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古典風(こてんふう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-20 8:30:21  点击:  切换到繁體中文


        D

 雨降る日、美濃は書斎で書きものをしていた。仔細(しさい)らしく顔をしかめて、書きものをしていた。
 あそび仲間の詩人が、ひょっくりドアから首を出した。
「おい、何か悪い事をしに行こうか。も少し後悔してみたい。」
 振り向きもせず、
「きょうは、いやだ。」
「おや、おや。」詩人は部屋へはいって来た。「まさか、死ぬ気じゃないだろうね。」
「いいかい? 読むぞ。」美濃は、机に向ったままで、自分の労作を大声で読みはじめた。「アグリパイナは、ロオマの王者、カリギュラの妹君として生れた。漆黒の頭髪と、小麦色の頬と、痩せた鼻とを持った小柄の婦人であった。極端に吊りあがった二つの眼は、山中の湖沼の如くつめたく澄んでいた。純白のドレスを好んで着した。
 アグリパイナには乳房(ちぶさ)が無い、と宮廷に集(つど)う伊達(だて)男たちが囁(ささや)き合った。美女ではなかった。けれどもその高慢にして悧※(りはつ)[#「りっしんべん+發」、345-19]、たとえば五月の青葉の如く、花無き清純のそそたる姿態は、当時のみやび男(お)の一、二のものに、かえって狂おしい迄の魅力を与えた。
 アグリパイナは、おのれの仕合せに気がつかないくらいに仕合せであった。兄は、一点非なき賢王として、カイザアたる孤高の宿命に聡(さと)くも殉ぜむとする凄烈(せいれつ)の覚悟を有し、せめて、わがひとりの妹、アグリパイナにこそ、まこと人らしき自由を得させたいものと、無言の庇護を怠らなかった。
 アグリパイナの男性侮辱は、きわめて自然に行われ、しかも、歴史的なる見事さにまで達した。時の唇薄き群臣どもは、この事実を以(もっ)て、アグリパイナの類(たぐい)まれなる才女たる証左となし、いよいよ、やんやの喝采(かっさい)を惜しまなかった。
 アグリパイナの不幸は、アグリパイナの身体の成熟と共にはじまった。彼女の男性嘲笑は、その結婚に依(よ)り、完膚(かんぷ)無きまでに返報せられた。婚礼の祝宴の夜、アグリパイナは、その新郎の荒飲の果の思いつきに依り、新郎手飼(てがい)の数匹の老猿をけしかけられ、饗筵(きょうえん)につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。新郎の名は、ブラゼンバート。もともと、戦慄(せんりつ)に依ってのみ生命(いのち)の在りどころを知るたちの男であった。アグリパイナは、唇を噛んで、この凌辱(りょうじょく)に堪えた。いつの日か、この目前の男性たちすべてに、今宵の無礼を悔いさせてやるのだ、と心ひそかに神に誓った。けれども、その雪辱の日は、なかなかに来なかった。ブラゼンバートの暴圧には、限りがなかった。こころよい愛撫のかわりに、歯齦(はぐき)から血の出るほどの殴打があった。水辺のしずかな散歩のかわりに、砂塵濛々の戦車の疾駈(しっく)があった。
 相剋(そうこく)の結合は、含羞(がんしゅう)の華をひらいた。アグリパイナは、みごもった。ブラゼンバートは、この事実を知って大笑した。他意は無かった。ただ、おかしかったのである。
 アグリパイナは、ほとんど復讐を断念していた。この子だけは、と弱草一すじのたのみをそこにつないだ。その子は、夏の真昼(まひる)に生れた。男子であった。膚やわらかく、唇赤き弱々しげの男子であった。ドミチウス(ネロの幼名)と呼ばれた。
 父君ブラゼンバートは、嬰児(えいじ)と初の対面を為し、そのやわらかき片頬を、むずと抓(つね)りあげ、うむ、奇態のものじゃ、ヒッポのよい玩具が出来たわ、と言い放ち、腹をゆすって笑った。ヒッポとは、ブラゼンバートお気にいりの牝獅子(めじし)の名であった。アグリパイナは、産後のやつれた頬に冷い微笑を浮べて応答した。この子は、あなたのお子ではございませぬ。この子は、きっとヒッポの子です。
 その、ヒッポの子、ネロが三歳の春を迎えて、ブラゼンバートは石榴(ざくろ)を種子ごと食って、激烈の腹痛に襲われ、呻吟転輾(しんぎんてんてん)の果死亡した。アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴場から躍り出て、濡(ぬ)れた裸体に白布一枚をまとい、息ひきとった婿君の部屋のまえを素通りして、風の如く駈け込んでいった部屋は、ネロの部屋であった。三歳のネロをひしと抱きしめ、助かった、ドミチウスや、私たちは助かったのだよ、と呻(うめ)くがごとく囁(ささや)き、涙と接吻でネロの花顔(かがん)をめちゃめちゃにした。
 その喜びも束(つか)の間(ま)であった。実の兄、カリギュラ王の発狂である。昨日のやさしき王は、一朝にしてロオマ史屈指の暴君たるの栄誉を担った。かつて叡智に輝やける眉間(みけん)には、短剣で切り込まれたような無慙(むざん)に深い立皺(たてじわ)がきざまれ、細く小さい二つの眼には狐疑(こぎ)の焔(ほのお)が青く燃え、侍女たちのそよ風ほどの失笑にも、将卒たちの高すぎる廊下の足音にも、許すことなく苛酷の刑罰を課した。陰鬱の冷括(れいとう)、吠えずして噛む一匹の病犬に化していた。一夜、三人の兵卒は、アグリパイナの枕頭にひっそり立った。一人は、死刑の宣告書を持ち、一人は、宝石ちりばめたる毒杯を、一人は短剣の鞘(さや)を払って。
『何ごとぞ。』アグリパイナは、威厳を失わず、きっと起き直って難詰(なんきつ)した。応(こた)えは無かった。
 宣告書は手交せられた。
 ちらと眼をくれ、『このような、死罪を言い渡されるような、理由は、ない。そこ退(の)け、下賤の者。』応えは無かった。
 理由は、おまえに覚えがある筈(はず)、そう言ってカリギュラ王は、戸口に姿を現わした。今朝おまえは、ドミチウスめを抱いて庭園を散歩しながら、ドミチウスや、私たちは、どうしてこんなに不仕合せなのだろうね、と恨(うら)みごとを並べて居った。わしは、それを聞いてしまった。隠すな。謀叛の疑い充分。ドミチウスと二人で死ぬがよい。
『ドミチウスを殺しては、いけません。』アグリパイナの必死の抗議の声は、天来のそれの如く厳粛に響き渡る。『ドミチウスは、あなたのものでない。また、私のものでもございません。ドミチウスは、神の子です。ドミチウスは、美しい子です。ドミチウスは、ロオマの子です。ドミチウスを殺しては、いけません。』
 疑懼(ぎく)のカリギュラは、くすと笑った。よし、よし。罪一等を減じてあげよう。遠島じゃ。ドミチウスを大事にするがよい。
 アグリパイナは、ネロと共に艦に乗せられ、南海の一孤島に流された。
 単調の日が続いた。ネロは、島の牛の乳を飲み、まるまると肥えふとり、猛(たけ)く美しく成長した。アグリパイナは、ネロの手をひいて孤島の渚(なぎさ)を逍遥(しょうよう)し、水平線のかなたを指さし、ドミチウスや、ロオマは、きっと、あの辺だよ。早く、ロオマへ帰りたいね、ロオマは、この世で一ばん美しい都だよ、そう教えて、涙にむせた。ネロは無心に波とたわむれていた。
 その頃、ロオマは騒動であった。蒼(あお)ざめた、カリギュラ王は、その臣下の手に依って弑(しい)せられるところとなり、彼には世嗣(よつぎ)は無く全く孤独の身の上だったし、この後、誰が位にのぼるのか、群臣万民ふるえるほどの興奮を以て私議し合っていた。後継は、さだめられた。カリギュラの叔父、クロオジヤス。当時すでに、五十歳を越えていた。宮廷に於ける諸勢力に対し、過不足ないよう、ことさらに当らずさわらずの人物が選定せられたのである。クロオジヤスは、申し分(ぶん)なき好人物にして、その条件に適(かな)っている如く見えた。ロオマ一ばんの貝殻蒐集家として知られていた。黒薔薇(くろばら)栽培にも一家言を持っていた。王位についてみても、かれには何だか居心地のわるい思いであった。恐縮であった。むやみ矢鱈(やたら)に、特赦大赦を行った。わけても孤島に流されているアグリパイナと、ネロの身の上を恐ろしきものに思い、可哀そうでならぬから、と誰にとも無き言いわけを、頬あからめて呟(つぶや)きつつ、その二人への赦免の書状に署名を為した。
 赦免状を手にした孤島のアグリパイナは狂喜した。凱旋(がいせん)の女王の如く、誇らしげに胸を張って、ドミチウスや、おまえの世の中が来た、と叫び、ネロを抱いて裸足(はだし)のまま屋外に駈け出し、花一輪無き荒磯を舞うが如く歩きまわり、それから立ちどまって永いことすすり泣いた。
 アグリパイナはロオマへ帰って来て、もう恐ろしい人はいないぞ、とのびのびと四肢をのばして、ふと、背後に痛い視線を感じた。クロオジヤスの后(きさき)メッサライナ。メッサライナは、アグリパイナの瞳(ひとみ)をひとめ見て、これは、あぶない、と思った。烈々の、野望の焔を見てとった。メッサライナには、ブリタニカスと呼ばれる世子(せいし)があった。父のクロオジヤスに似て、おっとりしていた。ネロの美貌を、盛夏の日まわりにたとえるならば、ブリタニカスは、秋のコスモスであった。ネロは、十一歳。ブリタニカスは、九歳。
 奇妙な事件が起った。ネロが昼寝していたとき、誰とも知られぬやわらかき手が、ネロの鼻孔と、口とを、水に濡れた薔薇の葉二枚でもって覆い、これを窒息させ死にいたらしめむと企てた。アグリパイナは、憤怒に蒼ざめ、――」
「待て、待て。」詩人は、悲鳴に似た叫びを挙げた。「ひとの忍耐にも限りがある。一体、それは何だね。」
「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚にも蒼ざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。「これから面白くなるのだがな。アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て、ネロを王位にまで押し上げてやりたく思って、あらゆる悪計を用いる。はては、クロオジヤスの后になりすまして、そうしてクロオジヤスを毒殺する。それから、もっともっと悪いことをする。おかげでネロは位についた。それから、――」
「ネロも悪い事をする。」詩人は落ちついて言った。
「いや、アグリパイナは、ネロの恋を邪魔して、――」
「うむ、なるほど。」詩人、煙草をふかしながら、「ネロは、それゆえ、母をなくした。お母さん、おゆるし下さい、私は、あなたのものじゃない。母は、苦しい息の下から囁く。おまえ、お母さんが憎いかい?」
 美濃は興覚(きょうざ)め顔に、「まあ、そんなところさ。」椅子から立ちあがって部屋の中を歩きまわり、「追い詰められた人たちは、きっときっと血族相食をはじめる。」
「よせよ。どうも古い。大時代(おおじだい)だ。」詩人は、美濃の此のような多少の文才も愛しているし、また、こんな物語を独(ひと)りでこっそり書いている美濃の身の上を、不憫にも思うのだが、けれども、美濃のこんどの無法な新手の恋愛には、わざと気づかぬ振りをしていようと思った。「まるで、映画物語じゃないか。」
「呑むか?」美濃は、机上のウイスキイの瓶に手をかけた。
「敢(あ)えて辞さない。」詩人も立ちあがった。
 これでいいのだ。
「ロオマの人のために。」ふたり同時に言い、かちっとグラスを触れ合せる。「滅亡の階級のために。チェリオ。」


 

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