您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 田中 貢太郎 >> 正文

日本天変地異記(にほんてんぺんちいき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-26 15:07:09  点击:  切换到繁體中文


「豊鑑」には「天正十二年霜月廿九日子の刻ばかりにやおびただしくなゐふりけり、その様いはん限りなし、いにしへもたびたび大なゐふりけると記しをれども、眼あたりかかることなんめづらかなる。伊勢、尾張、美濃、近江、北陸、道分てありけりとなん、浦里などは、さながら海へゆり入り、犬※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)などの類まで跡なくなりし所所ありとなん、家などひしげし内にありながら、さすが死にもやらざりしに、火もえつきて焼死、さけぶこゑ哀など思ひやるさへたへがたくなん、此のわざはひにあひて、国国里里、命を失ふ者際限なかるべし、常のなゐなどのふる事、明る春二月まで、そのなごりたえざりけり」としてある。
 その天正十三年は秀吉が内大臣となった年で、国内の紛乱がやや収まって桃山時代の文化が生れたところであった。その十七年二月にも、駿河、遠江、三河にまた大地震があった。慶長に入るとその元年閏七月になって、二回の大地震が起った。はじめの地震は、豊後、薩摩の二箇国がひどく、豊後の府内の土地が陥没して海嘯が起った。その日は京都にも地震があった。「梅園拾遺」には、「ちかく慶長元年七月、大地震速見高崎山なども石崩れ落ち、火出たるよし、府内の記事に見えたり。この時かのあたり人七百余も損じたりとあり」と書いてある。つぎの地震は、山城、摂津、和泉の諸国の大地震で、伏見城の天守が崩壊して圧死者が多かった。この伏見の地震は、河竹黙阿弥の地震加藤の史劇で有名な地震で、石田三成等の纔者ざんしゃのためにしりぞけられて蟄居ちっきょしていた加藤清正は、地震と見るや足軽を伴れて伏見城にかけつけ、城の内外の警衛に当ったので、秀吉の勘気も解けたのであった。
 慶長も非常に地震の多い年であった。十九箇年間に約八十もあった。そのうちで大きかったのは元年の二回の地震の他に、九年十二月と十六年十月と十九年十月の大地震である。九年の地震は、薩摩、大隅、土佐、遠江、伊勢、紀伊、伊豆、上総、八丈島などで、海には海嘯つなみが吼えた。
「土佐国群書類従」に載せた「谷陵記」には、「崎浜談議所の住僧権大僧都阿闍利暁印が記録略に曰く、慶長九年災多し、先づ一に七月十三日大風洪水、二に八月四日大風洪水、三に閏八月二十八日又大洪水、四に十二月十六日夜地震、同夜半に大潮入つて、南向の国は尽く破損す、西北向の国は地震計りと言ふ、当所(崎浜)には五十人溺死、西寺東寺の麓には四百人、甲浦には三百五十余人、宍喰(阿波領)には三千八百六人溺死す、野根浦へは潮入らず、不思議と言ふべしと」。土佐の東部と阿波の一箇所の被害を記してあるが、関係諸国の溺死人は夥しい数にのぼったことであろう。十六年の地震は、三陸の地震で、仙台、南部、津軽及び松前の諸領にまで海嘯があった。十九年の地震は、越後、相模、紀伊、山城で、越後に海嘯があった。

     四 元禄大地震、振袖火事、安政大地震

 慶長五年の関ヶ原の役で、天下の権勢が徳川氏に帰すると共に、江戸時代三百年の平和期が来たが、その間慶長五年から慶応二年に至るまで、全国にわたって四百七八十回の大小の地震があり、地震に伴う海嘯があり、火事があって、市民にかなり深刻な脅威を刻みつけている。
 慶長年間の地震のことは既に言った。元和二年七月には、仙台に大地震があって城壁楼櫓が破損した。寛永七年六月には江戸に大きな地震があり、同十年一月には、江戸をはじめ、相模、駿河、伊豆に大地震があったが、わけて小田原は城が破損して、町は一里の間一軒の家もないように潰れてしまった。そして熱海に海嘯があった。その寛永には十六年十一月に越前にも大きな地震があった。
 正保元年三月には日光山、同年九月には羽後の本荘、同三年四月には陸前、磐城、武蔵、同四年五月には、また武蔵、相模に大きな地震があった。慶安には元年四月に相模、武蔵、山城、同二年二月に伊予、安芸、山城、その六月に武蔵、下野、この翌月に武蔵の大地震があったが、六月の地震には江戸城の石垣が崩れ、諸大名の屋敷町屋が潰れたので、江戸の人心に動揺の兆があった。由比正雪の隠謀の露われたのは、それから中一年を置いた四年の七月であった。
 万治二年二月には、岩代、下野、武蔵に大きな地震があった。寛文年間も大きな地震の多い年であった。元年十月には土佐、同二年三月には京都、江戸、同年五月には山城、大和、伊賀、伊勢、近江、摂津、和泉、丹波、丹後、若狭、美濃、信濃、肥前、同年九月には日向、大隅、同三年七月には胆振いぶり、同年十二月には山城、同四年六月には紀伊の新宮、京都、同五年五月には京都、同年十一月には越後、同八年七月には仙台、同十年六月には相模の大住、というように大きな地震があったが、そのうち日向、大隅の地震には海嘯があり、胆振の地震には有珠岳が噴火した。温泉岳も寛永三年に噴火し、阿蘇山は王朝時代から思いだしたように時時噴火している。
 延宝四年六月には石見、同五年三月には陸中の南部に地震と海嘯があった。元和三年五月には江戸と日光山、同年九月には日光山、貞保元年二月には伊豆の大島に地震があって、三原山が噴火した。貞保二年九月には周防、長門、同三年八月には遠江、三河、山城、元禄七年五月には羽後の能代、同十年十月には相模、武蔵に、それぞれ地震があった。そして元禄十六年十一月二十三日には、武蔵、相模、安房、上総に大地震があったが、その地震には江戸と小田原がひどく、江戸には火事があり、小田原、鎌倉、安房は長狭、朝夷の両郡、上総は夷隅郡に海嘯があった。新井白石もこの地震に逢ったので、「折り焼く柴の記」の中には、その夜の江戸の地震の光景を精細に叙述してある。この地震は安政の地震に匹敵する大地震で、その数日前即ち十一月十四日の外には、その前ぶれのように四谷塩町から出た火が、青山、赤坂、麻布、品川を焼いて、元禄の豪奢に酔うていた江戸市民に警告を与えたが、地震の後でもまた火事があって、怯えている市民の心をいやが上にも怯えさした。それは地震のあった月の二十九日で、本郷追分から出火して、谷中まで焼き、一方は小石川の水戸邸から出火して、上野湯島天神、聖堂筋違橋、向柳原、浅草茅町、南は神田から伝馬町、小舟町掘留、小網町、それから本所へ飛火して、回向院の辺、深川。そして永代橋の西半分を焼いて翌朝になって鎮まった。それには千三百の焼死者があった。
 江戸ではその火事を地震火事と言った。江戸の火事のことを言うと、その以前寛永十八年正月にも大火があり、明暦三年正月十八、十九の両日にも大火があった。わけて明暦の大火は江戸未曽有の大火であったから、市民は由比丸橋の残当の放火であろうと言って恐れおののいた。それは明暦三年正月十八日の未の刻で、本郷丸山の本妙寺の法華宗の寺から出火して、折りからの北風に幾派にも分れた火は、下谷の方は神田明神から駿河台へ飛火し、鷹匠町の辺、神田橋の内へ入って、神田橋、常盤橋、呉服橋などの橋も門も番所も焼き払い、西河岸から呉服町、南大工町、檜物町、上槇町、それから横に切れて大鋸町、本材木町へ移り、金六町、水谷町、紀国橋の辺から木挽町を焼き、芝の網場まで往った。下町の方は、須田町、鍛冶町、白銀町、石町、伝馬町、小田原町、小船町、伊勢町を焼き、川を越えて、茅場町、同心町、八丁堀に及んだ。その火が伝馬町に移った時、伝馬町の獄では囚徒を放った。その囚徒は東へ走って浅草門を出た。浅草門の門番は囚徒を逃がしてはならんと思って門を締めたので、火に追われて逃げて来た市民はそこで無数に焼け死んだ。東の方の火は、佐久間町から柳原を一嘗めにして、浜町、霊岸島、新堀から鉄砲洲てっぽうずに移って、百余艘の舟を焼いたがために、佃島、石川島に燃え移り、それから深川に移り、牛島、新田にまで往った。その火は翌日の辰の刻になって止んだが、その日の午の刻になって、昨日から吹き止まない大風に吹き煽られて小石川伝通院前の鷹匠町から発火した。そしてその火は北は駒込から南は外曲輪に及んだが、日暮ごろから風が変ったために曲輪内の諸大名の邸宅を焼き、数寄屋橋の内外、日本橋、京橋、新橋を焼いて鎮まった。しかしその一方、未の刻に麹町から出た火があって、雉子橋、一つ橋、神田橋に及び、また北風になった風に煽られて、八重洲河岸、大名小路を嘗め、西丸下桜田に至って二つに別れ、一方は通町に出で、一方は愛宕下から芝浦まで往った。この火に江戸城の本丸並びに二三の丸も焼けたので、将軍家綱は西の丸に避難した。この火には諸大名の邸宅五百軒、神社仏閣三百余、橋梁六十、坊街八百を焼失したが、市民の屋舎の焼失した数は判らない。その時の死人は、「本庄に二町四方の地を賜ひ、非人をして死骸を船にて運ばしめ、塚を築きて寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名づけしめ給ふ」と武江年表に書いてあるが、これが回向院の起りである。その明暦の大火は俗に振袖火事という名があって、奇怪な因縁話がまつわっている。
 寛永四年十月には、山城、大和、河内、摂津、紀伊、土佐、讃岐、伊予、阿波、伊勢、尾張、美濃、近江、遠江、三河、相模、駿河、甲斐、伊豆、豊後の諸国にわたって大地震があって、人畜の死傷するもの無数。そして土佐、阿波、摂津、伊豆、遠江、伊勢、長門、日向、豊後、紀伊などの海に面した国には海嘯があったが、そのうちでも土佐などは海岸の平地という平地は海水が溢れて被害が大きかった。「基※(「熈」の「ノ」の左側に「冫」、第3水準1-14-55)公記」などには、「四国土佐大震国中十に七つ破損、人民四十万人死」としてあるが、実際は二千人ぐらいであったらしい。その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相駿三箇国の田圃を埋めた。その宝永の五年十一月に浅間山が噴火し、享保二年一月三日には日向の鶴鳴山が噴火した。
 正徳元年二月には美作、因幡、伯耆、山城、同四年三月には信濃、享保三年七月には信濃、三河、遠江、山城、同年九月には信濃の飯山、同十年九月と十月には長崎、同十四年七月には能登、佐渡、同年九月には岩代の桑折こおり、宝暦元年四月には越後、同五年三月には日光、同十二年九月には佐渡、明和三年一月には陸奥の弘前、明和三年二月にも弘前、同六年七月には日向、豊後に大きな地震があり、安永七年七月には伊豆大島の三原山の噴火があった。安永八年十月には桜島の大噴火があって、山麓の村落に火石熱土を流して、死亡者一万六千余人、牛馬二千余頭をたおした。この噴火のために島の付近に新島嶼が湧出したことは序記に言ってある。
 天明二年七月には、相模、江戸に大きな地震があった。三年七月には、浅間山の大噴火があった。寛政四年一月には、肥前温泉岳の普智山の噴火があった。同十一年五月には、加賀の金沢に地震があって、宮城浦に海嘯。享和二年十一月には、佐渡に地震があって、小木湊に海嘯。文化元年六月には、羽前、羽後に地震があって象潟きさがたに海嘯。また文化九年十一月には、武蔵に地震があった。文政四年十一月には、岩代の地震。同五年閏一月には胆振いぶりにあって、それには有珠嶽が噴火した。文政にはまた十一年十一月に越後の地震があった。
 天保元年七月には、山城、摂津、丹波、丹後、近江、若狭、同二年十月には肥前、同四年十月には佐渡、同五年一月には石狩、同七年七月には仙台、同十年三月には釧路、同十二年には駿河、同十四年三月には釧路、根室、渡島、弘化四年三月には信濃、越後、嘉永六年二月には相模、駿河、伊豆、三河、遠江に大きな地震やそれに伴う海嘯があって、次に来る安政大変災の前駆をなしている。
 有名な安政の地震は、元年十一月四日と二年十一月二日の二回あって、江戸に大被害を蒙らしたのは二年の地震であった。安政には既に元年六月十五日になって、山城、大和、河内、和泉、摂津、近江、丹波、紀伊、尾張、伊賀、伊勢、越前の諸国にわたって大きな地震があった。
 十一月四日の地震は、その日に東海、東山の両道が震い、翌日になって、南海、西海、山陽、山陰の四道が震うたが、海に沿うた国には海嘯があった。この地震は豊後海峡の海底の破裂に原因があって、四国と九州が大災害を被っている。
 二年の地震は、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、豊前、豊後、筑前、筑後、壱岐、出雲、石見、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、摂津、河内、若狭、越前、近江、美濃、伊勢、尾張、伊豆一帯が震うて、摂津、紀伊、播磨、阿波、土佐、伊豆の諸国には海嘯があったが、この地震は江戸の地震と言われるだけに江戸が非常にひどかった。武江年表には「十二月細雨時時降る、夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の二点大地俄に震ふこと甚しく須臾にして大厦高牆を顛倒し倉廩を破壊せしめ、剰さへその頽れたる家家より火起り熾に燃えあがりて、黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却せり」と言って、地震と共に二十四箇所から火が起って惨害をほしいままにしたことを書いてある。その焼け跡は長さ二里十九町で幅が二町余であった。変死人は七千人。この地震に水戸の藤田東湖と戸田忠太夫の二名士が斃れた。
 火事は江戸の花と言われるくらい、江戸時代には地震以外にもたくさんの火事があった。享保五年三月にも同九年二月にも、寛政四年七月にも安永元年十二月にも、文化三年三月にも同十二年三月にも、天保九年四月にも弘化元年正月にも、同三年十二月にも慶応二年にも恐ろしい火事があった。

     五 維新以後の災変

 安政元年二月の大地震後、大きな地震はその年の十月と三年の十月に江戸にあった。そして安政三年七月には渡島、胆振にあって、それには海嘯つなみがあった。同四年閏五月に駿河、相模、武蔵、同年七月に伊予、同五年二月に越中、越前、同年三月に信濃、松代、同六年に武蔵の槻にあって、それが江戸時代のしんがりをしている。
 明治では五年二月に浜田、二十二年七月に熊本、二十四年十月に濃尾、二十七年六月に東京、同年十月に庄内、二十九年六月に三陸、同年八月に陸羽、三十九年三月に台湾の嘉義、四十二年八月江州に大地震があったが、その内で濃尾の地震には七千余人の死人を出し、三陸の海嘯には二万余の死人を出した。大正になって三年三月に秋田の仙北、それから今回の十二年九月一日の関東の大地震で、それには約十万の犠牲者と約五十万の家屋とを失った。允恭天皇以来平均三年半に一回の大地震に逢うことになっている地震国に、七千万の人間がいて年年人口の過剰に苦しんでいるとは嘘のようである。





底本:「貢太郎見聞録」中公文庫、中央公論社
   1982(昭和57)年6月10日発行
底本の親本:「貢太郎見聞録」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社
   1926(大正15年)12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:多羅尾伴内
2003年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

上一页  [1] [2]  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告