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三筋町界隈(みすじまちかいわい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:38:29  点击:  切换到繁體中文


       五

 私が東京に来て、連れて来た父がまだ家郷に帰らぬうちから、私は東京語の幾つかを教わった。醤油しょうゆのことをムラサキという。もちのことをオカチンという。雪隠せっちんのことをハバカリという。そういうことを私は素直に受納うけいれて今後東京弁を心掛けようと努めたのであった。
 私が開成中学校に入学して、その時の漢文は『日本外史』であったから、当てられると私は苦もなく読んでける。『日本外史』などは既に郷里で一とおり読んで来ているから、ほかの生徒が難渋なんじゅうしているのを見るとむしろおかしいくらいであった。しかるに私が『日本外史』を読むと皆で一度に笑う。先生は磯部武者五郎という先生であったがおなかをかかえて笑う。私は何のために笑われるかちっとも分からぬが、これは私の素読は抑揚頓挫とんざないモノトーンなものに加うるに余り早過ぎて分からぬというためであった。爾来じらい四十年いくら東京弁になろうとしても東京弁になり得ず、鼻にかかるずうずう弁で私の生は終わることになる。
 私は東京に来て蕎麦そば種物たねものをはじめて食った。ある日母は私を蕎麦屋に連れて行って、玉子とじという蕎麦を食べさせた。私は仙台の旅舎で最中という菓子を食べて感動したごとく、世の中にこんなうまいものがあるだろうかと思ったが、程経ほどへて、てんぷら、おやこ、ごもく、おかめなどという種蕎麦のあることを知って、誠に驚かざることを得なかった。
 それから佐竹の通りには馬肉屋が数軒あったが、私はそういう処に入ることを知らなかった。ただ市村いちむら座の向側に小さい馬肉の煮込を食わせるところがあり、その煮方には一種のこつがあって余所よそではあじわえない味を出していた。うちの書生の説に椿つばき油か何かを入れるのではなかろうかというのであったが、よくは分からない。
 夜十時過ぎになると書生も代診も交ってくじを引いて当った者が東三筋町から和泉いずみ町のその馬肉屋まで買いに来る。今どきの少年は馬肉は軽蔑して食わぬし、ビステキなども上等のを食いたがるけれども、馬肉を食わぬからといって皆かしこくなるというわけではない。また、大正十年の夏、私は信州富士見に転地していたとき、あの近在に或る神社の祭礼があって、そこでやはり馬肉の煮込を食べたことがある。その味は市村座の向側の馬肉屋の煮込そっくりであったから、煮込む骨に共通の点があったのかも知れない。
 郷里を立つとき祖母は私にわずかばかりの小遣銭こづかいせんをくれていうに、東京には焼芋やきいもというものがある、腹が減ったらそれを食え。そこで私は学校の帰りには、左衛門橋のたもとの焼芋屋によって五厘ずつ買った。そのころ五厘で焼芋三個くれたものである。
 母は私を可哀がって学校から帰るとかけ蕎麦を取ってくれた。もりかけが一銭二厘から一銭六厘になった頃で大概三つぐらいは食った。
 また、夜おそくなると書生と牛飯というのを食いに行き行きした。一わん一銭五厘ぐらいで赤い唐辛子粉とうがらしこなどをかけて食べさせた。今でも浅草の観世音近くに屋台店が幾つもあるけれども、汁が甘くて駄目になった。その頃はあんなに甘くなかった。
 私と同様出京して正則せいそく英語学校に通っていた従弟いとこが、ある日日本橋を歩いていて握鮓にぎりずしの屋台に入り、三つばかり食ってから、蝦蟇口がまぐちに二銭しかなくて苦しんだ話をしたことがある。その話を聞いて私は一切すしというものを食う気がしなかった。鰻丼うなどんなども上等なもてなしの一つで、半分残すのが礼儀のような時代であったところを思うと、養殖が盛になったために吾々われわれはありがたい世に生きているわけである。

       六

 そのころ奠都てんと祭というものがあって式場は多分日比谷ひびやだったようにおもう。紅いはかま穿いた少女の一群を見て非常に美しく思ったことがある。それから間もなく女学生が紅い袴を穿き、ついで蝦茶えびちゃの袴がある期間流行して、どのくらい青年の心をひきつけたか知れぬが、そのころはまだそれが、なかった。
 東三筋町に近い、鳥越とりごえ町に渡辺省亭わたなべせいてい画伯が住んでおられて、令嬢は人力車でお茶の水の女学校に通った。その時は髪を桃割ももわれに結って蝦茶の袴は未だ穿いていなかったから私はよくおぼえている。俳人渡辺水巴すいは氏は省亭画伯の令息で、正月のカルタ遊びなどにはよく来られたものである。もう夢のような追憶であるからおぼつかない点もあるが、水巴は俳人、茂吉は歌人となったわけである。
 黒川真頼まより翁も具合の悪いときには父の治療を受けた。晩年の真頼翁はもう頭の毛をつるつるにっておられた。体がかゆくて困るといわれてうちの代診の工夫で硫黄いおう風呂ふろを立てたこともあり、最上もがみ高湯の湯花を用いたことなどもあった。いまだ少年であった私がたとい翁と直接話をかわすことが出来なくとも、一代の碩学せきがく風貌ふうぼうのぞき見するだけでも大きい感化であった。そのころの開業医と患家とのあいだには、そのような親しみもあり徳分もあったものである。しかし父も精神科専門になってからはそういう患家との親しみはせた。このことには実に微妙なる関係があって、父は、「感謝せらるる医者」から「感謝せられざる医者」に転じたわけである。精神病医者というものは、患者は無論患者の家族からも感謝せられざる医者である。
 私は東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。当時は映画などは無論なく、寄席にも芝居にも行かず、勧学の文にある、「書中女あり顔玉のごとし」などということがみ込んでいるのだから、今どきの少年の心理などよりはまだまだ刺戟しげきも少く万事が単純素朴であったのである。それでも目ざめかかったリビドウのゆらぎは生涯ついて廻るものと見えて、老境に入った今でも引きつけられる対象としての異性はそのころのリビドウの連鎖のような気がしてならないのである。そのころ新堀しんぼりを隔てた栄久町えいきゅうちょうの小学校に通う一人の少女があった。間もなく卒業したと見えて姿を見せなくなったが、私は後年年不惑を過ぎミュンヘンの客舎でふとその少女の面影をしのんだことがある。あるいは目前に私に対している少女にその再来なるものがいるかも知れない。
 新堀といえば、新堀にはそのころ舟が幾そうも来てもやっていることがあった。幸田露伴翁の「水の東京」に、「浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠しょうきょあり、須賀町地先を経、一屈折して蔵前くらまえ通りを過ぎ、二岐となる。其の北に入るものは所謂いわゆる、新堀にして、栄久えいきゅう三筋みすじ町等に沿ひ、菊屋きくや橋・合羽かっぱ橋等の下に至る。此一条の水路は甚だ狭隘きょうあいにしてつ甚だ不潔なれども、不潔物其他の運搬には重要なる位置を占むること、其の不快を極むるところの一路なるをも忌みきらふにいとまあらずして渠身不相応なる大船の数々出入するに徴して知るべし。且つ浅草区一帯の地の卑湿にしてかわき難きも、此の一水路によりて間接に乾燥せしめらるること幾許いくばくなるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし」とあるところである。まだ少年の私はパイレートという煙草を買って、その中の美人の絵だけをとって中味をこの堀の水にてたことがあった。新堀の名は三味線堀と共に私の記憶から逸し得ざるのもまた道理である。

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