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仏法僧鳥(ぶっぽうそう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:35:28  点击:  切换到繁體中文


『これで※(二の字点、1-2-22)いよいよ後生ごしやうも悪くはないやうなものだ』などと云ひ云ひ、石段を下りて無明の橋のへんに差しかかつた頃であつた。

『どうですか。木曾のと同じですか』かう突然T君が私にたづねた。
『いや実は僕もさつきから少し美し過ぎると思つて聴いてゐたんだが』かう答へた。その間にくどい思慮をめぐらすといふやうなことも無かつた。
『さうでせう。あれは怪しいですよ。ひよつとすると人工かも知れませんよ。ひどい奴だ』
 かうT君が笑ひながら云つた。
『Tさんは鋭いからねえ。あれはどうも本物だと思はれる。やつぱり疑はない方がいんですよ』かうO先生が云はれた。
『いや、私ひとつ見破みやぶつて見せます』T君も今度は少しく気色けしきばんでゐた。
 四人はもう一度奥の院のかげに行つた。鳥は相変らず啼いてゐるが、先程よりももつと近くなつて来てゐる。その声は澄明で、鉱物音を交へ、林間に反響してゐるところなどは、或は人工的のもののやうな気もするが、よくよく聴くと、何か生物いきものの声帯の処をしぼるやうな肉声を交へてゐる。私は折角運くて聴いた仏法僧鳥であるからなるべく本物にした方が具合が好い。強ひてさうしようとするのであるが、矢張り心中に邪魔をするものがあつていづれとも決定しかねて二たび踵を返した。T君は途々みちみちにも、あれくらゐの声は練習さへすれば人工でも出来る。それに高い月給を払ひ一家相伝の技術として稽古けいこさせてゐるのかも知れないなどといふ説をも建てた。そこでO先生を除くほかは、若い浄土宗門の僧侶そうりよであるM君も、それから私も、あの仏法僧鳥の声は人工の声だといふ説に傾きながら帰路についた。時は十時半を過ぎてゐた。
 その途中で一人の青年に会つた。その青年は矢張り比叡山上で私等と一しよに歌の修行をし、会の散じてから単独で高野に来、今やはり仏法僧鳥を聴きに奥の院に行く途中なのであつた。
『今しきりに啼いてゐるところだから、非常にいい都合だ。ただ君に頼むがね、何時ごろ迄啼き続けてゐるか面倒だが確かめて呉れませんか。僕等はKといふ宿坊にゐるから明日の朝一寸ちよつと知らして呉れたまへ』
 かうT君が青年に頼み、何か期するところがあるやうな面持おももちで歩いた。その時にはもういつのまにか大きな月が出て、高野の満山を照らして居り、空気が澄んでゐるので光が如何いかにも美しく、あくどく忙しくせつぱつまつた現世げんぜでも、やはり身にみるところがあつた。私等はそれでも提灯をつけたまま到頭宿坊に帰つて来、何か発見でもした様な気分で一夜ねむつた。

 翌朝T君は、起きると直ぐ高野山の地図を買つて来て調べてゐた。貧しい朝食をすまして横になつてゐると、そこにゆうべの青年が報告に来た。青年はゆうべ奥の院に行つた時には、鳥の声はしきりにして居つたさうである。それが十一時半になるとぴたりとんで、午前一時まで二たび啼くのを待つてゐたが、到頭啼かずにしまつたといふのである。
 この報告は、T君の説を確かめるのに非常に有力であつた。それのみではない。T君の調べた地図にると、ゆうべ鳥の啼いた方向にはさう深い森林が無い。むし浅山あさやまつて好い。それから、そこを通ずる道路がありそこに一二軒の人家がある。
『どうです。声の発源点は此処ここですよ』
 かう云つてT君は大きな手の指で、その人家のところをしつけたりした。青年は最初は何の事だか分からず、怪訝けげんの顔をしてゐたが、仏法僧鳥の声の人工説だといふことを知つて、『実に惜しい』といふ顔をありありとした。ここおいて私等の三人と一人の青年とを加へて四人は人工説に傾いてしまつた。
 けれども、O先生はこの説を是認されなかつた。『それは、Tさんの説のやうに人工かも知れない。けれども人工であつたとしても、数百年間この事を他へ漏らさない一山いちざんの人々は偉いんです。やつぱり本物の鳥と思つてきくんですね。それが空海くうかいの徳でせう。正岡子規先生ではないが、弘法こうぼふをうづめし山に風は吹けどとこしへに照すのりのともしび。ですよ』かう云はれるのであつた。

 私等は雨の晴れ間を大門だいもんのところの丘の上に上つて、遙か向うに山が無限に重なるのを見たとき、それから其処そこのところから淡路島あはぢしまが夢のやうになつてよこたはつてゐるのを見たときには、高野山上をどうしても捨てがたかつた。または金堂こんだうの中にゐてとどろく雷鳴を聞きながら、空海四十二歳の座像を見てゐたときなどは、寂しい心持になつてこの山上を愛著あいぢやくしたのである。
 併し或堂内で、畳の上にあがつて杉戸の絵を見てゐると小坊主にとがめられた。そこにあたかも西洋人夫婦を案内して来た僧がゐて仏壇の内陣の方までも見せてゐる。『あれはどうしたのだ』といふ。『あれは寄附をしたのです』と答へる。『馬鹿いへ。僕らも寄附はして居るんだぞ』と云ふ。かる問答は如何にもまづい表出の運動であつた。けれどもこの機縁も仏法僧鳥人工説に一つの支持を与へたのである。

 私等はかういふやうな経験をして高野山をくだつた。そして和歌の浦まで来たが、もう海水浴も過ぎた頃なのでうまい魚を直ぐ食はせるところも見当らず、逝春ゆくはるに和歌の浦にて追ひ付きたりといふ句境にも遠いので、其処に夕がたまでゐてO先生と別れ三人は那智なちの方に行く汽船に乗つたのであつた。

 それから丸一年が過ぎた。私等は去年やつたやうな歌の修行の集まりをば武州ぶしう三峰山上みつみねさんじやうで開いた。しかるに三峰山上には仏法僧鳥がしきりに啼いた。もう日が暮れかかると啼く。月明げつめいの夜などには三つも四つも競つて啼いた。その声は如何にも清澄で高野山上で聴いたのよりももつともつと美しかつた。それから三峰では直ぐ頭の上で啼くので、しぼる様な肉声も明瞭めいれうであり、人工説などの成立つ余裕も何もなかつた。T君も私もしばらく苦笑して居らねばならなかつた。ただ私等はおもふ存分仏法僧鳥のこゑを聴き、数日してO先生が山の上にのぼつて来られたとき、T君も私もO先生のまへに降伏してしまつた。

 私の写生文はこれでしまひであるが、つづめて一言とすることが出来る。どうも高野山上の仏法僧鳥のこゑは、あれは人工ではなかつた。あれを人工だと疑ひ、それを立証しようとした学説には手落があつて、結局その学説は負けた。けれどもかういふことが云へるだらう。ああいふ夜鳥やてうは早晩高野山上から跡を絶つかも知れない。さうして玩具おもちやの仏法僧鳥をばあそこの店で売る時が来るかも知れんとかういふのである。(昭和二年十二月)





底本:「斎藤茂吉選集 第八巻」岩波書店
   1981(昭和56)年5月27日第1刷発行
初出:「時事新報」
   1928(昭和3)年1月4日、5日
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月7日作成
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