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我が人生観(わがじんせいかん)08 (八)安吾風流譚

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-6 9:05:11  点击:  切换到繁體中文

底本: 坂口安吾全集 09
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1998(平成10)年10月20日
入力に使用: 1998(平成10)年10月20日


底本の親本: 新潮 第四八巻第一号
初版発行日: 1951(昭和26)年1月1日

 

谷川岳で、又、人が死んだ。いろいろ人の死のニュースの中では、一抹清涼で、平和な生活を感じさせてくれる。
 人間同士でひきおこす出来事は、祝儀不祝儀に拘らず、どことなく陰鬱なものである。人間臭というものは、何につけても身につまされるところがあって、暗い陰をまぬかれることができないものだ。しかし、相手が自然となると、人間も神様みたいなものである。
 私は登山らしい登山は殆どやっていないが、一度、山で死に損ったことがあった。しかし、話にならないのである。山というような山じゃない。里の人も名のつけようがないような、どこにでもゴロ/\している山で、おまけに、その麓、入口のようなところで死に損ったのである。
 同郷の先輩で、伴という弁護士をしている人が、若いころ、夢のような生活にあこがれていたらしい。青梅の奥の日陰和田というところから、山へはいって谷川をわたって登った中腹の広場、ちょッと一町歩ぐらいの広さがあったかな。あるいは、一町歩以上あったかも知れない。小さな山々にかこまれた中腹であるが、大そう日当りのよい草地であった。そこには喬木も灌木もなく、雑草だけが繁っていた。あるいは伴氏が、立樹を全部切ったのかも知れない。
 彼はそこで牛などを飼い、自然人の生活をやるつもりであったのかも知れない。二十何年ほど前の「改造」へ、彼はそんな夢を書いていた。当時はトーローの森の生活などが読まれたり愛されたりしていたような時世でもあった。文学で云うと、新感覚派が現れたころ。一方にコンミュニズムが、一方にロマンチシズムが、ひろがりはじめていたころ。
 彼はともかく、あこがれていたばかりでなく、実際にやりはじめたのである。この中腹へ小屋をつくって住んだ。なかなか、よく出来た小屋であった。彼が自分の手だけで作った小屋だ。杉の木だらけの山であるから、その杉を切って小屋をたて、杉の皮で屋根をふいたものであるが、雨もりなどはしたことがない。小屋は十二畳ぐらいの一室があるだけ。しかし土間に屋根だけかけた吹きさらしの台所があって、まんなかに穴を掘って火をもやし自在鍋をかけるようにできている。煮物しながら読書する習慣らしく、吹きさらしの中に書棚があって、二百冊ぐらいの書物があった。吹きさらしの中ではあるが、小屋に接した羽目板の際であるから、風雨にうたれて汚れたような跡はなかった。いずれも然るべき値のありそうな書物であったが、山中に泥棒はいないらしく、主人が去って無人のまま一年以上もすぎてから私がこの小屋をかりたとき、本も鍋釜も、布団も蚊帳も、そっくりそのままであった。小屋の中にも、かなりの書物が四隅につまれていた。
 彼は小屋を立てるよりも、谷川の水をひいてくるのに苦心したと語っていた。露天風呂があって、そこへ常に谷川の水が流れてくるように上流から林の中を曲りくねってトヨがひかれている。しかし私がかりた時は、無人の年月にトヨが落葉でつまり、又、谷川のとりいれ口のトヨが風雨のために流失しており、用をなさなくなっていた。露天風呂には天水がたまって、蛙が棲んでおり、私は煮炊きの水を谷川まで往復して運ばなければならなかった。これは不便なものである。非常にクモの多いところで、クモの巣を踏みきって谷川に辿りつき、水をくんで戻ってくると、もうクモの巣が修繕されて、往復ともにクモの巣の海を渡っているようなものであった。
 彼がこの小屋で何年ぐらい自然生活したのか、私はよく知らないが、山中に自生する動物植物を食って、血気の仙人生活のあげく、生れた子供が骨格軟弱の不具者であったそうで、自然生活というものは人間にとっては健全なものではないらしい。彼はたそがれ時に小屋の附近に現れるモモンガーを弓で落して煮て食っていたそうであるが、私が小屋をかりた時にも、その弓はちゃんと小屋に附属していた。竹でつくった手製の弓である。私はモモンガーは食わなかった。ゲテモノは食えないタチなのである。モモンガーは本来の名はムササビ。猫の四足にコウモリの翼を張ったようなケダモノである。たそがれ時に現れるのはコウモリと同じく、木の枝から枝をとんで食物をあさる習性らしい。
 私は二十の年に東京近郊の村落で小学校の先生をした。代用教員である。そこは今では東京都内の賑やかな市街地であるが、当時はまったくの武蔵野。田園と自然林の村落であった。ところが、その村に、山中の自然生活をひきあげてきた彼が住んでいたのである。彼はトルコ帽をかぶって歩いていた。私が子供たちをつれて自然林へ図画を書かせに歩いていたとき、トルコ帽の彼に出会でくわしたのである。私たちのその村に住んでいる期間だけのちょッとした交遊がはじまり、そして一夏、彼の山小屋をかりるようなことにもなった。
 小学校の先生というものは、父兄の襲撃に手を焼くものである。自分の子供は特別な子供だときめこんでいる父兄がうるさいことをいってくるからで、こッちの公平な判断を理解してくれない。一方的にきめこんでいるばかりで、こッちの言葉に耳をかそうとする謙虚な態度も失っている。小学校の先生もおもしろいが、これが何より苦手です、と云って彼に打ちあけると、彼は静かに微笑して、
「それはね。こんなのは、どうですか。そんな父兄と話をする時には、はじめ、先方にききとれない細い声で喋るんですね。エ? と云って、先方がきき耳をたてますね。で、次第に、きこえるように声を高くして行くのです。相手は自然にこッちの話をきこうとする態度になっているんですね」
 彼はこう奥儀を伝授してくれたが、これによって私が苦手から少しでも救われたという効き目はなかったようである。この伝授は後日に悪影響を残している。私は人と話していて、自分の声が細いのに気がつくと、意識してそうしていたわけではないが、彼の伝授を思いだして、甚しく切ない気持になる。悪事、詐術を使っているような不快な思いになやむのである。しかし、伝授した彼については、おかしさと、ややなつかしさを覚えるだけで、不快な気持はないのである。
 小田嶽夫と海音寺潮五郎が芥川賞をもらった時だと思うが、レインボーで文士をまねいて授与式があった。その食卓で各自の自己紹介があった。私の番がきて、立ち上って姓名を名乗ると、席を向い合っていた菊池寛が、
「キミ、もっと、大きく」
 と叫んだ。私は彼と一切交遊がない。彼が私によびかけたのは、この一言だけであるが、私はこのとき、いくらか顔をあからめたかも知れない。伴氏の伝授を思いだして、この時ぐらい味気ない思いに胸をつかれたことはないのである。
 又、その村には、藤田という、彼の親友の画家が住んでいた。私はその絵を知らないが、一生ナマズの絵を書いていた人だそうだ。自ら鯰魚と号していたように記憶する。無邪気な楽天家であったが、恒産があったのかも知れない。しかし、貧乏のようでもあった。生れながらに手と足の指が三本ずつしかない人であったが、そういうことが気にかかる余地がなかった。先日因果物の小屋へ見物にはいったら、人間ポンプというのと一しょに、手足の指が三本ずつの男が見世物にでていたが、そんなものが見世物になるのが、むしろ私には異様であった。三本指の藤田画伯はなんの異状もないばかりか、甚しく健康な楽天家であったからである。
 藤田画伯は生来仙人の趣があったが、伴氏はむしろアベコベの天性のように思われる。しかし、生来の仙人は、わざわざ山中に小屋がけし、谷水をひいて住むような面倒な苦労はしたがらないであろう。それを敢てする人は、むしろ天性の俗物であろうが、しかし空想で終らずに本当に着手するには、夢想家にしても、山師にしても、並のものではない。彼は戦争中は猛烈な神がかりで、私は郷里の新聞に彼が神がかりの論文をのせているのを読んだが、先ずこれぐらいベラボーな論理を失した神がかりは天下になかったようである。軍人にせよ、政治家にせよ、壮士にせよ、農夫にせよ、神がかり的になり易い人士は、反面チミツな計算家で、はじめは相手にききとれないような細い声で語りだす、というような術については一生心を用いている人種らしい、と、私はそんなことを考えたりした。あの山小屋の造り主がそんな神がかりになったことが、わびしかったのである。あの山小屋は彼の終生の傑作であったようだ。
 私は一夏、彼の山小屋をかりて暮すことにした。もし快適だったら、小学校の代用教員もやめて、当分山ごもりして読書しようかとも思っていたのである。
 その出発の日は暴風雨の警報がでていた。なみの旅行とちがって、半分出家遁世のような出発であるから、浮世の警報などは気にかからない。家をでる時はまだ雨も降っていなかったが、途中、彼のところへ寄り道して、山中生活の細い注意をきいたので時間をくい、(彼が外出先から戻るのを待っていたので時間をくったのだ)青梅の駅へ降りた時には猛烈なドシャ降りである。すでに多摩川は水量をまして、濁流は堤をかみ、青梅の万年橋を渡る時には、今にも橋が解体しそうな心細さを覚えたほどであった。万年橋を渡ると、もう青梅の町の外れであるが、(今のことは知らない)そこに、日用品や食物を売る店がある。それがこの街道の最後の店だ。米だのミソだの、東京から背負ってゆく必要のない時であるから、なるべく重い目をしないように、町外れの最後の店で仕入れようという次第で、彼から最後の店の所在をきいてきていたのである。家から持って出たのは書物と衣類とカンヅメだけであった。
 一夏の食料を買いこむと、大変なカサになった。米、ミソ、醤油、アズキ二貫目、砂糖、塩、ジャガ芋、カボチャ、キャベツ、等々。全部はリュックに入らないから、野菜類は二ツの南京袋に入れて縄でくくって、リュックの両側へぶらさげた。
 アズキ二貫目はなんのためかと云うと、私は無性者であるから、なるべく炊事の手間を省きたい。美食せずとも、生き永らえるだけの食物をなるべく簡単に食えればタクサンだという天性のナマケ者であるから、米を炊くと、オカズが必要である。主食とオカズ、二度三度と手間が多い。ところがアズキは主食とオカズを兼ねたようなもので、ユデアズキに砂糖をぶっかけてそれだけで一食すませることができる。実にカンタンであるから米食とアズキ食と一日交代にやったら、生命に別状もなく、アズキの日は手間が省けて助かるだろうというコンタンなのである。
 私はカボチャが好きではないのだが、保存のきく野菜はカボチャだと店の者が教えてくれたから、カボチャも買った。好き嫌いよりも、面倒を省くのが目的であったが、結局カボチャは一度も食べなかった。嫌いな物は、食いたくならないのは、当り前だ。
 とうとう、ここで十貫目ぐらいの荷物ができてしまった。雨は益々物凄く、この山中に四百ミりだか五百ミリだかの大雨が降った当日で、この雨と荷物のおかげで、死に損いもしたし、危く命が助かりもした。
 日陰和田まで歩く。谷川がある。そこに狸を祭った祠があって、そこから山の中へ谷に沿うて曲りこむのである。私は里の人に狸のホコラ、狸のホコラ、と聞きながら歩きすすんでいたから、怪しい顔でジロジロと見られ、とうとう巡査がドシャ降りをついて自転車で追っかけてきた。私から事の次第をきいて納得し、狸のホコラまで案内してくれたが、彼は自転車をひっぱりながら急ぎ足で突き進むから、重い荷を背負った私は、彼に足を合せるために疲れきってしまった。すでに狸のホコラまでで精根つきた感があった。
 ここから、いよいよ山中にはいる。谷に沿うて行くと丸木橋が渡してある。それを渡って登ると、彼の山小屋へ辿りつける筈なのだが、このドシャ降りで丸木橋が流失したということを、気付くのがおそすぎた。
 谷に沿うて小径を登りつめると、山径は谷と区別がつかなくなる。道自体が岩であるから、ドシャ降りが山から流れて径を流れ落ち、道だか谷だか分らない。そして、そのうち、まったく、谷になってしまう。やむなく、径の岐路まで戻ってきて、別の一方を登りはじめる。これも道だか谷だか分らなくなって、しまいに谷以外の何物でもなくなる。
 すべての道はローマに通じなくとも、里から里へ、いずれは人の居るところへ通じるのが当り前だが、山の径だけは、ダメです。木コリだけの歩く径が主で、どこにも通ぜず、山の奥で自然消滅するのである。どの径を歩いても丸木橋は現れず、径は山中で自然消滅してしまうから、私もようやく、丸木橋が流失したと悟った。しかし、丸木橋のあった場所の対岸に小径があるはずだから、それを探せば山小屋へ行けると気がついたが、この対岸の小径は彼だけの私用の径で、木コリも通らず、一年半も留守にしているから、径の姿を失っていたのである。だんだんタソガレがせまってきた。私の精根はつきた。そして、アッと思った時には、足をふみすべらして、深い谷底へ墜落してしまった。

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