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青白き夢(あおじろきゆめ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 9:37:14  点击:  切换到繁體中文

底本: 素木しづ作品集
出版社: 札幌・北書房
初版発行日: 1970(昭和45)年6月15日

 

この夜も、明けるのだと思った。
 お葉は目を明けたまゝ、底深い海底でもきはめるやうに、灰色の天井を身ゆるぎもせず、見つめたまゝ、
『お母さん!』低く呼んだ。
 淡黄色い、八燭の電気の光りのなかに、母親は重苦しくひそやかに動いて、ベッドのそばに手をかけた。
『苦しいのかい。水が呑みたい?』
 お葉は、なほ天井を見つめたまゝ、何といってよいか、只悲しかった。
 お母さんは、なんでも知ってゝ呉れる。私に解らない心をも、お母さんは知ってて呉れる。わたしは、只お母さんの声が聞きたかったのだ。動くのが見たかったのだ。
 お葉は、なほ黙って居る。
『お前、足が痛むのかい。』
『いゝえ。』彼女は、はっきりと答へた。
『お母さん、今日も夜があけるのでせうね。』
『あゝ、もうぢき明けるだらうから、なるべく気を安めて眠った方がいゝよ。』
 彼女は、その言葉を聞きながら、気力なさゝうに目蓋まぶたを閉ぢた。もう、何も考へる事は出来ない。この夜も明けるんだと思へば、彼女の心に思ふ事も、見ることもいらない。
 母親は、娘の目蓋の静かに閉ぢるのを見た。そして疲れて眠りに捕はれたのだらうと、そっと身を引いて、布団の上に坐った。
 そして、枕を引きよせながら、自分の心を強ひて盲目めくらにしようと、くぼんだ眼を閉ぢて、うとうととなって行った。
 お葉は、またいつか目を閉ぢたまゝ、気力なく青白く疲れた心のうちに、只、この夜もあけるんだと思ひつゞけた。そして、そのまゝにこの夜もあけるんだと思ひつゞけた心のなかに引き入れられて、茫と意識を失ひかける。
 やがて、彼女はいつか目を見開いて、天井を見てゐた。いつ目蓋が開いたのか、自分にもわからない。只、ぢっと見てゐる。そして、物悲しい心のうちに、
『お母さん!』と呼んだ。
 しかし、その声は彼女の唇をもれなかったので、彼女の両のひとみの周囲には矢張り淡黄な光りが一ぱいにたゞよって、その静寂は一つも動かなかった。そして母親の身動きだに、彼女の頭に感じられない。お葉の心には、遣瀬ない波動が起った。そして、『お母さん!』と再び呼んだ。彼女のぢっとなほ天井を見つめてゐる二つの瞳は、自分の乾いた唇が、微かにふるへたのを見た。
 そして室内の空気が静かに、けれども大きく動いたのを見た。お葉は安心した。
 母親が、またひそかに起き出て来る気配がする。やがて母親の手が、また静かにベッドの毛布にふれた。[#底本では行頭一文字下げていない]
 お葉は、また何を言ひ出すのやら解らない、母親が、只動いたといふだけで、彼女の心は自分におそひ掛らうとする魔を払ひのけたやうな気がした。そしてこれから聞いて見ようとするのは、この夜もいつもの様に明けるんだらうといふ事だけであった。
『お前、さう目が覚めちゃいけないねえ。』
 母親は、静かにわが子の青白い頬から解けかゝった頸のあたりにふるへてる毛条けすぢを見ながら言った。併し、それは反って自分の心に向って、あまりに多い煩悩の心を押へるやうに考へられた。お葉は黙したまゝ、衿元まで掛けられてあった毛布を静かに胸の下へ押しやった。
 お葉の眼には淡い幕がかゝったやうに、すべての物がはっきりと見えない。睫毛まつげは乾いて涙の露も宿ってないのだけれども、すべての物が茫とうるんで見える。
 母親はそっとベッドの前を通りぬけた。そしてドアを押して廊下に出た。足音がバタバタと遠ざかって聞える。
 彼女は、目の前に黒い影をチラと見たまゝ、又瞳は自然に閉ぢられて行った。そしてまた彼女の弾力のない瞳が細く開かれた時、また黒い影がチラとベッドの前を通った。けれども呼び止めようとは思はなかった。
 母親は、うす暗い廊下を、自分の草履の音にせき立てられて便所はばかりに行ったが、月の光が彼女の心をかきむしるやうに、窓の外にさえて居た。そして親子の本能の愛が、彼女を土の中にうづめなければならないやうに思った。
 母親は、小走に帰って来たが、静かにドアをあけ、はゞかるやうにお葉の方を見ながら、ベッドの前を通りぬけて、夜具のなかに顔をうづめた。
 お葉は、また目を開いた。時は一刻も動かないやうに見えた。そして同じ夜であると思った時、彼女の瞳はさぐるやうな不安に動いて、また母親を呼んだ。いま彼女の心には、母より以外にすがる神はなかった。母親は、また起き上った。そして、もはや何事も言はずに、彼女の毛布にかくれた足の方をぢっと見入った。
 かくて、お葉はこの一夜ひとよの中を、うゑた人のやうに疲れと絶望とに力なく瞳をとぢては、又いつか重いまぶたを上げて空を仰ぎ、死の恐怖に堪へられなかったのである。[#底本では行頭一文字下げていない]
 やがて、夜はあけた。世のあらゆるすべての静寂が、この花一つにふくまれて咲くやうな月見草のはなのやうに夜はあけはなれた。ほの白い夜あけの空気が、病室のなかに立ちこめる。
『あゝゝ、夜があけた。』
 お葉は、初めて意識がはっきりして来た時、絶望の後の力なさであった。もはや、時が進むといふのは、どうする事も出来ない力である。時の行くまゝに人は行かねばならない。彼女は、もはや何の為めに今日自分自身の片足を切断しなければならないのか?といふ事は思ふ事が出来ない。これも通過しなければならない時の道であるのだ。
 お葉は、水の一滴牛乳の一つも林檎の一切ひときれも口に入れなかった。そして改めて、空を見、窓を見、壁を見、天井を見て、自分の明らかに開いた二つの目を悲しく思った。そして思はずも動いた母の瞳と合った時は、
『お母さん、今日、今日、』と思はず叫んだ。
『お母さん今日になった。』
 しかし、母親はどうする事も出来ない。そして、皺のよった手を重ねて、うつむきながら子供を持った苦労を思ひ、若いお葉の身の上をかなしんだ。
 お葉は静かに晴れた幸福な窓の外を見た。そしてるうちに前から考へてた事をまたふと考へて、恐ろしさにをのゝいた。
 あゝ、眼が覚めて、魔薬がさめて、片足がなかったら――、それは、あたり前のことなのだ。しかしその当然来るべき事がどんなに恐ろしいことだか、その約束されてる事がどんなに悲しいことだか、片足がなかったら、片足がなかったら、そんな事は想像出来ぬ。
 実際、そんな事が一時間と思ひつゞけて居られるだらうか!彼女は来るべき運命の残忍さにをののきつゝも、またその瞬間に於いて、美しい空と、赤く咲き誇った窓際の花とを無心に眺めることが出来た。
 そして、すべての時にお葉の心のなかには空想が働いて居た。お伽ばなしで読んだ事、小説で見たこと、そんなことが入れかはり立ちかはり、速かに画面を、彼女の小さな心のうちにひろげてゐる。――手術室に自分は魔薬にかけられた時、魔女がひそかにしのび込んで来て、自分の姿を鹿の形に変じた。鹿になった自分は窓から中庭にのがれて、アカシヤの木陰をかけぬけ、古い井戸の側に行って、釣瓶つるべから滴る水が身体の上に落ちると、自分はいつかうるはしい女になって歩いてゐる。自由に、自分に身体といふものがないかのやうに、自由に楽しく歩いてゐる――いつか、どこかに恋人があった。お葉は片輪になったので、もう遊んでやるわけには行かないと言った。お葉は足がないので立ち上るわけにも行かず、床の上にねたまんま、毎日々々どうかして死なうと思ってないてゐた。親も兄弟もみんなお葉をすてた。お葉の寝てゐる所は、どこか真暗な牢屋らうやのやうな所で、高い所に、小さな小さな窓が、一つしかなかった。そしてその窓からは、白い光線が少し入るばかりであった。
 それ等の畫面は、次から次へと、彼女の運命の前に戦慄をののいてゐる、小さな心のどこかへひそやかに入って居た。遠い昔のやうな思ひが、ずん/\目の前におしよせて来たり、また、今現在の事実が遠い古への空想のやうに遠ざかって行ったりした。事実どれが自分の悲しむべき運命にあるのだか、さしせまった恐るべき運命にぶつかっても、心は決して事実と一致しない。常に事実と心とは、淡絹を隔てゝ遂に人間が人間と一致しないごとくに、永久に一つになることはなからう。
 心は事実を否定する。事実は心を否定するのだ。
 太陽は輝かしく空に高い。青空は限りなくすべての上にひろげられた。お葉の肉体は遂に事実にぶつからねばならない、時は流れた。そして午後の物々しいひそかな空気は、ひるがへる白衣の人のもすそから廊下にみち、扉のかげから、病室のベッドの下にもはひよった。そして壁をへだてた看護婦室に物悲しい時計の音が一つ鳴った。
『あゝ一時!』お葉は毛布の上に手を投げ出して、あわてたやうに言った。
 母親は、白い浴衣ゆかたを出さうと戸棚の戸をあけた。
 そして料理される魚が清水しみずで洗はれるやうに、お葉は清らかな浴衣に着かへて、手術台上の人とならねばならなかった。しかし心には永遠に事実はない。心は夢である。お葉は輸送車の廊下を走る音に、青白い手と胸をふるはせながら、なほ夢を見てゐた。夢のなかの事実を思ってゐた。やがてあわたゞしく、ドアはあけられた、そして病室のなかに輸送車は入れられた。
 お葉は抱かれて輸送車にのせられた。
『あ、お母さん。いま、いま!』
 輸送車は病室を出た。そして二人の看護婦は、あわたゞしく長い廊下を輸送車をひきながらかけて行った。何故運命の前に、こんなにあわたゞしいのだらう。彼女は実際運命の前に運ばれて行った。あわたゞしく、小さい彼女の肉体は運ばれて行ったのだ。
『あゝ、いま、いま!』
 母親は扉にすがって立った。そして、輸送車が廊下の角を曲らうとした時、遠くにお葉の黒い瞳を見た。その眼は、母親の悲しく追ひすがった眼と合はなかった。只、茫然と宙に迷っている黒いかなしい瞳なので、バタ/\と二三間廊下を無意識に歩いて見たが、もはや輸送車はかくれて、お葉の姿は見えなかった。
 母親は、淋しい病室のなかにふら/\と入って行って、白い敷布の上に充血した赤い目を閉ぢて、暗い涙をおとした、お葉は居ない。
 母親はまた、あわたゞしく廊下を行きつもどりつして、運命の前に泣き叫ぶ我子の声を聞かうとした。しかし、あたりは静まりかへって物音一つしない。
 かたく閉ぢられた硝子の戸が開かれて、黒い石で畳まれた暗い廊下に入った。お葉は心の中に起るさま/″\な幻影を一つにして、静まり返らうと目を閉ぢた。が、しかし目を閉ぢれば閉ぢる程、心のなかに深い波だちが起って、彼女の肉体はたえまなく小さく慄へてゐた。やがて、あまりに明るい秋の日が、あたりのギャマンの窓にてりつけてゐる部屋に、彼女の輸送車は引き込まれた。そこには、いくらかの看護婦と、二人の顔と胸に繃帯をまきつけた少年が椅子にかけて居た。そして水あさぎの日光が、部屋一ぱいに流れてゐた。お葉はあをむけに窓から高い大きな松の木を見上げた。そしてその松の梢の空はヱメラルドのやうにうるはしかった。枕元に手をやって茫然と側にたゝずんで居た看護婦が、どこを見てゐたのか、
『あの松はね』と話しかけた。
 お葉は静かにうなづいたが、忽ち不安になった。
『あの、手術は!』
『まだ、先の人がすまないから。』
 彼女は、ふとおどろいた。いま恐ろしいことが行はれつゝある。その人の恐ろしさは、他の人の空を見てる一瞬にもあったのだ。
『それ、その窓際に松があるでせう。』
 看護婦はいつか立ち上がった。そしてお葉の髪の毛を静かに撫で乍らまた言った。
『あれはね、宗五郎松って、佐倉宗五郎が、磔刑はりつけになった松なんですよ。』
 彼女は、ふと松を見た。そしてそんな恐ろしい事実のある松も、このうるはしい日にうるはしい空の光にそびえてる事を思って、美しい日であるといふ不安に、心が淋しくおちつかなかった。
『まだ。』お葉の心は少し落ちついた。
『えゝもうぢき、あの杉浦さんは入歯を入れて居りませんか、入歯があったらみんな取って置かないとこまりますから。』
『いゝえ。』と彼女は、悲しさうに看護婦の顔を見ながら、『なぜ、』と問ひかへした。
『それはね、魔薬をかけたあとで入歯が咽喉いんこうに入ると危いから――。』
 看護婦は深くは言はず、なだめるやうに答へた。
『それから指環は。』彼女が一寸ちょいと手を動かした時、指環が目についたので、お葉は少しもゆるがせにしては不可ないといふやうに、また看護婦の顔を見た。
『さうね、おまちなさい。取った方がいゝでせうね。』
 真白な小さいそれ自身が花であるやうな美しい彼女の手の紅指べにゆびにルビーの指環ゆびわは、あまりに幸福に輝いてゐた。青い空を背景に、彼女はあを向けに手を胸の上に上げて、幸福に輝く指環をぬいた。そして看護婦に渡した。お葉は、その指環をぬくに何の悲しみも持ってない。何の思ひ出も払ってない。それが恋人によってはめられた特殊なハートのこめたものではないから。
 そのまゝまだ胸の上に置かれた淋しい手の指に、うすい指環のあとがついてゐた。お葉はそれを無心にみつめて居た。
 やがて、おもたい戸の開く音がして、暗い廊下の彼方に蒼白く淋しい窓が見えた。そしてがら/\と車の音がして、死人のやうにすっかり顔の筋肉に力のない男が運ばれて行った。
『恐ろしい。』お葉のすべての五官は、出来る丈け小さくならうとつとめて、木の葉のやうに戦慄した。
『あゝ恐ろしい。』彼女は、それより以外になに物もなかった。そして下に掛けられたキャラコの白い布を引っ張って、生え際の所までかけた。その上に秋の日は動いて、白く光った。お葉の輸送車はうごき出した。
 ガタリと音がした時、彼女は氷のやうにつめたい空気にふれて驚いて眼をひらいた。
 周囲は真暗だ。なに物も見えない。彼女は、恐れてすぐ眼を閉ぢた。
 やがて、またガタリと音がして、彼女は低い所におち入ったやうな気がした。そして暖かい蒸すやうな空気が彼女の身をつゝんだ。
 そして、キャラコの布ごしに、すべてが淡紅色にはてなく見えた。彼女は恐ろしい。いそいで眼を掩ふ布を取らうとしたが、彼女の手が動かない。どこか遠くから、ゾロゾロと人の来る気配がする。彼女の手は漸くふるへて動いた。お葉の周囲は拡がった。そして驚く程明るく美しかった。天井は円く高くギャマンで張りつめられ、七色しちしょくに日光が輝いてゐる。そして置かれたすべての器物は、銀色ぎんしょくに冷たく光ってゐるのだ。このうるはしい限りない恐ろしさ、彼女は暫くも見る事は出来なかった。逃れたやうな瞳を哀願的に左にめぐらした時、遠く見える部屋の彼方から白衣、白帽の医師たちがいかめしく歩いて来てゐる所だった。と、いつの間にやら、静かによって来た看護婦が、ガーゼの布をたゝんで、お葉の目の上に置いた。
 お葉は、もうどうする事も出来ぬ、改めて不意打でもされるものゝやうに、医師あのひとたちがよって来たなら、どんな事をされるか解らない。殺されるんだと考へたけれども自分の身体は少しも動かない。心ばかりが、本当にポプラの葉のやうにふるへる。そして何処どこからともなく、金属のふれ合ふやうな響を感じて彼女は、たえずおびえた。白い、そして軽いやはらかなガーゼが、霧のやうに上から二つの瞳をおさへつけてどうしても彼女の瞳をひらかせない。周囲の人の話し声が音となって彼女の耳に入る。お葉の心は静かに茫然ぼんやりとなりかけた。その様な状態に彼女をある時間置いといたならば、お葉は自分自身の身体を一人で魔睡にかけてしまったかもしれない。
 誰か、お葉の枕の方に来た。そして何か鼻のあたりに置かれたと思った時に、はっきりと声がきこえた。
『魔薬ですから、静かにしてらっしゃい。』
 急に、変な香がした。そして静かにしようとあせればあせる程、息がせはしく苦しくなって行く。そして何か知らないものが、ゴクン/\と咽喉のどの中に入って行った。[#底本では行頭一文字下げていない]
 そして、それがだん/\つかみ所のない苦しさにかはって行く。そして遠く隔った所に堪へられない痛さが起る。実際それは堪へられない苦しさと痛さだけれども、つかみ所がないのだ。自分の肉体の何処に起ってるのだか、手が、足が、頭が、胴が、目が、耳がどこにあるのやら解らぬ。そして、それが入り乱れて円い玉のやうなものになって行くと、周囲は真暗だ。
 そして、それが丁度夜汽車のやうな機関の音が、真暗ななかにして、どん/\どん/\お葉の身体は運ばれて行った。けれども苦しいことは依然として苦しい。そしてその苦しさと速さが絶頂に達したと思ふ時に、ぼっと周囲はとび色の明るさになって、広い/\野原であった。彼女の身体は、その中に十重とへ二十重はたへにしばられて、恐るべき速力で何千里と飛んだけれども、その行く先はわからなくなった。すべてが無になった。お葉の意識はすっかり魔睡してしまった。彼女は何事もしらなかった。
 カラ、カラ、カラ……どこからか輸送車の音がかすかにする。お葉は、それを知ってたが、自分はどこに居るのだか、何をしてるのだかもわからない。カラ、カラ、カラだん/\その音が近づいて来た時、漸く自分は輸送車にのって廊下を歩いてるんで、その音は自分の車の音だとわかった。けれども何物も見えない。彼女の瞳はにかはでつけられたやうに開く事が出来なかった。
 それから、彼女はそっと抱かれてベッドの上にねかされたのも知ってゐる。そして周囲に母や兄や、親類の人看護婦などが見守ってゐることも頭に考へられぬでもない。母親の気づかはしげな声が、茫然ぼんやりと耳に入る。しかしお葉はまだ自分の手や足や胴がどこに置かれてあるのだかわからないし、自分が今何をして来たのだかも明瞭はっきりしない。
 けれども、どことなしに不安が身をおそって来る、どうしても眼を開かなくちゃ不可ないと思ひながら、かすかに瞳を開けた時、周囲は霧が立ちこめたやうに淡暗く、人の眼がみんな強く自分を見つめて居た。
『お母さん!』彼女は、漸く母親を呼ぶ事が出来たが、その声は極めて力なく弱くって母親の耳に入ったかどうか解らない。急に思ひがけないやうな淋しさと悲しさが彼女のすべてをつゝんだ。その時医師は手と足に食塩とカンフルの[#「カンフルの」は底本では「カンプルの」]注射をした。そして、その痛さによって初めてはっきりと声を立て得るやうになり、すべての意識が我に帰った。母親は枕元に彼女の額を冷し、乾いた白い唇をガーゼでしめして居た。
『もう、すんだの。』お葉は周囲を見まはした。しかし、あの恐ろしいことが、足を切断するなんていふ事が、すんだとは考へられない。只なにか、まだ/\易しいことが済んだのだと周囲を見まはした。
『熱い、あつい。』お葉は起き上ることも、動くことも出来ない。腰のあたりに大石をのっけたやうに千斤の重さがある。そして胸の辺りからずっとリヒカが掛けられて、物々しく毛布がたれて居た。併し、足を失ったといふことが、どうして解り、どうして感じられよう。彼女の頭は、唯両足の重いといふより感じられなかったのである。
『熱い、あつい。』お葉は、両わきにだらりと下げた手を、氷の入った金盥かなだらひのなかに落した。白く死んだやうな手に、冷たさがしん/\としみて行った。
 母親は、あまりながい手術の間を身悶えして病室にまち、廊下を歩いては、『万一手術中に死亡の事有之候とも遺存これなく候』と手術契約書を出したことを考へて、もうあれが最後であったかもしれない。いっそ若い身空で不具かたはとなって生きるよりは、このまゝ死んで呉れた方がお葉の為めでもあり、また自分にもその方がいゝかもしれないなどゝ考へて居たが、かうして娘はベッドにねて居るが、何処にその恐ろしい変化が加へられたのだらうと思った。両手はやはりすこやかに延びて、指一本欠けてる所もない。何事もおこらない。何事もあったのではない、考へてた事すべては夢であったといふやうな気がする。母親は絶えずお葉の顔を見つめながら、彼女の乱れた生際はえぎはを冷たいタオルでぬらして居た。

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