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自然現象の予報(しぜんげんしょうのよほう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 8:44:52  点击:  切换到繁體中文

自然現象の科学的予報については、学者と世俗との間に意志の疎通を欠くため、往々に種々の物議をかもす事あり。また個々の場合における予報の可能の程度等に関しては、学者自身の間にも意見は必ずしも一定せざる事多し。左の一篇は、一般に予報の可能なるための条件や、その可能の範囲程度並びにその実用的価値の標準等につきて卑見を述べ、先覚者の示教を仰ぐと同時に、また一面には学者と世俗との間に存する誤解の溝渠みぞを埋むる端緒ともなさんとするものなり。元来この種の問題の論議は勢い抽象的に傾くが故に、外観上往々形而上的の空論と混同さるるおそれあり。科学者にしてかくのごとき問題に容喙ようかいする者は、その本分を忘れて邪路に陥る者として非難さるる事あり。しかれども実際は科学者が科学の領域を踏み外す危険を防止するためには、時にこれらの反省的考察がかえって必要なるべし。特に予報の問題のごとき場合においてはしかりと信ず。余が不敏を顧みずここに二、三の問題を提起して批判を仰ぐ所因ゆえんもまたこれに外ならず。ただいたずらに冗漫の辞を羅列して問題の要旨に触るるを得ざるは深く自らずる所なり。これに依って先覚諸氏の示教に接する機を得ば実に望外の幸いなり。

         一

 ある自然現象の科学的予報と云えば、その現象を限定すべき原因条件を知りて、該現象の起ると否とを定め、またその起り方を推測する事なり。これは如何なる場合に如何なる程度まで可能なりや。この問題が直ちにまた一般科学の成立に関する基礎問題に聯関する事は明らかなり。しかし因果律の解釈や、認識論学者の取扱うごとき問題は、余のここに云為うんいすべき所にあらず。ただ物理学上の立場より卑近なる考察を試むべし。
 厳密なる意味において「物理的孤立系」なるものが存せず、すなわち「万物相関」という見方よりすれば、一つの現象を限定すべき原因条件の数はほとんど無限なるべし。それにかかわらず現に物理学のごときものの成立し、且つ実際に応用され得るは如何いかん。これは要するに適当に選ばれたる有限の独立変数にてある程度までいわゆる原因を代表し、いわゆる方則によりて結果の一部を予報し得るに依る。これにはいわゆる原因と称するものの概念の抽象選択の仕方が問題となる。これは結局経験によって定まるものにして、原因の分析という事自身が既に経験的方則の存在を予想する事は明らかなり。物理的科学発展の歴史にさかのぼれば、到る処かくのごとき方則の予想によって原因の分析、すなわち最も便宜なる独立変数の析出につとめたる痕跡を見出し得べし。しかしこの試みが成効して今日の物理的自然科学となれり。力学における力、質量等のごとき、熱力学における温度エントロピーのごときこれなり。これらの概念と定義とが方則の云い表わしと切り離し難きはこのためなり。物理的自然現象を限定すべき条件等がすべてこれらの有限なる独立変数にて代表され得るや否やは別問題として、現在の物理学的科学の程度において、従来の方法によりて予報をなし得る範囲は如何なるべきかが当面の問題なり。
 先ず従来の既知方則の普遍なる事を仮定せば、すべての主要条件が与えらるれば結果は定まると考えらる。しかしながら実際の自然現象を予報せんとする場合に、この現象を定むべき主要条件を遺漏なく分析する事は必ずしも容易ならず。故に各種原因の重要の度を比較して、影響の些少なるものを度外視し、いわゆる「近似」を求むるを常とす。しかしてこれら原因の取捨の程度に応じて種々の程度の近似を得るものと考う。この方法は物理的科学者が日常使用する所にして、学者にとりてはおそらく自明的の方法なるも、世人一般に対しては必ずしもしからず。学者と素人しろうととの意思の疎通せざる第一の素因は既にここに胚胎はいたいす。学者は科学を成立さする必要上、自然界に或る秩序方則の存在を予想す。従ってある現象を定むる因子中より第一にいわゆる偶発的突発的なるものを分離して考うれども、世人はこの区別に慣れず。一例を挙ぐれば、学者は掌中の球を机上に落す時これが垂直に落下すべしと予言す。しかるに偶然窓より強き風が吹き込みて球が横に外れたりとせよ。俗人の眼より見ればこの予言は外れたりと云う外なかるべし。しかし学者は初め不言裡ふげんりに「かくのごとき風なき時は」という前提をなしいたるなり。この前提が実用上無謀ならざる事は数回同じ実験を繰返す時はおのずから明らかなるべきも、とにかくここに予言者と被予言者との期待に一種の齟齬そごあるを認め得べし。
 次には近似の意義に関する意見の齟齬が問題となる。学者が第一次近似をもって甘んずる時、世人は却って第二次近似あるいは数学的の精確を期待する場合もあり。これは後に詳説する天気予報の場合において特に著し。かくのごとき見解と期待との相違より生ずる物議は世人一般の科学的知識の向上とともに減ずるは勿論なれども、一方学者の側においても、科学者の自然に対する見方が必ずしも自明的、先験的ならざる事を十分に自覚して、しかる後世人に対する必要もあるべし。(この点は、単に予報のみの問題に限らず一般科学教育を施す人の注意すべき点なるべしと信ず。中学校にて始めて物理学を学ぶ際に「何故なにゆえにかくのごとく考えざるべからざるか」との疑問が暗々裡に学生の脳裡に起りて何人なんびともこれが解決を与えざるが故に、力と云い、質量と云い、仕事と云うがごとき言葉は、あたかも別世界の言葉のごとく聞え、しかもこれらの考えが先験的必然のものなるにかかわらず自分はこれを理解し得ずとの悲観をいだかしむる傾向あり。世人一般の科学に対する理解と興味とを増進するには、少なくも中等教育において科学的認識論方法論の初歩を授くるも無用にはあらざるべし。)

         二

 さて従来の科学の立場より考えて、すべての主要原因が与えられたりと仮定すれば結果は常に単義的ユニークに確定すべきか。これはやや注意深き考慮を要する問題なり。
 いわゆる精密科学においても吾人は偶然と名づくるものを許容す。これ一般に部分的の無知を意味す。すなわち条件をことごとく知らざる事を意味す。いかなる測定をなす際にも直接間接に定め得る数量の最後の桁には偶然が随伴す。多くの世人は精密科学の語に誤られてこの点を忘却するを常とす。
 一層偶然の著しき場合は、例えば鉛筆を尖端にて直立せしめ、これがいずれの方向に倒るるかという場合、あるいはさいを投げて何点が現わるるかというごとき場合なり。これらの場合においても、もしすべての条件がどこまでもくわしく与えられおれば結果は必ず単義的に定まるべしというがいわゆる科学的定数論者の立場なり。これはおそらく大多数の科学者の首肯する所なるべし。しかし実際にはこれらのすべての条件が知り難き故に結果の単義性は問題となる。
 抽象的、数学的に考うれば複義性なる函数は無数に存在す。例えばファン・デル・ワール等の理論に従えば、ガス体の圧を与うればその体積には三種の可能価ある事となる。この理論の当否は問わざるも、抽象的にこの事は可能なるべし。今かくのごとき場合にも天然現象は必ず単義的に起るとすれば、それは如何なる理由によるべきか。ここに「安定度」とか「公算」とかいう言葉が科学者の脳裡に浮ぶべし。ここに吾人は科学と形而上学との間のきわどき境界線に逢着すべし。熱力学にエントロピーの観念の導入され、またエントロピーと公算との結合を見るに至りし消息もまたここに至って自ずから首肯さるべし。
 安定や公算の意味に関する議論はしばらくき、種々の可能法ある場合におのおのの公算を比較する時、吾人の経験はその中の一つが特に大なるべしと期待せしむる傾向を有す。実際多くの場合にこの期待は吾人を欺かず。しかれども予報という事に聯関して重大なる問題はそれが「常にしかるか」という事なり。
 単義性という言葉にも種々の意味あり。数学的絶対的の単義性といえば、一はどこまでも一にて二は必ず二なるべし。しかし自然現象に偶然を許容すれば吾人の当面の問題は公算的単義性なり。すなわち公算曲線の山が唯一なりやという事が刻下の問題なり。さてすべての場合にこれは唯一なりや。然らざる場合は一般には多数あるべし。例えば馬のくらの形をなせる曲面の背筋の中点より球を転下すれば、球の経路には二条の最大公算を有するものあるべし。またある時間内に降れる雨滴の大きさを験する時は、その大きさの公算曲線には数箇の山を見出すべし。これらの場合を総括するに、いずれもかつてポアンカレーの述べしごとく「原因の微分的変化が結果の有限変化を生ずる場合」に当るを見る。自然現象予報の可能程度を論ずる際に忘るべからざる標準の一つはここに係る。後に更に実地問題につきて述ぶる事とせん。
 次に原因を定むる独立変数と称するものの性質が問題となる。変数が長さ、時間、あるいはこれらの合成によりて得らるるものならば比較的簡単なれでも、例えば物体の温度、荷電等のごとき性質のものが与えられたりとせよ。もし物体の内部構造等に立ち入らざるマクロスコピックの見方よりすれば、これらの量は直ちに物体の状態を単義的に指定すれども、これに反し分子説、電子説の立場よりミクロスコピックの眼にて見れば、これらの量にては物体の内部状況は単義的には指定されずほとんど無限に複義的にして、吾人の知り得るは実にただその統計的単義性に外ならず。この場合に単に温度を与えても各分子箇々の運動を予報すべくもあらず。
 例えばまた過飽和の状態にある溶液より結晶が析出する場合のごとき、これがいつ結晶を始め、また結晶の心核が如何に分布さるべきかを精密に予報せんとする時、単に温度従って過飽和度を知るのみにては的中の見込は極めて小なるべし。ただ吾人は過飽和度の増加に伴うて結晶析出を期待する公算を増す事を知り、また結晶中心の数につきても公算的にある期待をなす事を得るに過ぎず。しかるにもし人間以上の官能を有するいわゆるマクスウェルの魔のごときものありて、分子一つ一つの排置運動を認めその運動や結合の方則を知りて計算するを得ば、少なくも吾人が日蝕を予報するくらいの確かさをもってこれらの現象を予報するを得べし。

         三

 今天然の起る現象を予報せんとする際に感ずる第一の困難は、その現象を限定すべき条件の複雑多様なる事なり。
 実験室において行う簡単なる実験においてはこれら条件を人為的に支配し制限し得る便あり。しかも最も簡単なるデモンストレーション的実験においてすら、用意の周到ならざるため、条件のただ一つを看過すれば実験の結果は全く予期に反する事あるは吾人の往々経験する所なり。これらの失敗に際して実験者当人は、必要条件を具備すれば、結果は予期に合すべきを信ずるが故にあえて惑う事なしとするも、いまだ科学的の思弁に慣れず原因条件の分析を知らざる一般観者は不満を禁ずるあたわざるべし。また場合により実験の結果が半ばあるいは部分的に予期に合すれば、実験者たる学者はその適合せる部分だけを抽出して自己の所説を確かむれども、かくのごとき抽象的分析に慣らされざる世俗は了解に苦しむ事もあるべし。
 かくのごとき困難は天然現象の場合に最も著しかるべし。試みに先ず天気予報の場合を考えん。
 太古の時代より天気予報の試みは行われたれども、分析的科学の発達せざりし時代には、天気を限定すと考えられし条件、あるいは独立変数が極めて乱雑なる非科学的のものなりしなり。もっとも雲の形状運動や、風向、気温のごとき今日のいわゆる気象要素と名づくるものの表示に拠りたる事もあれど、同時にまた動物の挙動や人間の生理状態のごとき綜合的の表現をも材料としたり。かくのごとき材料も場合によりてはあえて非科学的とは称し難きも、とにかく物理学的方法を応用する場合の独立変数としては不適当なるものなりしなり。今日の気象学においていわゆる気象要素と称するものはこれに反して物理学の基礎の上に設定されたるものにして、これらを材料とせる予報は純然たる物理学的の予報に外ならず。従って物理学上の予報につきて感ぜらるる困難もまた同時に随伴し、ことに条件の多数なるためにその困難は一層増加すべし。かくのごとき場合にはいわゆる主要条件の選択が重要なるは既に述べたるがごとし。現今の物理学的気象学の立場より考えて、今日のいわゆる要素の数は大体において理論上主要の項をしっしたりと考えらる。しかるに実用上の問題は如何なる程度までこれらの要素を実測し得るかという事なり。測候所の数には限りあり、観測の範囲、回数にも限定あり。特に高層観測のごとき一層この限定を受くる事甚だし。それにもかかわらず現に天気予報がその科学的価値を認められ、実際上ある程度まで成効しおるは如何なる理由によるべきか。
 数十里、数百里をへだてたる測候所の観測を材料として吾人はいわゆる等温線、等圧線を描き、あるいは風の流線の大勢を認定す。この際吾人の行為に裏書きする根拠はいずこにありやというに、第一にこれら要素の空間的時間的分布が規則正しきという事なり。換言すれば、これら要素の時間的空間的微分係数が小なりという事なり。これが小なる時に等温線や等圧線は有意義となり、これに物理学上の方則が応用さるるなり。

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