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映画芸術(えいがげいじゅつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-2 9:37:25  点击:  切换到繁體中文


     映画と連句

 あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる。
 いわゆる発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているものである。しかしたとえば歌仙式かせんしき連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その「細胞」である。もちろんその一つ一つはそれぞれ一つの絵である。しかし単にそれらの絵が並んでいるというだけでは連句の運動感は生じない。芭蕉ばしょうが「たとえば哥仙かせんは三十六歩なり、一歩もあとに帰る心なく、行くにしたがい、心の改まるはただ先へ行く心なればなり。」と言っている、その力学的な「歩み」は一句から次の句への移動の過程にのみ存する。
 その移動のモンタージュ的手法はすなわち付け句の付け方であっていわゆる、においとか響きとか位とかおもかげとかいう東洋的な暗示的な言葉で現わされているのであるが、これらは畢竟ひっきょういずれも二つの連接句のおのおのに付属した二つの潜在的心像がいかなる形において連鎖を作るかというその様式の分類にほかならないのである。たとえば「くれ縁に銀土器かわらけを打ちくだき」に付けて「身ほそき太刀たちのそるかたを見よ」とする。この付け方を「打てば響くごとし」と評してあるが、試みに映画の一場面にこの二つのショットを継起せしめたと想像すれば、その観客に与える印象はおそらく打てば響くがごとくであるに相違ない。これをたとえば「爆発。ゆらぐ石門」「石のライオンが目をさましえておどり上がる」という連鎖と比べてどこに本質的の差違があるか。「思い切ったる死に狂い見よ」「青天に有明月ありあけづきの朝ぼらけ」と付けたモンタージュと、放免状を突きつけられた囚人の画像の次に「春の雪解け川」を出した付け合わせと、情は別でも、手法においてどれだけの差別があるか。
 映画でしばしば用いられる推移の手段としての接枝的連接法コンチニュイティ・グラフトとも呼ばれる常套的じょうとうてき手法がある。たとえば蓄音機円盤が出勤簿レジスターの円盤にオーバーラップするとか、あるいはしわくちゃのハンケチを持った手を絞り消して絞り明けると白いばらの花束を整える手に変わる。あるいは室内のトランクが汽車の網棚あみだなのトランクに移り変わるような種類である。ところが、連句ではこれに似たことがしばしば行なわれる。たとえば「僧やや寒く寺に帰るか」「猿引さるひきの猿と世をる秋の月」では僧の姿が猿引きの猿にオーバーラップ的に推移するのである。
 映画で、まず群集を現わし、次にカメラを近づけてその中のヒーローを抽出し、クローズアップに映出して「紹介」する。連句でもたとえば、「入りごみに諏訪すわ涌湯わきゆの夕まぐれ」「中にもせいの高い山ぶし」は全くこの手法によったものである。
 映画で同時に別々の場所で起こっている事がらの並行的なモンタージュによって特殊の効果を収める。「もち作るならの広葉を打ち合わせ」という付け句を「親と碁をうつ昼のつれづれ」という前句に付けている。座敷の父とむすこに対して台所の母と嫁を出した並行であり、碁石打つ手とかしわの葉を並べる手がオーバーラップするのである。この二つの場面のモンタージュによってわれわれは一つの全体としての家庭の雰囲気ふんいきを実感させられるのである。
 映画の光学的映像より成る一つ一つのショットに代わるものが、連句では実感的心像で構成された長句あるいは短句である。そうしてこれらの構成要素はそのモンタージュのリズムによってあるいは急にあるいはゆるやかなる波動を描いて行く、すなわち音楽的進行を生ずるのである。
 映画の一つのショットは音楽の一つの楽音に比べるよりもむしろ一つの旋律にたとえらるべきものである。それがモンタージュによって互いに対立させられる関係は一種の対位法的関係である。前のショットの中の各要素と次のショットの各要素との対位的結合によってそこに複雑な合成効果を生ずるのである。連句の場合でもまさにそのとおりで前句と付け句とは心像の連鎖のコントラプンクトとしてのみその存在価値を有するものである。
 このようにして連句の運動が進行するありさまはある度までたとえばソナタのごとき楽曲の構造に類する。この比較についてはかつて雑誌「渋柿しぶがき」誌上で細論したからここには略するが、それと全く同じことが映画の律動的編成についても言われるのである。そうして序破急と言いあるいは起承転結と称する東洋的モンタージュ手法がことごとく映画編集の律動的原理の中にその同型ファクシミレを見いだすのである。
 要するにこれらのモンタージュの要訣ようけつは、二つの心像の識閾しきいきの下に隠れた潜在意識的な領域の触接作用によってそこに二つのものの「化合物」にも比較さるべき新しいものを生ずるということである。
 識閾の上層だけでつながったものは、つまり一つの静的な像である。いわゆる付き過ぎた連句は、結局一句を二つに分けただけで「歩み」はない。同様に映画においても、たとえば単調なる「チャンバラ」の場面はいくら続いても、それは結局ただ一つのショットとしての効果しかない。これに反してたとえ識閾の上では単調な画面を繰り返していても、その底を流れる情緒の加速運動があれば観客は知らず知らずつり込まれ引きずられて行く。たとえば「パリの屋根の下」で町の歌い手が手風琴をひいて歌っている。その歌い手と聴衆が繰り返し繰り返し映写される。しかしその巧妙な律動的なモンタージュによって観衆の心の中の奥底には一つの葛藤かっとうがだんだん発展し高調されて行くのである。また同じ映画でダンス場における踊る主人公とこれをねらう悪漢との交互的律動的モンタージュもこれと全く同様である。これは二つの画面の接触作用によって観客の心に生ずる反応作用をその自然のリズムに従って誘導して行くのである。それでこのモンタージュのリズムが観客の期待のリズムに共鳴するときにはじめて最大の効果を収めうるので、これは音楽の場合と全く同様である。
 このように、映画の画面の連結と連句の句間の連結とは意識の水準面の下で行なわれるときにはじめて力学的な意味をもつのである。たとえば水面に浮かんでいる睡蓮すいれんの花が一見ぱらぱらに散らばっているようでも水の底では一つの根につながっているようなものである。
 一つ一つの意識的な具象からは識閾しきいきの下に無数の根を引いており、その根の一つ一つはまた他のたくさんの具象の根と連結されている。かようにして天地間の万象は複雑きわまる網目によって無限多義的に連関している。甲から乙に移る連絡道路だけでも無限に多数に存する。それらの通路の中には国道もあり間道もあり、また人々によって通い慣れた道と、そうでないのとがある。それで今甲の影像の次に乙の影像を示された観客はその瞬間においてその観客の通い慣れた甲乙間の通路の心像を電光に照らされるごとく認識するのであろう。
 それで映画や連句のモンタージュが普遍的な効果を収めうるためには、作者が示そうとする「通路」が国道であり県道であることが必要である。そうでないときは作者の一人合点ひとりがてんに陥って一般鑑賞者の理解を得ることは困難である。

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