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佳日(かじつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-19 6:55:39  点击:  切换到繁體中文



 その日、小坂氏と相談して結婚の日取をきめた。暦を調べて仏滅だの大安だのと騒ぐ必要は無かった。四月二十九日。これ以上の佳日は無い筈である。場所は、小坂氏のお宅の近くの或る支那料理屋。その料理屋には、神前挙式場も設備せられてある由で、とにかく、そのほうの交渉はいっさい小坂氏にお任せする事にした。また媒妁人ばいしゃくにんは、大学で私たちに東洋美術史を教え、大隅君の就職の世話などもして下さった瀬川先生がよろしくはないか、という私の口ごもりながらの提案を、小坂氏一族は、気軽に受けいれてくれた。
「瀬川さんだったら、大隅君にも不服は無い筈です。けれども瀬川さんは、なかなか気むずかしいお方ですから、引受けて下さるかどうか、とにかく、きょうこれから私が先生のお宅へおうかがいして、懇願してみましょう。」
 大きい失敗の無いうちに引上げるのが賢明である。思慮分別の深い結納のお使者は、ひどく酔いました、これは、ひどく酔いました、と言いながら、紋附羽織と白足袋をまた風呂敷に包んで持って、どうやら無事に、会津藩士の邸宅から脱れ出ることが出来たのである。けれども、私の役目は、まだすまぬ。
 私は五反田駅前の公衆電話で、瀬川さんの御都合を伺った。先生は、昨年の春、同じ学部の若い教授と意見の衝突があって、忍ぶべからざる侮辱を受けたとかの理由をもって大学の講壇から去り、いまは牛込うしごめの御自宅で、それこそ晴耕雨読とでもいうべき悠々自適ゆうゆうじてきの生活をなさっているのだ。私はすこぶる不勉強な大学生ではあったが、けれどもこの瀬川先生の飾らぬ御人格にはひそかに深く敬服していたところがあったので、この先生の講義にだけは努めて出席するようにしていたし、研究室にも二、三度顔を出して突飛な愚問を呈出して、先生をめんくらわせた事もあって、その後、私の小さい著作集をお送りして、鈍骨もなお自重すべし、石に矢の立つ例も有之候云々これありそうろううんぬん、という激励のお言葉を賜り、先生はどんなに私を頭の悪い駄目な男と思っているのか、その短いお便りにって更にはっきりわかったような気がして、有難く思うと共に、また深刻に苦笑したものであった。けれども、私は先生からそのように駄目な男と思われて、かえって気が楽なのである。瀬川先生ほどの人物に、見込みのある男と思われては、かえって大いに窮屈でかなわないのではあるまいか。私は、どうせ、駄目な男と思われているのだから、先生に対して少しも気取る必要は無い。かえって私は、勝手気ままに振舞えるのである。その日、私は久しぶりで先生のお宅へお伺いして、大隅君の縁談を報告し、ついては一つ先生に媒妁の労をとっていただきたいという事を頗る無遠慮な口調でお願いした。先生は、そっぽを向いて、しばらく黙って考えて居られたが、やがて、しぶしぶ首肯しゅこうせられた。私は、ほっとした。もう大丈夫。
「ありがとうございます。何せ、お嫁さんのおじいさんは、槍の名人だそうですからね、大隅君だって油断は出来ません。そこのところを先生から大隅君に、よく注意してやったほうがいいと思います。あいつは、どうも、のんき過ぎますから。」
「それは心配ないだろう。武家の娘は、かえって男をうやまうものだ。」先生は、真面目である。「それよりも、どうだろう。大隅の頭はだいぶ禿げ上っていたようだが。」やっぱり、その事が先生にとっても、まず第一に気がかりになる様子であった。まことに、海よりも深きは師の恩である。私は、ほろりとした。
「たぶん、大丈夫だろうと思います。北京から送られて来た写真を見ましたが、あれ以上進捗していないようです。なんでも、いまは、イタリヤ製のいい薬があるそうですし、それに先方の小坂吉之助氏だって、ずいぶん見事な、――」
「それは、としとってから禿げるのは当りまえの事だが。」先生は、浮かぬ顔をしてそう言った。先生も、ずいぶん見事に禿げておられた。

 数日後、大隅忠太郎君は折鞄おりかばん一つかかえて、三鷹の私の陋屋ろうおくの玄関に、のっそりと現われた。お嫁さんを迎えに、はるばる北京からやって来たのだ。日焼けした精悍せいかんな顔になっていた。生活の苦労にもまれて来た顔である。それは仕方の無い事だ。誰だって、いつまでも上品な坊ちゃんではおられない。頭髪は、以前より少し濃くなったくらいであった。瀬川先生もこれで全く御安心なさるだろう、と私は思った。
「おめでとう。」と私が笑いながら言ったら、
「やあ、このたびは御苦労。」と北京の新郎は大きく出た。
「どてらに着換えたら?」
「うむ、拝借しよう。」新郎はネクタイをほどきながら、「ついでに君、新しいパンツが無いか。」いつのまにやら豪放な風格をさえ習得していた。ちっとも悪びれずに言うその態度は、かえって男らしく、たのもしく見えた。
 私たちはやがて、そろって銭湯に出かけた。よいお天気だった。大隅君は青空を見上げて、
「しかし、東京は、のんきだな。」
「そうかね。」
「のんきだ。北京は、こんなもんじゃないぜ。」私は東京の人全部を代表してしかられている形だった。けれども、旅行者にとってはのんきそうに見えながらも、帝都の人たちはすべて懸命の努力で生きているのだという事を、この北京の客に説明してやろうかしらと、ふと思った。
「緊張の足りないところもあるだろうねえ。」私は思っている事と反対の事を言ってしまった。私は議論を好まないたちの男である。
「ある。」大隅君は昂然と言った。
 銭湯から帰って、早めの夕食をたべた。お酒も出た。
「酒だってあるし、」大隅君は、酒を飲みながら、叱るような口調で私に言うのである。「お料理だって、こんなにたくさん出来るじゃないか。君たちはめぐまれ過ぎているんだ。」
 大隅君が北京から、やって来るというので、家の者が、四、五日前から、野菜やさかなを少しずつ買い集め貯蔵して置いたのだ。交番へ行って応急米の手続きもして置いたのだ。お酒は、その朝、世田谷の姉のところへ行って配給の酒をゆずってもらって来たのだ。けれども、そんな実情を打明けたら、客は居心地の悪い思いをする。大隅君は、結婚式の日まで一週間、私の家に滞在する事になっているのだ。私は、大隅君に叱られても黙って笑っていた。大隅君は五年振りで東京へ来て、わば興奮をしているのだろう。このたびの結婚の事にいては少しも言わず、ひたすら世界の大勢に就き演説のような口調で、さまざま私を教えさとすのであった。ああ、けれども人は、その知識の十分の一以上を開陳するものではない。東京に住む俗な友人は、北京の人の諤々がくがくたる時事解説を神妙らしく拝聴しながら、少しく閉口していたのも事実であった。私は新聞に発表せられている事をそのとおりに信じ、それ以上の事は知ろうとも思わない極めて平凡な国民なのである。けれども、また大隅君にとっては、この五年振りで逢った東京の友人が、相変らず迂愚うぐな、のほほん顔をしているのを見て、いたたままらぬ技癢ぎようでも感ずるのであろうか、さかんに私たちの生活態度をののしるのだ。
「疲れたろう。寝ないか。」私は大隅君の土産話みやげばなしのちょっと、とぎれた時にそう言った。
「ああ、寝よう。夕刊を枕頭ちんとうに置いてくれ。」
 あくる朝、私は九時頃に起きた。たいてい私は八時前に起床するのだが、大隅君のお相手をして少し朝寝坊したのだ。大隅君は、なかなか起きない。十時頃、私は私の蒲団ふとんだけさきにたたむ事にした。大隅君は、私のどたばた働く姿を寝ながら横目で見て、
「君は、めっきり尻の軽い男になったな。」と言って、また蒲団を頭からかぶった。

 その日は、私が大隅君を小坂氏のお宅へ案内する事になっていた。大隅君と小坂氏の令嬢とは、まだいちどもっていないのである。互いの家系と写真と、それから中に立った山田勇吉君の証言だけにたよって、取りきめられた縁である。何せ北京と、東京である。大隅君だって、いそがしいからだである。見合いだけのために、ちょっと東京へやって来るというわけにも行かなかったようである。きょうはじめて、相逢うのだ。人生の、最も大事な日といっていいかも知れない。けれども大隅君は、どういうものか泰然たいぜんたるものであった。十一時頃、やっとお目ざめになり、新聞ないかあと言い、寝床に腹這はらばいになりながら、ひとしきり朝刊の検閲をして、それから縁側に出て支那の煙草をくゆらす。

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