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我が人生観(わがじんせいかん)03 (三)私の役割

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 9:01:13  点击:  切换到繁體中文

底本: 坂口安吾全集 09
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1998(平成10)年10月20日
入力に使用: 1998(平成10)年10月20日


底本の親本: 新潮 第四七巻第八号
初版発行日: 1950(昭和25)年8月1日

 

人間ぎらい、という人は、いないとみた方が本当だろう。私のことを人間ぎらいだと云ってる人がいるそうだが、大マチガイ。私は人間はたいへん好きだ。ただ、交際ぎらいで、もっとも気心の知れた人とはよく会うが、一面識もない訪客に会うのがキライなのである。
 せんだって、ラジオの何とかの時間に、大学の先生のような人と落語家の問答があったそうで、私は聴いたわけではないが、それを別の大学の先生のような人が批評しているのを読んだのだ。だから、うろ覚えで、大学の先生の質問の方は、ちがっているかも知れない。
「戦後の世相をどう思いますか」
「たいそう、乗物がよくなりましたなア」
「日本の政治についてどうお考えですか」
「イヤア。どうも。ヘッヘッヘ」
 こういう落語家のような奴がいるから将来の日本はまことに希望がもてないと云って、批評家の先生は大の御立腹であった。
 私は、しかし、こんな質問をする先生も変だと思うし、批評家の先生に至っては、妙な人だと思うのだ。
 私が訪問客に会わないのは、彼らが言いあわしたように、この大学の先生のような質問をしたり、イヤア、どうも、ヘッヘッヘ、と答えると腹を立てたりするような人たちだからである。
 一面識もない人に政見をきいてみたって仕様がないと思うが、文化人というものは、一々それに返事をすべきものだときめてかかっている人たちだから、彼らは珍しいヒマ人だ。
 落語の師匠だって、政治に対して自分の意見ぐらい持ってるにきまってるが、そんな大ゲサなことをきかれたって、一々、返事していられないのは当り前だ。
「イヤア。どうも。ヘッヘッヘ」
 というのは、まことに、どうも、適切な返事で、大学の先生のモッタイぶったマヌケ顔がアリアリ見えるぐらいシンラツな批評をもなしている。
「たいそう、乗物がよくなりましたなア」
 というのも、おもしろい。実感がありますよ。落語の師匠は自分の言葉を語っていらっしゃる。大学の先生は、ノートブックの切れッぱしのような、全然よその言葉でお談義あそばしてるだけだ。
 察するに、この師匠、戦時中から、戦後にかけて、ボロ電車の大コンザツに悪戦苦闘の切ない思い出が数々あるのであろう。そして、昔も今も、寄席から寄席へ、いくつかのカケモチを、電車にもまれてとびまわり、こまかく稼いでいらッしゃるのだろう。席亭から席亭へ自動車でのりまわすような気楽な生活ではないことが分る。
 これだけ痛切に自分の言葉を語ればタクサンだ。大学の先生は、自分がはずかしいと思いつけば、まだ利巧なのだが、そう思うどころか、重ねて、天下の政治は? といらッしゃる。イヤ。どうも。ヘッヘ。
 文化人だの何だのと大そう憂国の至情に富んでるらしい方々は、たいがい、こういった妙テコレンなアイクチを胸にかくし、何くわぬ顔をして人を訪ねてきて、いきなり隠しもったアイクチをつきつける。そんなことに一々返事していられますかい。
 大工だの師匠だの市井人というものは、見ず知らずの人に政見を語るほど、ウヌボレも強くはないし、ヒマ人でもないものだ。ハッキリと、自分の生活をもってるのだから。
 文化人というものは、ウヌボレ屋で、ヒマ人で、自分の生活をもたないのである。私のところへ訪ねてきて、一席政見をのべてきかせる。きかせてくれと頼みやしないから、もう、タクサン、おかえり下さい、と云っても、わからないのである。自分の政見に耳を傾けないのはしからんと腹を立てたり、天下の政治について質問されて、返事もできないほど、無学低能、官能主義のデカダン野郎などと考える。どう考えてもいいよ。早く帰ってくれよ。そして、二度と来ないでくれれば、私はそれで満足だ。
 私はさきごろから「火」という小説を連載して、この中には、天下の政治家などが現れてくるから、アレ、アレ、あの野郎が政治を語る、奇怪。奴め、立候補する気かな。ほんとにそう思いこんで、ゲキレイしたり、すすめたりするのが何人もいた。
 訪問客にも会いたがらない気性の奴が、天下の政治家なんてものに、なりたがる筈がないじゃないか。大学の先生方に、天下の政治についてきかれても、イヤア、どうも、ヘッヘッヘ、と答える奴が、議政壇上に立って一席ぶとうという大ゲサな考えを起すことが有りうる道理がないではないか。
 しかし、私は小説家だから、小説の中では、どんな人間でも書く。政治家も書くし、天下の政治についても論じることがある。小説の中でいろんなことをしたり書いたりするのが私の商売で、私は身の程をわきまえているから、小説以外のところでは一席ぶとうとはコンリンザイ思わないのである。
 しかし、文士が政治家であってはいかん、と云ってるわけではない。ゲーテはワイマールの宰相であったし、ビクトル・ユーゴーも総理大臣であったし、ずいぶん甘ったるい感傷小説の作者シャトオブリヤンのような人でも文部大臣をつとめていらッしゃった。前駐日大使ポール・クローデルはヴァレリイと並んでフランス詩壇の大御所であった。
 しかし、文士が政治家でなければならぬわけもない。私は身の程をわきまえ、訪客にも会いたがらず、天下の政治については訊かれても返事をしない性分だから、その任にあらずということを心得ているのである。
 人さまざまである。銘々が適したことをやればタクサン。
 共産党という連中は特に誰かれ見さかいなく一席ぶちたがる人種で、それについてはキチガイめいた執念をもっている。そして、見知らぬ私に向っても、戦後の世相をどう思うか、とか、貴下の政見は? などと訊問したがる。つまり文化人というウヌボレ屋のヒマ人の中でも特別のウヌボレ屋の大ヒマ人で、自分の生活をもたないのが共産党になる。
 批評家というのは、妙な商売だ。これ、商売かな? しかし、人の批評をよんで、まにあわせる人種もいるから、やっぱり商売往来の中にはいるかも知れん。
 しかし、文学をやり、小説家になろうと思い、思うように小説が書けなくて批評家になったというのは話が分るが、はじめから批評家になろうと志を立てた人間というのは、どうも解せない。はじめから、人の批評をすべく志を立てたという、人の批評をすることを商売に選ぶという人間の魂胆が怪しいじゃないか。
 つまり文化人というウヌボレ屋のヒマ人の中でも特別のウヌボレ屋の大ヒマ人で、自分の生活や手に職を持たないのが、批評家になる。批評家と共産党はウヌボレ屋の大ヒマ人の両横綱なのである。
 こういう口達者な連中には堅く門戸をとざして会わないから、奴め、唐変木、キチガイの人間ギライめなどと言われる。しかし、私は人間は好きだ。大好きだよ。同類だもの。しかし、共産党と批評家は、ウヌボレ屋でヒマ人で生活がなくて、とても彼らの魂胆が解せないから、つきあわない。
 大学生というのもヒマ人だ。しかし、これは、まだ商売の中にはいらないのだから、仕方がない。しかし、仕方がないと諦めているわけではなくて、ヒマ人にはつきあわない性分だから、彼らと交りを持たないように心がけているのである。私は大学の先生方のようにウヌボレ屋のヒマ人とちがうから、とても、あなた方に物は教えてあげられない。私は書くのが商売で、みんな書いておく。あとは魂のヌケガラだから、書いたものを読んで、どうなと解釈すればよろしいのだ。
 昨日、このモミジという旅館へ遊びにきていた四人の女子大学生がある。
 レコードを一時間ほどジャン/\かけておいてから、廊下から首をだして、
「あの、レコード、邪魔ですか」
「やむを得ん」
「私たち、大学の新聞部の者ですが、お話きかせて下さい」
「ダメ、ダメ」
 ひっこんだ。しかし、二三分すると、また、顔をだして、
「ダンスしましょう」
「ダメ、ダメ」
 ひっこんだ。彼女らはヒマ人であるから、まことに、なれなれしい。しかし、ヒマ人の甲羅をへていないから、執念深く食いさがったり、アイクチを突きつけて脅迫するようなところがなくて、まだ、よろしい方だ。ダンスしましょう、というのは彼女らの地道な生活であって、貴下の政見は? などという足が宙にういてるヒマ人の言葉よりは数等よろしいだろう。
 こういうと、私がいかにも物臭ものぐさで、なんにもやりたがらない人間のようにきこえるが、案外そうでもない。
 劇を書こうという考え、映画をつくりたいという考えなどを起すことがある。
 一昨年と昨年、それから今年になっても、三度、劇を書きはじめて、三度ながら中途で破ってしまった。劇を読ませるという目的だけで書き得たら、書きあげることができたろう。芝居道には素人の私であるから、読ませるだけの目的で書いても許してもらえそうだが、書きだすと、自然、見せることを主にして考えている。いつも、舞台を意識している。それで、つかえてしまう。
 見せる劇を意識すると、第一、劇の速力ののろさが筆をにぶらせ、近代劇の形式や、色々の制約に、疑惑をいだいてしまう。
 小説だと、どこでどなたが読むことだろうなどと考える必要はないが、劇というものは、舞台でなければ見せられないものだから、劇場の雰囲気のことまで考える。開幕をまつまでの見物人のことまで考えるに至るから、事ここまで思うに至っては、座付作者でもない私に筆の進むはずがなくなってしまう。第一、劇場も、雰囲気も、どこにも実在しないではないか。
 映画をつくってみたいと思ったこともある。なぜなら、映画は小説とまったく方法のちがうものだから、いっぺん、つくってみたくなるのだ。発想法も、表現の角度も、現実の捉え方も、全然ちがう。だから、時々、ひとつ、つくってみたいな、と思うのだ。
 私はいちど日映にいたこともあるから、いくらか、映画の社会を知っているが、しかし、素人の域を脱しない。だから、誰か演出の助手が必要だし、音楽家との密接な共力の必要のことなど考えると、そういう人間関係の煩労に、考えただけでも堪えられなくなってしまう。
 結局、小説を書いてるほかに手がないということになる。事、志とちがう点も、なきにしもあらず、なのである。決して、物臭さではない。時々、やりはじめるが、完成しないだけなのだ。

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