っている。山名氏清うじきよが泉州守護職となり、泉府と称して此処に拠った後、応永の頃には大内義弘が幕府から此地を賜わった。大内は西国の大大名で有った上、四国中国九州諸方から京洛きょうらくへの要衝の地であったから、政治上交通上経済上に大発達を遂げて愈々いよいよ殷賑いんしんを加えた。大内は西方智識の所有者であったから、堺の住民が外国と交商して其智識を移し得たからである歟、我邦わがくにの城は孑然げつぜんとして町の内、多くは外に在るのを常として、町は何等の防備を有せぬのを例としていたが、堺は町をめぐらしてほりを有し、町の出入口は厳重な木戸木戸を有し、堺全体が支那の城池のような有様を持っていた。乱世に於けるかかる形式は、自然と人民をして自ら治むることの有利にして且喫緊なことを悟らしめた。当時の外国貿易に従事する者は、もとより市中の富有者でもあり、智識も手腕も有り、従って勢力も有り、又多少の武力――と云ってはおかしいが、子分子方、下人僮僕どうぼくの手兵ようの者も有って、勢力を実現し得るのであった。それで其等の勢力が愛郷土的な市民に君臨するようになったか、市民が其等の勢力を中心として結束して自己等の生活を安固幸福にするのをよろこんだためであるか、何時となく自治制度様のものが成立つに至って、市内の豪家ごうか鉅商きょしょうの幾人かの一団に市政を頼むようになった。木戸木戸の権威を保ち、町の騒動や危険事故を防いで安寧を得せしむる必要上から、警察官的権能をもそれに持たせた。民事訴訟の紛紜ふんうん、及び余り重大では無い、武士と武士との間に起ったので無い刑事の裁断の権能をもそれに持たせた。公辺からの租税夫役等の賦課其他に対する接衝等をもそれにゆだねたのであった。実際にかくの如き公私の中間者の発生は、栄え行こうとする大きな活気ある町には必要から生じたものであって、しかも猫の眼の様にかわる領主の奉行、――人民をただ納税義務者とのみ見做みなして居る位に過ぎぬ戦乱の世の奉行なんどよりは、此の公私中間者の方が、何程か其土地を愛し、其土地の利を図り、其人民に幸福をもたらすものであったか知れぬのであった。それで足利あしかが幕府でも領主でも奉行でも、何時となくこれを認めるようになったのである。此等の人々を当時は、納屋衆、又は納屋貸衆と云い、それが十人を定員とした時は納屋十人衆などと云ったのであった。納屋とは倉庫のことである。交通の便利は未だ十分ならず、商業機関の発達もなお幼稚であった時に際して、信頼すべき倉庫が、殆んど唯一の此の大商業地に必要で有ったろうことは云うまでも無い。納屋貸衆は多くの信ぜらるる納屋を有していて之を貸し、或は其在庫品に対して何等かの商業上の便宜を与えもしたで有ろうから、勿論世間の為にもなり、自分の為にも利を見たのであろう。つとに外国貿易に従事した堺の小島太郎左衛門、湯川宣阿せんあ、小島三郎左衛門等は納屋衆の祖先となったのか知れぬ。しかも納屋衆は殆ど皆、朝鮮、明、南海諸地との貿易を営み、大資本を運転して、勿論冒険的なるをいとわずに、手船しゅせんを万里に派し、或は親しく渡航視察の事を敢てするなど、中々一ト[#「ト」は小書き]通りで無い者共で無くては出来ぬことをする人物であるから、たとい富有の者で無い、丸裸の者にしてからが、其の勇気がたくましく、其経営に筋が通り、番頭、手代、船頭其他のしたたか者、荒くれ者を駕馭がぎょして行くだけのことでも相当の人物で無くてはならぬのであったろうから、町の者から尊敬もされ、依信もされ、そして納屋衆と人民とは相持あいもちに持合って、堺の町は月に日に栄を増して行ったものであろう。後に至って、天正の頃呂宋ルソンに往来して呂宋助左衛門と云われ、巨富を擁して、美邸を造り、其死後に大安寺となしたる者の如きも亦是れ納屋衆であった。永禄年中三好家の堺を領せる時は、三十六人衆と称し、能登屋のとや臙脂屋べにやが其しゅであった。信長に至っては自家集権を欲するに際して、納屋衆の崛強くっきょうにくみ、之を殺して梟首きょうしゅし、以て人民を恐怖せしめざるを得無かったほどであった。いや、其様そんな後の事を説いて納屋衆の堺に於て如何様の者であったかを云うまでも無く、此物語の時の一昨年延徳三年の事であった。大内義弘亡滅の後は堺は細川の家領けりょうになったが、其の怜悧れいりで、機変をく伺うところの、冷酷険峻けんしゅんの、飯綱いづな使つかい魔法使いと恐れられた細川政元が、其の頼み切った家臣の安富元家を此処の南のしょうの奉行にしたが、政元の威権と元家の名誉とを以てしても、何様どうもいざこざが有って治まらなかったのである。安富は細川の家では大したもので、応仁の恐ろしい大乱の時、敵の山名方のいくかしらかの勇将軍が必死になって目ざして打取って辛くも悦んだのは安富之綱であった。又打死うちじにはしたが、相国寺の戦に敵の総帥の山名宗全を脅かして、老体の大入道をして大汗をかいて悪戦させたのは安富喜四郎であった。それほど名の通った安富の家の元家が、管領細川政元を笠にて出て来ても治まらなかったというのは、何で治まらなかった歟、納屋衆が突張ったからで無くて何であろう。それほどの誇りをった大商業地、富の地、殷賑の地、海の向うの朝鮮、大明だいみん琉球りゅうきゅうから南海の果まで手を伸ばしている大腹中のしたたか者の蟠踞ばんきょして、一種特別の出し風を吹出し、海風を吹入れている地、泣く児と地頭には勝てぬに相違無いが、内々は其ことわざ通りに地頭を――戦乱の世の地頭、銭ばかり取りたがる地頭を、あめばかりせびる泣く児のように思っている人民の地、文化はすぐれ、学問諸芸遊伎ゆうぎ等までも秀でている地の、其の堺の大小路おおしょうじを南へ、南の荘の立派な屋並のうちの、分けても立派な堂々たる家、納屋衆の中でも頭株の嚥脂屋の奥の、内庭を前にした美しい小室に、火桶ひおけを右にして暖かげに又安泰に坐り込んでいるのは、五十余りの清らなあから顔の、福々しいふとじしの男、にこやかに
「フム」
とばかりに軽く聴いている。何を些細ささいな事という調子である。これに対して下坐に身を伏せて、如何にもかしこまり切っている女は、召使筋の身分の故からというばかりでは無く、恐れと悲しみとにわなわなとふるえているのは、今下げたかしら元結もとゆいの端の真中に小波さざなみを打っているのにも明らかであり、そして訴願の筋の差逼さしせまった情に燃えていることと見える。
「…………」
「…………」
 双方とも暫時しばし言葉は無かった。屈託無げにはしているが福々爺ふくふくやの方は法体ほったい同様の大きな艶々したまえ兀頭はげあたまの中で何か考えているのだろう、にこやかには繕っているが、其眼はジッと女の下げているかしら射透いすかすように見守っている。女は自分の申出たことに何の手答のある言葉も無いのに堪えかねたか、やがて少し頭をもたげた。燐みを乞う切ない眼の潤み、若い女の心の張った時の常の血の上った頬の紅色くれない、誰が見てもいじらしいものであった。
「どうぞ、然様そういう訳でございますれば、……の御帰りになりまする前までに、こなた様の御力を以て其品を御取返し下さいまするよう。」
また一度、心から頭を下げた。そして、
「御帰りの近々に逼って居りますことは、こなた様にも御存知の通り。御帰りになりますれば、日頃御重愛ごちょうあいの品、御手ならしの品とて、しばらく御もてあそび無かった後ゆえ、直にも御心のそれへ行くは必定ひつじょう、其時其御秘蔵が見えぬとあっては、御方様の御申訳の無いはもとより、ひいては何の様なことが起ろうも知れませぬ。御方様のきつい御心配も並一通りではござりませぬ。それ故に、御方様の、たっての御願い、生命いのちにもかかることと思召おぼしめして、どうぞが手に戻るようの御計らいをと、……」
 生命にもかかるの一語は低い声ではあったが耳に立たぬわけには行かなかった。
「ナニ、生命にもかかる。」
 最高級の言葉を使ったのを福々爺は一寸とがめた迄ではあるが、女に取ってはそれが言葉甲斐の有ったので気がはずむのであろう、やや勢込んで、
「ハイ、そうおッしゃられたのでござりまする。全くの笛が無いとありましては、わたくし共めまでも何の様な……」
「いや、むこ殿どのがあれをの無いものに大事にして居らるるはかねて知ってもおるが、……多寡が一管の古物こぶつじゃまで。ハハハ、何でこのわし程のものの娘の生命いのちにかかろう。帰って申せ、わしがびてやる、心配には及ばぬとナ。女は夫を持つと気が小さくなるというが、娘の時のあれは困り者のほどな大気の者であったが、余程聟殿を大事にかけていると見えて、大層女らしくなり居ったナ。好いわ、それも夫婦中が細やかなからじゃ。ハハハハ。」
「…………」
「分らぬか、まだ。よいか、わしが無理借りに此方こちへ借りて来て、七ツさがりの雨と五十からの芸事、とても上りかぬるとそしらるるをかまわず、しきりに吹習うているうちに、人の居らぬ他所よそへ持って出ての帰るさに取落してしもうた、気が付いて探したが、かいくれ見えぬ、相済まぬことをした、と指を突いてわしがあやまったら聟殿は頬をふくらしても何様どうにもなるまい。よいわ、京へ人を遣って、当りを付けてやせ公卿くげの五六軒も尋ね廻らせたら、あの笛に似つこらしゅうて、あれよりもずんと好い、敦盛あつもりが持ったとか誰やらが持ったとかいう名物も何の訳無う金で手に入る。それを代りに与えて一寸あやまる。それで一切は済んでしまう。たとえ聟殿心底は不足にしても、それでも腹なりが治まらぬとは得云うまい。代りに遣る品が立派なものなら、かえって喜んで恐縮しようぞ。分ったろう。……帰ってう云え。」
 話すに明らさまには話せぬ事情を抱いていて、笛の事だけを云ったところを、斯様こうすらりと見事にさばかれて、今更に女は窮して終った。口がききたくても口がきけぬのである。
「…………」
 何と云って宜いか、分らぬのである。しかし何様あってもこのままに帰ったのでは何の役にも立たぬ。これでは何様あっても帰れぬのである。ごけの中に苧は一杯あるのだが、抽出ひきだして宜い糸口が得られぬ苦みである。いや糸口はハッキリして居て、それを引っぱり出しさえずればらちは明くのだが、それを引出すことは出来なくて、強いて他の糸口、それは無いにまっている糸口を見出さなくてはならぬので、何とも為方の無い苦みに心が※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがかれているのである。

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