您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 寺田 寅彦 >> 正文

自然現象の予報(しぜんげんしょうのよほう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-3 8:44:52  点击:  切换到繁體中文


 今鋭敏なる熱電堆をもって気温を測定する時は、如何なる場合にも一尺を距てたる二点の温度は一般に同じからず。この差は数秒あるいは数分の不定なる週期をもって急激に変化するを見出すべし。すなわち小規模、短週期の変化を特に注意すれば上の微分係数は決して小ならず。かくのごとき眼より見れば、実際の等温線は大小無数の波状凹凸を有しこれが寸時も止まらず蠢動しゅんどうせるものと考えざるべからず。かくのごとき状態を精密に予報する事はいかなる気むずかしき世人もあえて望まざるべし。しかし今少しく規模を大きくして一村、一市街の幅員と同程度なる等温線の凹凸やその時間的変化となれば、既に世人の利害に直接間接の交渉を生ずるに至る事あり。積雲の集団がある時間内にある村の上を多く過ぐるか少なく過ぐるかは、時にはその村民にとりてはかなり重大なる場合もあるべし。小区域の驟雨しゅううが某市街を通過するか、その近郊のみを過ぐるかはその市民にとりては無差別にはあらず。しかれどもかくのごとき小規模の現象の予報をなし得るためには、(この予報が可能としても)少なくも測候所の数を現在の数百倍数千倍に増加せざるべからず。
 現在の天気予報はかくのごとき要求を充たすためのものにあらず。各測候所の平均領域の幅員に比して微細なる変化は度外視し、定時観測期間の長さに比して急激なる変化をも省略して近似的等温線あるいは等圧線を引くに過ぎず。例えば土地山川の高低図を作る際に、道路の小凹凸、山腹の小さき崖崩れを省略するに同じ。これをはぶくとも鉄道運河の大体の設計にはなんらの支障を生ずる事なかるべし。これに反して荷車をく労働者には道路の小凹凸は無意味にあらず。墓地の選定をなさんとする人には山腹の崖崩れは問題となるべし。
 世人の天気予報に対する誤解と不平は畢竟ひっきょうこの点に係る。二十万分の一の地図を手にして道路の小凹凸をもとめ、物体の温度を知りてその分子各箇の運動を知らんとすると同様なる誤解に起因す。

         四

 次に地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報は果して可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
 地震が如何にして起るやは今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時に起る現象なるがごとし。これが起ると否とを定むべき条件につきては吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気の場合における気象要素のごときものがいまだ明らかに分析されず。この点においても既に天気の場合と趣を異にするを見る。
 地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せる時、適当なる第二次原因例えば気圧の変化のごときものが働けば地震を誘発する事は疑いなきもののごとし。故に一方において地殻の歪みを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉ちしつするを得れば地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は如何なる程度まで実現され得べきか。
 地下の歪みの程度を測知する事はある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知る事も可能なるべし。今仮りにこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
 更に事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一箇所に止まり、地震が起るとせば必ずその点に起るものと仮定せん。且つまた第二次原因の作用はごうも履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的の場合においても地震の突発する「時刻」を予報する事はかなり困難なるべし。何となれば、この場合は前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は吾人の測知し得るマクロスコピックの状態よりは、むしろ吾人にとりては偶然なるミクロスコピックの状態に依りて定まると考えらるるが故なり。換言すればマクロスコピックなる原因の微分的変化は結果の有限なる変化を生ずるが故なり。この場合は重量を加えて糸を引き切る場合に類す。しかしともかくも歪みが増すに従って現象の発生を期待する公算の増加するは勿論にて、従って歪みがある程度に達するまでは現象は起らずと安心すべき根拠を与うべし。この場合に当り、時とともに現象の発生に対する期待の増加する状況を示す線が与えられたりとせよ。しかしてこの曲線の傾斜が甚だ緩やかにして十年二十年あるいは人間一代の間に著しき変化を示さぬごときものならば如何なるべきか。この場合には箇々の人間にとりての予報の実用的価値は極めて少なかるべし。
 次に上の仮想的の場合において現象の発生する時期がある程度まで知られたりと仮定せよ。この場合に起る地震の強弱の度を如何ほどまで予知し得べきか。単に糸を引き切る場合ならば簡単なれども、地殻のごとき場合には破壊の起り方には種々の等級あるべし。破壊がただ一回に終らず、数回の段階的変化によるとすれば、これらの推移中に歪みの変化は複雑に起り、場合によりては毎回地震の強度は微弱なる事もあるべく、また時にはその中に強震を生ずる事もあるべし。かくのごとき差別が偶然的局部的の異同に支配さるるとせば、広区域にわたるマクロスコピックの平均状態を知るのみにては信憑しんぴょうすべき実用的の予報は不可能に近し。
 上記のごとき地殻の弱点が一箇所に止まらず、多数に分布されいる場合には更に困難なり。この場合には第一にこれらの分布を知り、またすべての弱点に対する歪みの限界値を知り、同時にすべての弱点における歪みの刻々の現状を知るを要す。仮りにこれらが知られたりとするも、多数の弱点が同時に不安定に近づく時、そのいずれが先ず変化を始むべきかはいわゆる偶然の決する所なるべし。この場合においても予報の意味は世人の期待と甚だしく離反すべし。
 実際の地殻においてはその弱点の分布は必ずしも簡単ならず、しかもおのおのの弱点は相互に独立ならず、なんらかの関係を有すべく、特に一層事柄を複雑にするは、地殻岩石の弾性履歴効果の著しき事なり。これらがことごとく知られたりとするも、現象の性質上、原因の微分的変化に対して、結果の変化は有限にして且つその単義性も明らかならず。具体的に云えば地辷じすべり等がある限界内に止まれば、それだけにて止むも、少しにてもこれを超ゆれば他の弱点の破壊を誘起して更に大なる変動を起す事もあるべく、その際如何なる弱点が誘発さるるやはまた偶然的なる地下の局部的構造によると考えらる。
 かくのごとき場合に普通の簡単なる公算論の結果を応用せんとするには至大の注意を要する事は明らかなるべし。

         五

 予報の可能不可能という事は、考え方によればあまりに無意味なる言葉なり。例えば今月中少なくも各一回の雨天と微震あるべしというごとき予報は何人も百発百中の成効を期して宣言するを得べし。ここに問題となるは予報の実用的価値を定むべき標準なり。
 予報によりて直接間接に利便を感ずべき人間の精神的物質的状態は時並びに空間とともに変化しつつあり。従って天然界のある状態がその人間に有利なるか不利なるかは時と場所とによりて変化す。例えば水草を追って移牧する未開人にとりては時とともに利害の係る土地の範囲を移動す。また一つの都府の市民というごとき抽象的の団体を考うる時はその要素たる各個人とは独立に時とともに不変なる標準も考えらるれども、一般には必ずしも然らず。例えば一般の東京市民にとりては、夜半の小雨はあえて利害を感ぜざるべきも昼間の雨には無頓着ならず。また平日一般の日本国民は京都市の晴雨に対しては冷淡なるも、御大典ごたいてん当時は必ずしも然らざるべし。
 数学的の言葉を借りて云えば、各個人、市民、あるいは国民がある現象に対して利害を感ずる範囲は時間と空間とより組成されたる四元空間中において、ある面にて囲まれたる部分にて示す事を得べし。この部分は単独なる場合も、数箇なる場合もあるべし。
 自然現象の予報もまた同様に、時と空間のある範囲内に指定する時に始めて意義あるものとなる。例えば明日中某々地方に降雨あるべしというがごとし。これらの予報が普通世人にとりて実用的価値を有するための条件は、思うに「その現象のために利害を感ずべき個人あるいは団体の利害を感ずる範囲領域の大きさに対して、予報の指定する範囲の大きさが比較的大ならず、且つ前者に対する後者の位置の公算的変化の範囲の小なる事」なり。
 具体的の例を挙ぐれば、東京市民にとりては「明日正午まで京浜地方西北の風晴」と云い、あるいは「本日午後驟雨模様あり」というがごときは多数の世人に有用有意義なり。またもし「一週間内に東海道の大部分に降雨あるべし」との予報をなし得たりとせば、東京市民にとりては極めて漠然たる印象を与うべし。これ予報の範囲が東京市民の日常生活上雨に関して利害を感ずる範囲に比してあまりに大なるが故なり。しかれども連日雨に渇する東海道の農民にとりては、この予報は非常の福音たるに相違なかるべし。
 次に地震の場合は如何。もし仮りに「来る六、七月の頃、東京地方に破壊的地震あるべし」との予報が科学的になし得られたりと仮定せよ。これが十分の公算を有する事が明らかなれば、市民は十分の覚悟をもって変に備うべし。次に「今後五十年内に日本南海岸のうち一部分に強震あるべし」という事がよほど確実なりと仮定せよ。この予報は各箇の市民にとりては幾分漠然たる予言者の声を聞くがごとき思いあるべし。五十年は個人の生命に対してあまりに短からず。その間に個人の生命も住所も如何になるべきか明らかならざるなり。しかれども日本政府の眼より見れば五十年は決して長からず、南海岸は邦土の一部分なり。この予報がなし得らるれば、これによりて国家がくべき直接間接の利益は少なからざるべし。
 噴火の場合もこれに同じ。仮りに科学的に信憑しんぴょうすべき根拠よりして、来る六十年ないし七十年間に某火山系に活動を予期し得るとせば、個人に対してはともかく、一県一道の為政者にとりては多大の参考となるべし。
 予報者と被予報者との意志の疎通せざる手近き原因は、予報の指定する範囲と被予報者の利害範囲の大きさの相違と、その公算的不整合を許容する程度の差異に帰すべしと思わる。
 最後に卑近なる例を挙げて所説を補わん。木の葉をつたい歩く蟻にとりては一粒一粒の雨滴の落つる範囲を方数ミリメートルの内に指定する事が必要なれども、吾人人間には多くの場合にただ雨量と称する統計的の数量が知らるれば十分なり。

         六

 以上述べたる所に基づき、また現在科学の進歩程度にかんがみて天気予報と地震予報とを対照すれば、その間の多大の差異あるを認めざるを得ず。
 現在の気象観測制度をもってすれば各気象区域における大体の天気の推移を予知する事は十分可能にして、観測の範囲の拡張につれて的中の公算を増すべしと考えらる。しかれども毎平方里における雨量の異同を予言するがごときは望み難かるべし。
 地震の場合においては、いまだ気象要素に相当すべき条件さえ明白ならず。従って解析的の方法を取るべき材料いまだ具備せず。これらが一通り具備したる暁においても、現象の偶然性を除く程度まで精しくこれを知悉する困難は現象の性質上甚だ大なるべし。かくのごとき場合には公算論の指示する統計的方法を取る外なかるべきも、公算が変数の連続函数なりと断定し難く、また最大公算を有する場合が唯一ならざる場合には特別に慎重なる考慮を要すべし。
 地震予報をして天気予報のごとき程度まで有効ならしむるには如何なる方向に研究を進むべきかは重要なる問題なり。物理学上の問題としては、地殻岩石の弾性に関する各種の実験のごときは極めて肝要なるべし。一方においては統計的にいわゆる第二次原因の分析を試むるも有益なり。しかれども統計に信頼するためには統計の基礎を固むる必要あるべし。普通公算論の適用さるる簡単なる場合においても、場合の数が小なる時は自然の表現は理論の指示する所と大なる懸隔を示す事あり。これも忘るべからざる事なり。なお一般弾性体の破壊に関してその弱点の分布や相互の影響あるいは破壊の段階的進歩に関する実験的研究を行い、破壊という現象に関するなんらかの新しき方則を発見する事も必ずしも不可能ならざるべし。すなわち従来普通に考うるごとく、弾性体を等質なるものと考えず複雑なる組織体と考えて、その内部における弱点の分布の状況等に関し全く新しき考えよりして実験的研究を積むも無用にあらざるべきか。

(大正五年三月『現代之科学』)





底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1997(平成9)年4月4日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年8月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

上一页  [1] [2]  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告