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三筋町界隈(みすじまちかいわい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:38:29  点击:  切换到繁體中文

底本: 斎藤茂吉随筆集
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1986(昭和61)年10月16日
入力に使用: 2003(平成15)年6月13日第7刷
校正に使用: 2003(平成15)年6月13日第7刷


底本の親本: 斎藤茂吉選集 第十一巻
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1981(昭和56)年11月1日

 

      一

 この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清にっしん戦役が済んで遼東還附りょうとうかんぷに関する問題がかまびすしく、また、東北三陸の大海嘯だいかいしょうがあり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹よさのてっかんの『東西南北』が出たころ、露伴の「雲のそで」、紅葉こうようの「多情多恨」、柳浪りゅうろうの「今戸心中いまどしんじゅう」あたりが書かれたころに当るはずである。東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がきばあさんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇すがめの小さなおうなであったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚ゆうてんおしょうだの、信田しのだの森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐びゃっこなどは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔かえんなどは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音にもうずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時いつごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継あとつぎもいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくて饂飩粉うどんこか何かであったのかも知れず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交るようにこしらえてあったのかも知れないが、実際どういうものであったか私にはよく分からぬ。また現在ああいうものが復興するにせよ、時代にはかなわぬだろうから、あの成行きはあれはあれでかったというものである。
 鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前くらまえどおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵をのあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車の出来るまで続いたわけである。電車の出来たてに犬がかれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんなきわどい事故は起らぬのであった。

       二

 そういうわけで、私は数えどし十五のとき、郷里かみやまの小学校をえ、陰暦の七月十七日、つまり盆の十七日の午前一時ごろ父に連れられて家を出た。父は大正十二年に七十三歳で歿ぼっしたから、逆算してみるに明治二十九年にはまだ四十六歳のさかりである。しかし父は若い時分ひどく働いたためもう腰がまがっていた。二人は徒歩で山形あたりはまだ暁の暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その朝山形を出はずれてから持っていた提灯ちょうちんを消したようにおぼえている。
 関山峠はもうそのころは立派な街道かいどうでちっとも難渋しないけれど、峠の分水嶺を越えるころから私の足は疲れて来て歩行がはかどらない。広瀬川の上流に沿うて下るのだが、幾たびも幾たびも休んだ、父はそういう時には私に怪談をする。それは多くきつねを材料にしたもので父の実験したものか、または村の誰彼が実験したもののようにして話すので、ただの昔話でないように受取ることも出来る。しかしその怪談の中にはもう話してもらったのもあるし足の疲労の方が勝つものだから、だんだん利目ききめがなくなって来るというような具合であった。ところがあたかもそのとき騎兵隊の演習戦があった。卒は黄の肋骨ろっこつのついた軍服でズボンには黄の筋が入ってあり、士官は胸に黒い肋骨のある軍服でズボンには赤い筋が入っている。それを見たとき疲労も何も忘れてしまった。私は日清戦争の錦絵にしきえは見ていても本物を見るのはその時が初めてであった。
 一隊は広瀬川の此岸しがんにおり、敵らしい一隊は広瀬川の対岸の山かげあたりにいる。戦闘が近づくと当方隊の一部は馬から下りて広瀬川の岸に散開して鉄砲を打ちかけた。そうすると向うからも鉄砲の音が聞こえてくる。その音は私には何ともいえぬ緊張した音である。しばらく鉄砲を打っていたかとおもうと、当方の一隊はことごとく抜剣し橋を渡って突撃した。父も私もこういう光景を見るのは生れてからはじめてであった。私の元気はこれを見たので回復して日の暮れに作並さくなみ温泉にいた。その日の行程十五里ほどである。
 翌日仙台に著いて一泊し、東北での城下仙台に目のあたり来たことを感じ、旅館では最中もなかという菓子をはじめて食った。当時長兄が一年志願兵で第二師団に入営していたのに面会に行ったが機動演習で留守であった。そこで一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京の上野駅に著いた。そして、世の中にこんな明るい夜が実際にあるものだろうかとおもった。数年を経て不夜城と言う言葉を覚えたが、その時も上野駅にはじめて著いたときの印象を逆におもい出したものであった。そのころの燈火は電燈よりも石油の洋燈ラムプが多かったはずだのにそんなに明るく感じたものである。
 それから父と二人は二人乗の人力車じんりきしゃで浅草区東三筋町みすじまち五十四番地に行ったが、その間の町は上野駅のように明るくはなかった。やはり上ノ山ぐらいの暗いところが幾処もあって、少年の私の脳裡のうりには種々雑多な思いが流れていたはずである。さてその五十四番地には、養父斎藤紀一先生が浅草医院というのを開いていたので、其処そこにたどりついたのである。
 医院はまだ宵の口なので、大きなラムプが部屋にりさげられてあって光は皎々こうこうと輝いていた。客間は八畳ぐらいだがあか毛氈もうせんなどが敷いてあって万事が別な世界である。また、最中という菓子も毎日のように食うことが出来る。
 ここに書いた陰暦七月十七日は陽暦にすれば何日になるだろうかと思って調べたことがある。それにると旧の七月十七日は新の八月二十五日になるから、二十八日か二十九日かに東京に著いたことになる。

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