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珠(たま)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 9:53:26  点击:  切换到繁體中文


 幸子さちこは、しばらくたつて泣きやんで歸つて來るが、靜かに起き上つてゐる多緒子の顏を見ると、急に堪へがたいやうに泣き立てた。そして多緒子の細い腕に抱かれると、すゝり上げて嬉しさうに泣きやんだ。けれども彼女はすぐにまた横にならなければならなかつた、幸子は晝も夕べも、女の脊中に負はれて、

たんぽさん、たんぽさん、お前のお國はどこじやいな。房州の房州の外房州。――

といふ唄の聲につれて、泣きながら海の方や松林のなかに、つれられて行くのであつた。
 多緒子は娘であつた頃病といふものを少しも怖れてゐなかつた。彼女は靜かな部屋のなかの藥とそして花の香の中で、力ない腕を見つめながら白い床の上にねてゐることは、本當に美しいことであると思つてゐた。そして殊に若く美しい花が人に手折たをられたやうに死んで行くことは、限りない幸福なことだと考へてゐたのであつた。そして生れつき弱い彼女は、これまで度々病氣をした。けれどもその病氣に對しての恐怖、その恐怖に對する悲しみなどを、眞に感じたことがなかつたのだ。
 しかし多緒子はいま床の上に身を横たへながら、絶えず死の恐怖におそはれた。そして死の恐怖におそはれるが故に、彼女の悲しみは絶えなかつた。幸子の泣き聲にも、女の歌の聲にも、ゆるい波の音にも、たへがたい悲哀をおぼえた。彼女は自分の死後の悲慘な子供の未來が胸に浮んでならなかつた。
 自分がゐなくなつたならば、誰が幸子さちこに乳をのませてくれるだらう。誰が子供に着物を縫つてやるだらう。彼女は力なく部屋のなかを見まはしてゐる時、いつもさう思ふのであつた。彼女はいま力なく何事もなし得ないで床のなかに横たはつてゐるけれども、見まはした部屋のなかに目につくすべての必要なものは、彼女の考、彼女の手、彼女の心づかひで、すべて出來たものであつた。彼女が死んでしまつたならば、それらのすべての必要なもの清らかなものは古びてそこなはれて、いつかなくなつてしまふだらう。そしてその中に成長する幸子、生活する夫の何物かに不足がちな淋しい顏、淋しい心を考へることが出來るのであつた。
 多緒子はしみ/″\と自分の心、自分の力、自分の愛が家のなかのすべてのものに、夫と子供の心のすべてに肉體のすべてに行き渡つて流れてゐることを感じた。そして自分の生きてるといふことが愛する夫や子供の幸福の幾分にでもなつてゐるのだと云ふことを考へると、一日でも一時間でもながく彼等の爲めに生きなければならないと考へた、彼女は死を怖れた。病を悲しんだ。もしもこの病が旅に出てゐる夫を再び見ることをさせず、慕う子供を殘して自分を死に導いたならば――と思ふのであつた。
 夫のたかしが一週間ほどして歸つて來た時、多緒子は甦へつたやうに喜んだ。彼も多緒子の別に變化のないらしい顏を見ると、すべてのなやみから逃れたやうな、はつとした顏をした。そして、丁度すや/\と寢てゐた幸子さちこの顏をむさぼるやうに眺めて、
『どうした、別に幸子もなんでもなかつたか。』
 と巍は嬉しさうになつかしさうに笑ひながら、眼に涙を浮べた。彼は急に立つてそして着物をぬぎながら、
『どうした。どうしてゐた。變つたこともなかつたか、苦しいやうなこともなかつたか。』
 と、部屋のなかを歩きながら繰りかへした。
 多緒子は、そつと床の上に起き上つた。幸子は、やがて目覺めた。
『どうした、待つてたか。』
 巍は、あわてゝ幸子の顏に顏を押しあてゝ抱き上げた、幸子は彼の顏を見ると泣き出した。彼は部屋のなかを歩きまはつた。すると幸子は急に泣きやんで彼の顏を見ると笑つた。
 多緒子は嬉しさうにその樣子をぢつと見てゐた。たかしは嬉しさうに幸子の顏をぢつと見つめた。幸子の笑つてる顏には、いま泣いた涙がまだ頬をつたつてゐた。そしてやがて、彼の瞳にも、彼女の瞳にも、涙が新らしく浮んで來た。
 その夜、多緒子は夫に自分の死に對する恐怖を物語つた。そして彼女はつけ加へた。
『そして私はこんな事まで考へますの。私は肺が惡いんでせう、肺は感染うつつてからでも十年位もひそんでゐるつて云ふんですもの、もしも私が死んでしまつてから、あなたが病氣になつて死ぬやうなことがあつたら、幸子はなんといふ不幸な子になるでせう。孤兒になるんですもの。そして幸子が一人ぼつちになつてから、また肺病になつたとしたら、幸子は看病してくれる人もなく、本當に道ばたにたふれて死ぬかもしれませんわ。ね、私はそんなことになつたらどうしようと思ひますわ。本當に病氣はいやだ。どうかしてはやく癒りたい。』
 と彼女は顏に手をあてた。
『本當に、どうかして出來る丈のことをして癒さう、それでも癒らないで、お前が死なゝければならない時には、幸子も俺も死んだ方が幸福なのだ。お前が死ぬ時には、きつとみんな一緒に死なう。幸子が孤兒になる。そんなことは決してない。』たかしは言つた。
 死なうとするのも、生きようとするのも、すべて愛の爲めであつた。そして生きることも死ぬことも絶對なのだ、若い兩親は、一人兒ひとりごの爲めに生きやうし、また死なうとした。
 多緒子は衰弱した。そして幸子が彼女の乳をのむことは、彼女の血を眞實吸ひとるかのやうに思はれた。彼女とたかしとは幸子に對する目前の愛に捉はれないやうにと、我子の生先を氣づかつて、醫者のすゝめのまゝに、すぐほど近くの百姓家へ、一時母親の乳をはなすためにあづけた。
 部屋のなかに散らばつてゐた幸子の必要なすべての品々は持ち去られた。そして横になつてる多緒子は眼をうすくして室内を見廻したが、我子のものは何物もなかつた。彼女は靜かに眼を閉ぢて眠りに入らうとしたが、心のなかには何物も待つものゝない頼りなさ、目覺めても黄昏たそがれになつても、そして夜になつても、泣いて歸つて來る我兒がゐないことを思ふと、彼女は安らかに瞳を閉ぢることが出來なかつた。多緒子の痩せた胸にとび出た乳房は、幸子のことを思ふと、つまるやうになつてかたく張つて來た。
 幸子をつれて置いて來たたかしは、すぐ歸つて來たが、うろ/\と部屋のなかを歩いてなか/\坐らうとはしなかつた。多緒子はかたく張つた乳をおさへては時々何か言はうとしては、たかしの方を見た。彼はふと窓際に腰をおろして考へるやうにしてゐたが、
『幸子が泣いてつれられて來たんぢやないか、たしかに幸子の泣き聲だ、俺は泣いてこまるやうだつたら、すぐつれて來てくれと言つて來たんだから。』
 と、あわてたやうにそとに飛び出した。
 その夜二人ふたりは、各々おの/\の心のなかに響く子供の聲に、幾度となく目覺めて耳をすました。そしてあけやすい夏の空が白んだと思ふと、巍は飛び起きて部屋の戸をあけはなした。白い曉の空氣は、靜かに部屋のなかに流れ込んだ。けれども何物もないすべてのものを奪ひ取られたやうな彼は、ぶらつと部屋のなかに立つてゐた。そして彼女は流れて來た白い朝の光りをそつと見ると、堪へがたく悲しみに打たれたやうに、再び眼を閉ぢた。
 巍は氣がついたやうに、幸子の樣子を見てくると言つて家を出た。家のなかはすつかり靜まりかへつてしまつた。
 多緒子は、その靜けさのなかに一人とり殘されたやうに、ぢつと眼を閉ぢてゐることが出來なかつた。彼女の心は我子を思ふ愛情の堪へがたさに波うつて、そしてはげしくふるへてゐた。彼女はたゞ一人靜かに起き上つた、そして力なくゐざりながら窓際によつて、霧につゝまれた裏の松林の小路こうぢを見つめた、多緒子は、かうして自分が見つめてゐるうちに、ひよつとどこかの松の陰から幸子が夫の手に抱かれて出て來やしないか。この小路を歩いて來やしないか。と思はれてならなかつたのだ、もしやさうして私の所に來るのだつたならば、出來るだけこの窓から眼のとゞくかぎりの遠くに歩いて來るをつと、我子をも見のがすまいと思ひつめてゐた。
『母さんや、母さんや、』
 ふつと霧につゝまれた松林のなかから、たかしの喜びにみちたやうな聲を聞いた時、多緒子ははつとして大きな眼を見はりながら、
幸子さちこや。』と漸く咳の出さうな咽喉をおさへて、半ばかすれたやうな聲で出來るだけ大きく聞えるやうにと叫んだ。するともういつの間にか幸子が、不似合な冬の頃の赤い着物を無雜作にきせられて、巍に抱かれながら、松林の小路こうぢ此方こちらへ向つて歩いて來てゐるのであつた。
 多緒子は、はひつて來た夫の手から幸子をとつて抱きしめた。幸子は大聲で泣きながら、彼女の乳をさぐつた。多緒子は涙ぐみながら、夢中になつて乳を與へた。
『あゝ可哀想に、可哀想になあ。』
 たかしは幸子をなだめるやうに言つた。すると彼女はすぐに、
『どんな風にして居りまして、おとなしく遊んで居りまして。』と、氣づかはしさうに彼の顏を見た。
『駄目だ。俺はもう幸子さちこをやらないよ。可哀想だ、親があるのに子供を親の許から離して、にあづけるなんていふ法はない。俺が行つたら幸子は、眞黒まつくろな蚊帳のなかのきたないおかみさんの大きな蒲團のなかにころがつて、一生懸命泣いてゐるんだ。そしておかみさんはなにか仕事をしてゐるんだらう。「幸子さちこ。」つて俺が入る時に呼んだらば、すぐ驚いたやうに泣きやんで、四邊あたりをぐるぐる見てゐるのさ。そしてまた火のつくやうに泣き出したんだ。俺がいそいで行つて、蚊帳のなかから幸子を出して抱き上げようとして見ると、幸子の身體からだが一晩ですつかり蚤にくはれて眞赤になつてるんだ。多緒子、見てごらん、まるで金魚のやうになつてゐるんだ。たつた一晩で、のみとり粉も買つてやつたのに、金魚のやうに食はれてゐるんだ。これぢや泣くのもあたり前だよ。きつと昨晩ゆうべは夜通し泣いてゐたんだらうな可哀想に、もうどこへもやらないよ。父さんが夜一つもねないでもいゝ、父さんが抱いて、お前をよくねせてやるからな。もう大丈夫だ。もう決してどこへもやらないよ。一晩でも父さんがお前をはなしたのは、本當に惡かつたな。』
 と、いつか巍の言葉は幸子に對して言つてゐるのであつた。多緒子は、その話を聞いて涙ぐみながら、もはやほゝ笑んで乳房からはなれてゐた幸子の身體を、着物をほどいて見てゐた。本當に一つも蚤にくはれなかつた子供の美しい肌が、幾許いくらとも知らないぶつ/\の爲めに眞赤まつかになつてゐるのであつた。
 あゝそればかりでない、多緒子は一夜のうちに清い、美しい、愛する我子がどことなくよごされ、どことなく汚されたものゝやうになつたやうな氣がした。如何なる血のものか、いかなる肉體からだのものか、わからない他人ひとの乳、それがわづかでも我子の肉體からだを流れたかと思ふと、彼女はとりかへしのつかないことをしたやうな氣がしてならなかつた。
 またすべて、只の一夜で幸子のものが部屋のなかに擴げられ、部屋のなかに我子のすべてが行き渡つてるやうな氣がした。
 それからたかしは日中、ほとんど一人の手で幸子さちこもりをした。そして漸くのことで牛乳をのませた。けれども夕方になると、砂山の上の小さな丸い草の葉を凉しい風が靜かにふき初めると、幸子は一日の務め、苦しい務め、忍耐にたへかねたといふやうに、そして逃れるやうに泣いて母親を求めた。誰の手にも誰れのふところにも行かなかつた。そして母親のふところに抱かれないならば、一でも泣きあかさうとした。そして、決して眠るまいと決心してゐるやうであつた。けれどもどんなに泣き叫んでる時でも多緒子の胸に抱かれゝばすぐ安らかに寢た、しかし一夜の間幸子は夢にも母親の胸をはなれまいとしてすがりついた。幸子は、すべてをさとつてるやうに、只夜だけの我に安息を與へて呉れと願ふやうに、朝になれば誰の手にもよろこんで、小さな可愛い手を出した。
 夏がすぎて爽やかな秋になろうとするころ、多緒子の肉體もいつか心よくなつて來た。氣の向いた朝や夕べには、折々砂の上に片足をおろすこともあつた。そして幸子の咳は殆んど忘れたやうに根だえてゐた。
 幸子は、機嫌がよくなつた。めつたに泣く事がなかつた。そしてまた肥えて來た。たかしは夕方幸子を抱いて、樂しさうな讃美歌を大聲おほごゑで歌ひながら、砂山から海の方へ行つた。そしてまた小高い砂山の上に立つて空を見上げながら、大聲おほごゑで歌を唄つた。そしてまた多緒子が寢てゐるすぐま近かな家の方を見おろして、
『かあさん、かあさん。』と呼んだ。多緒子は床のなかで、をつとの唄ふ歌の聲を嬉しさうに聞いてゐた。そして快くなりかけた肉體からだのすべてに幸福な哀愁が、靜かに流れてゐるのを覺えた。
『かあさん、かあさん。』
 巍の聲がまた彼女の耳にひつついて來ると、多緒子は笑ひながら起き上つて、ゐざりながら縁側に出た。そして遠い砂山の上に立つて、落日に顏を赤くそめながら、夕風に髮をふかれて、大聲おほごゑで歌を唄つてるわが夫と我子とを見た。彼女は彼とともに大聲を出して歌を合せやうとした。しかし聲が出なかつた。
 彼女は笑つた。そしてちひさな聲ですぐ眼の前の人を呼ぶやうに、しかしながら遠い我子とわがをつととを見つめて、
幸子さちことうさん。』
 と呼んだ。





底本:「青白き夢」新潮社
   1918(大正7)年3月15日発行
初出:「文章世界」
   1917(大正6)年8月号
入力:小林 徹・聡美
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。

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