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言葉の不思議(ことばのふしぎ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-2 10:22:09  点击:  切换到繁體中文

  一

「鉄塔」第一号所載木村房吉きむらふさきち氏の「ほとけ」の中に、自分が先年「思想」に書いた言語の統計的研究方法(万華鏡まんげきょう所載)に関する論文のことが引き合いに出ていたので、これを機縁にして思いついた事を少し書いてみる。
「わらふ」と laugh についてもいろいろなおもしろい事実がある。laugh は (AS*.)hlehhan から出たことになっているらしいが、この最初のhがとれて英語やドイツ語になり、そのhが「は」になり、それから「わ」になったと仮定するとどうやら日本語の「笑ふ」になりそうである。ギリシアの gelao もgが gh になり、それからgがとれて、「は」「わ」と変わればやはり日本語になるからおもしろい。(L.)rideo, (Fr.)rire は少しちがうが「ら」行であるだけはたしかである。「げらげら笑ふ」「へらへら笑ふ」というから g+l や h+l のような組み合わせは全く擬音的かもしれない。マレイの glak も同様である。馬の笑うのは ilai でこれは日本に近い。
「あざ笑ふ」の「あさ」は「あさみ笑ふ」の「あさ」かと思うがこれは (Skt.)√has に通じる。一人称単数現在なら hasami だからよく似ている。h※(マクロン付きA小文字)sita は笑うべき事で「はしたない」に通じる。「はしゃぐ」が笑い騒ぐ事で、「あさましい」も場合によると「笑ひ事」であるのもおもしろい。
 セミティックの方面でも (Ar.)basama は「微笑する」で「あさむ」「あさましい」と似ている。しかし「笑ふ」の dahika はむしろ「たはけ」に似ている。(Ar.)fariha は「喜ぶ」で「わらふ」に似ている。
「あさましい」はまた (Skt.)vismayas で「驚く」ほうにも通じるが、それよりも元の smi, smaya で微笑にもなる。
 (Skt.)garh は非難するほうだが軽蔑けいべつして笑うほうにもなりうるのである。これも g+r である。そう言えば「愚弄ぐろう」もやはり g+r だから妙である。
「べらぼう」も引き合いに出たが、これについて手近なものは (Skt.)prabh※(マクロン付きU小文字) また parama でいずれも「べらぼう」の意がなくはない。しかしまた、「強い」ほうの意味の bala から出た balavat だって似ていなくはない。「珍しい」「前例のない」ほうの apr※(マクロン付きA小文字)pya, apurva でも、やはり日本式ローマ字で書くと p+r+b(m) の部類にはいる。これらはサンスクリトとしてはきわめて明白に、それぞれ全く異なる根幹から生じたものであるのに、音のほうではどこか共通なものがあり、同時に意味のほうにも共通なものがあるから全く不思議な事実である。
 英語の brave や bravo も「べらぼう」の従兄弟いとこであるが、これはたぶん (L.)barbarus と関係があるという説がある。そうとすればギリシアの barbaros とも共通に、外国人を軽蔑けいべつしていうときの名であったらしい。しかし「勇敢」では少しぐあいが悪い。また一方で Barbarossa が「赤ひげ」であるのも不思議である。
(Ar.)gharib, ghurab※(マクロン付きA小文字)「異常」は喉音こうおんのgをとると「わらふ」にも似てるし、hをbに変えると「べらぼう」のほうに近づく。すると結局「わらふ」と「べらぼう」も従兄弟だか再従兄弟またいとこだかわからなくなるところに興味がある。ついでに (Skt.)ullasit※(マクロン付きA小文字) が「うれしい」で (L.)jocus が「茶化す」に通じるのもおもしろい。

 barbarus で思いだすのは「野蛮」と (Skt.)yavana である。後者は、ギリシア人(Ionian)であったのが後には一般外国人、あるいは回教徒の意に用いられ、ちょうどギリシア人の barbaros に相当するものになっているからおもしろい。東夷とうい南蛮の類であり、毛唐人けとうじんの仲間である。この「ヤ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナ」が「野蛮」に通じまた「野暮やぼな」に通ずるところに妙味がないとは言われない。
 またこの「毛唐」がギリシアの「海の化けもの」k※(グレーブアクセント付きE小文字)tos に通じ、「けだもの」、「気疎けうとい」にも縁がなくはない。

 話は変わるが二三日前若い人たちと夕食をくったとき「スキ焼き」の語原だと言って某新聞に載っていた記事が話題にのぼった。維新前牛肉など食うのは禁物であるからこっそり畑へ出てたき火をする。そうして肉片をすきの鉄板上に載せたのを火上にかざし、じわじわ焼いて食ったというのである。こういうあんまりうま過ぎるのはたいていうそに決まっていると言って皆で笑った。そのときの一説に「すき」は steak だろうというのがあった。日本人は子音の重なるのは不得意だから st がsになることは可能である。漆喰しっくいが stucco と兄弟だとすると、この説にも一顧の価値があるかもしれない。ついでに (Skt.)jval は「燃える」である。「じわりじわり」に通じる。
 なすの「しぎ焼き」の「しぎ」にもいろいろこじつけがあるが、「しき」と変えてみると、結局「すき」と同じでないかという疑いが起こる。
 steak はアイスランディックの steik と親類らしいが「ひたきのおきな」の「ひたき」を「したき」となまると似て来るからおもしろい。「」くは (Skt.)dah に通ずるがこのほうはよほどもっともらしい。(Ice.)steik は steka と親類で英語の stick すなわちステッキと関係があり、くしに刺して火にあぶる「串焼き」であったらしい。このステッキがドイツの stechen につながるとすると今度は「突く」「つつく」が steik に近づいて来るし、また後者と「く」ともおのずからいくぶんの縁故を生じて来るのである。

 こんな物ずきな比較は現在の言語学の領域とは没交渉な仕事である。しかし上述のいろいろな不思議な事実はやはり不思議な事実であってその事実は科学的説明を要求する。どれもこれもことごとく偶然の現象だとして片付ける前にともかくも何かしら合理的な方法のふるいにかけて吟味しなければならない。しかし従来のように言語の進化をただ一次元的、線的のもののように考えるあまりに単純な基礎仮定から出発した言語学ではこの問題は説明される見込みはない。たとえば自分がかつて提議したような統計的方法でも、少なくも一つの試みとして試みなければならないと思う。上記の諸例はそういう方法を試みるであろう場合に必要な非常に多量な材料の中の二三の例として数えられるべきものであろうと思う。
 もし許さるるならば、時々こういう材料の断片を当誌の余白を借りて後日のために記録しておきたいと思う。

(昭和七年十二月、鉄塔)

   二

 いかりいかり、いずれも「イカリ」である。ところが英語の anchor と anger が、日本人から見ればやはり互いに似ている。「アンカー」と「アンガー」である。
 anchor はラチンの anchara でまたギリシアのアンキユラで「曲がったかぎ」であり、従ってまた英の angle とも関係しているらしい。ペルシアでは l※(マクロン付きA小文字)ngar である。サンスクリトの l※(マクロン付きA小文字)ngala はすきであるがしかし錨のような意味もあるらしい。同時に membrum virile の意味もある。ロシアの錨はヤーコリである。こうなるとよほど日本語に接近する。「イカリ」はまた「いくり」にも似ている。
 anger はアイスランドの ※(上リング付きA小文字)ngr やLの angor などのような「憂苦」を意味する言葉と関係があるそうで、一方ではまたスウェーデンの「悔恨」を意味する ※(上リング付きA小文字)nger に通ずる。このオンゲルは「オコル」に似ている。
 怒りを意味する choler はギリシアの胆汁たんじゅうのコレーから来ているそうで、コレラや gall や yellow なども縁があるそうである。イカリのイが単に発語だと仮定するとこれがやはり似通にかよって来るからおもしろい。ギリシアのカレポス、オルギロス、アグリオスいずれにしてもkまたはgの次にlまたはrの音がつづいて来るのがおもしろい。
 ロシアではgがhに通ずる。日本ではhがfに通ずる。それでgrの代わりにfrを取ってみると英国の激怒 fury, Lの furia, furere に対する。
 九州へんではdがrに通ずる。そこで、grの代わりにgdを取ってみると、アラビアの動詞 ghadiba(怒り)の中に見いだされる。この最後の ba は時によりただのbによって響きを失うことはあるのである。
 名古屋なごやへんの言葉で怒ることをグザルというそうであるが、マレイでは gusari となっている。土佐とさの一部では子供がふきげんで guzu-guzu いうのをグジレルと言い、またグジクルという。アラビアでは「ひどく怒らせる」が gh※(マクロン付きA小文字)za である。
 ロシアの「怒り」gniev はギリシアの動詞 aganaktein の頭部に似ている。古事記の「いごのふ」にも似ている。gn をロシア流に hn にする一方で、「忿怒ふんぬ」から「心」を取り去って、呉音で読めば hnn である。
 英語の gnarl は「うなる」に通じる。「がなる」にも通じる。英語の vex はLの uehere に関係し「運搬」の意がありサンスクリトの vah から来たとある。日本でもオコルとオクルが似ているのと相対しておもしろい。hは往々khまたkに通じるから uehere と uokoru とはそれほど遠く離れていないのである。weigh もやはり縁があるとの事である。vah は「負う」に通じる。
 腹を立てる、腹立つというのはあて字であろうと思われる。サンスクリトの krudhyati のkをhで置き換えるとともかくも hrdt という音列を得られる。これを haradati の子音と比べると同一である。偶然とするとかなり公算の少ない場合の一致である。ロシアの serditi もやはりいくらか似ているのである。苛立いらだつが irritate(L.irritare) に似ていることは明白である。
「あらぶる神」の「アラブル」がLに rabere = to rage に似ていることも事実である。

「床屋」が何ゆえに理髪師であるか不思議である。「髪結床かみゆいどこ」から来たかと思われる。その「床」がわからない。
 マレイ語で頭髪をるのは chukor であり女の髪を剃るのが tokong である。また蘭領らんりょうインドでは「店」が toko である。
 マレイの理髪師は tukang chukor また tukang gunting である。
 アラビアでは「店」が dukkan, ペルシアでも dukan である。ペルシアの床屋さんは dallak である。
 ギリシアで剃るのは xurein でわが suri に通じる。髪を切る意味の cheirein は「切る」「刈る」に通じる。
 Skt. kshura は剃刀かみそり。krit は切るであるとすると不思議はない。
 おもしろいことは、土佐で自分の子供の時代に、紙鳶たこの競揚をやる際に、敵の紙鳶糸を切る目的で、自分の糸の途中に木の枝へ剃刀の刃をつけたものを取り付ける。この刃物を「シューライ」と名づける。これは前記のサンスクリトの「クシューラ」とよく似ている。これはたしかに不思議である。
 床屋も不思議だがハタゴヤもなぜ旅館だかわからない。
 ギリシアの宿屋が pandocheion でいくらか似ているのはおもしろい。パドケヤとハタゴヤである。pan と dechomai, すなわちだれでも接待する意だそうである。衆生を済度する仏がホトケであるのは偶然の洒落しゃれである。

 ラテンで「あるいはAあるいはB」という場合に alius A, alius B とか、alias A, alias B とか、また vel A, vel B という。alius と vel とは別物であるのに、どちらも日本の「アル」に似ているからおもしろい。英語の or でも少しは似ている。Skt. の「または」「あるいは」は athawa である。

 ロシアで「すなわち」というような意味で、znatchiti を使う。日本の snaati と似ている。
 また tak kak というのがいろいろの意味に使われるが whereas の意味では、「それはそうととにかく」の「兎角とかく」に通じなくない。うさぎつのではどうにも手に合わない。

 ドイツの noch(=nun auch) が日本語の naho に似ている。イタリアの eppure は日本の「ヤッパリ」と同意義である。

 因果関係はわからなくても似ているという事実はやはり事実である。
 ことばの事実を拾い集めるのが言葉の科学への第一歩である。玉と石とを区別する前には、石も一応採集して吟味しなければならない。石を恐れて手を出さなければ玉は永久に手に入らない。
(昭和八年四月、鉄塔)

 

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