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或る男の手記(あるおとこのしゅき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 6:24:40  点击:  切换到繁體中文


「そんなことをしてどうするんです。」と私は云ったが、彼女のぼーっと上気してるらしい顔と、眸の据った輝いてる眼とを見ると、すぐそれにつり込まれてしまった。
「私もう何にも考えないわ、馬鹿馬鹿しい!」と彼女は投げやりの調子で云った。「この池のまわりを七度廻って、それでおしまい。」そして彼女はとってつけたように笑った。
 西に傾いた日脚が赤々と杉の梢に流れていて、池の水は冴々と澄みきっていた。藻の影にじっと浮んで動かない鮒の群がいたり、水の面に黄色い花が一つぽつりと咲き残っていたりした。そして杉の林と古い池とから醸される幽寥な気が、それらのものに塵外の静けさを与えていた。でも私は淋しくなかった。あたりの景色が静かであればあるほど、遠い旅にでも出た気になって、解き放された自由な喜びを感ずるのだった。殊に光子は溌刺としていて、明るい日向に出ても薄暗い森影にはいっても、同じような眼の輝きを失わなかった。
「私何だかさっぱりして、気が清々せいせいして、もうどうなったって……この池にはまって死んじゃったって、構いませんわ。」
 そんなことを云いながらぐんぐん歩いて行った。先刻の訳の分らない腹立ちがけし飛んで、その昂奮だけが残ってるような調子だった。小鳥が鳴いてる、花が咲いている、鮒が浮いてる、杉の芽が綺麗だ、ほんとにいい天気だ、などとそんなことを短い言葉で独語のように云いながら、それでも心の底には、何かしらじっとしていられないものが渦巻いてるといった風に、出来るならば宙を飛んだり地面に転がったりしたいような素振だった。で私は彼女を見てるうちに、勝手気儘に飛び廻り囀り散らす小鳥を連想した。実際立木の中にはいろんな小鳥の声が響いていた。それからまた私の頭には、北海道の広漠たる平野やアカシアの都会や山の湯のことなどが浮んできた。そして平素の陰鬱な窮屈な生活を遁れて自由なのびのびとした世界に出たような気がして、性質から境遇から凡ての点でその世界のものであり、その世界に我を忘れてる光子に対して、羨しいような小憎らしいような感情が起ってきた。
 そして更に、その感情をなお刺激することが起った。私達は池を何周したか覚えていないが、日脚が益々傾いて、杉林の中や池の面に、ほろろ寒い靄影がこめかけてきた時、次第に私は空腹を覚えてきて、光子にそう云うと、彼女もやはり腹が空ききってると答えた。それでは栗飯でも食べて行こうかということになったが、私はふと気がついて、帰りが遅くなってはいけないだろうと注意してみた。
「構いませんわ。」と彼女は答えた。「私今晩は新宿の叔母の家に泊っていきます。」
 私は喫驚して足を止めた。八月に彼女が私の家へやって来た時には、いきなり東京へ飛び出して来たものの、身寄りの者も知人もないし、上野駅前の宿屋に一晩泊ったが、何だか恐ろしくて仕方がないから……というような話だった。それから詳しい事情を――農科大学生との失恋や嫂との喧嘩などが重って、札幌の家に居られなくなった訳だの、何処かの家で働きながら昼間は絵を習いたいという志望など――いろいろ聞かされてるうちに、つい私も妻も同情をそそられて、暫く家に留めておくことにしたのだった。実際彼女はその翌日になって、駅に預けっ放しにしてるという柳行李を一つ取って来たりした。それから私の家に半月ばかりいて、妻から河野さんに願って、子供の家庭教師みたいな風で置いて貰い、昼間は画塾に通っているのである。新宿に叔母がいるなどということを、彼女は今迄匂わせもしなかった。で私は何気なく、その点を軽くつっ込んでいった。すると彼女は平気で答えた。
「だってあの時はああ申さなければ、先生が置いて下さらないような気がしたんですもの。本当は少し前から新宿の叔母の家に来ていたんですの。所がその叔母が大変なやかましやで、私喧嘩をして飛び出して、それから先生の所へ伺いましたの。でも札幌の話はみんな本当ですわ。私よく喧嘩をする女だと、自分でも厭になっちまう時がありますの。」
 そして彼女は駄々っ児のように私の顔を覗き込んできた。それを私は、張り倒してやりたいような、また抱きしめてやりたいような、変梃な気持でじっと見返したまま、どうにもすることが出来なかった。
 栗飯を食べるために、私は静かな奥まった家へ何の気もなくはいっていったが、やがて自分の迂濶さに面喰った。私達を出迎えた女中は、銀杏返しに結って銘仙の着物をつけ、何を云うにも取澄した顔をしながら、身体全体で愛想を示す、可なり年増な女だった。通された室は奥の八畳の間で、衣桁から床の間の掛軸や水盤など、程よく整っていて、而も違棚の上には大きな鏡台が据えてあった。それになお、生憎今日はお風呂がございませんで……とわざわざ断られた。とんだことをしたと思ったが、もう取返しはつかなかった。女学生とも令嬢ともつかない光子の様子と自分の袴とに、変に気が引けながらも、いい加減に料理を註文しておいて、私はおずおず光子の方を窺った。彼女は何を考えてるのか、さも疲れたらしくぐったりと坐って、餉台にもたせた片手で頬を支え、室の隅にぼんやり眼をやっていた。私は弁解のつもりで云った。
「うっかりはいり込んだけれど……少し変な家でしたね。」
 彼女は私の方へちらと黒目を向けて、こんなことを云った。
「でも、これで温泉と谷川とがあったら、登別のような気がしそうですわ。」
 不思議なことには、彼女のその言葉に私は全然同感したのだった。登別と井ノ頭とは、どの点から云っても全く異った景色なのに、私の心にはそれが一緒になって映ったのである。今から考えると、その時の登別というのは一つの符牒に過ぎなくて、ただ漠然と自由な一人っきりの境涯というくらいな意味のものだったらしい。私はその日初めて聞かされたのであるが、彼女はあの時既に札幌の家に居にくくて登別に来てたのだそうだし、私はまた、漂泊の旅にでもいるような気で旅をしてたのである。
 私達は馬鹿馬鹿しくも、登別と井ノ頭とを比較して話し初めた。そのうちにいろんな物が運ばれた。女中は物を持って来たり用を聞いたりすると、すぐに室から出て行ったが、全体の調子や素振りで愛想よく待遇してくれた。一つあいだを置いた向うの室で、男女の笑い声が聞えていた。私はいい気になって酒を飲んだ。光子も自ら進んで私の相手をした。それから何だかごたごたして、今私ははっきり記憶していないが、やがて食事を済まして林檎をかじりながら、私は縁側の戸を一枚そっと開けて、外を眺めてみたのである。庭の植込からその向うの木立へかけて、薄い靄が一面に流れていて、空高く星が光っており、西の空にどす赤い下弦の月が懸っていた。その不気味な月に暫く見入っているうち、俄にぞっと寒けを感じて、ふと振向いてみると、光子は半身を餉台にもたせかけ火鉢の上にのり出して、震えながら歯をくいしばっていた。私は雨戸をしめて戻ってきた。
「どうしたんです?」
 彼女はぎくりとしたように顔を挙げて、黒目が三分の一ばかり上眼瞼に隠れてる眼付を私の顔に見据えていたが、そのまま瞬きもしないで、はらりと涙をこぼした。私は残忍な気持になって、それに乗じていった。
「あなたはやはり心から松本君を愛してるんですね。」
「嘘、嘘、」と彼女は叫んだ、「誰も愛してなんかいません、誰も。」
「じゃあなぜそんなに……絶望してるんです?」
 彼女は病的な表情をした。そして暫く黙った後に言った。
「やっぱり私一人だけだわ。」
「何が?」
「いろんなことを考えたってやっぱり……私一人だけだわ。」
「だから考えない方がいいんです。」
「それでも私……。」
「欝憤を晴らすのなら、めちゃくちゃに歩き廻るのが一番いいですよ。」
「先生だって……。」
「だから池のまわりを七回まわったんです。」
「七回なんてまわりやしませんわ。」
「然し……一体どうしたらいいんです?」
 そして私は不意に顔が赤くなった。やたらに煙草を吹かした。彼女も黙っていた。虫の声がいやに耳につくような静けさだった。長い間たってから、私は不意に彼女の手を握りながら小声で云った。
「泊る?……帰る?」
「泊るわ。」
 そして私達は敵意を含んだ眼付で見合った。
 茲で私は一寸断っておかなければならない、筆が余り滑りすぎたようだから。実は私は、いつの頃からか覚えないが、性慾の衰退に可なり悩まされていた。原因は毎日の晩酌と過度の喫煙とに在ると、医者も云うし自分でも思っていたが、それがどうしても止められなかった。なぜなら、生活全体が早熟してしまって、本当の決心というものが私には不可能だったから……がこのことはもっと先で云おう。兎に角私は性慾が著しく衰退して、そういう事柄にさっぱり興味がなくなってしまっていた。私はいつも何だか満ち足りないような焦燥のうちに暮していたと、前に一寸述べておいたが、それも一つはこれが原因だった。たまに玄人くろうとの女に接することがあっても、後の感銘は実に索漠たるものだった。殊に家庭に於てはそれが甚しかった。そのために私の家庭には、冷かな風が流れ込んできた。子供に乳房を含ましたり頬ずりをしたりしながら、私の方へじろりと投げる妻の眼付に、私は或る刺々とげとげしいものを感じて、ぞっとするようなことがあった。どうして子供なんか出来たんだろうと、そんな風に溯ってまで考えることがあった。それかと云って私は、何も君子然たる心境に到達したわけではない。頭の中にはいろんな妄想が、以前と同じように去来するのだった。云わば性慾そのものが、肉体を離れて頭の中だけに巣くったようなものである。そして一時私は、頭の中だけでいろんな女性を探し求めて、精神的に彷徨し続けたこともあった。然しそういう空しい幻はやがて崩壊してしまって、私は非常に虚無的な気持へ陥っていった。それから漸く辿りついたのは、性慾の蔑視ということだった。単に性慾ばかりではなく、肉体に関する一切のものの蔑視だった。凡て肉体に関するものは、一時的で皮相で無価値なものだと思った。この思想は一夫一婦主義の家庭生活とよく調和した。私は若い女性と一緒に談笑しても平気だったし、時折不道徳な行いをしても、自ら良心に咎める所が少しもなく、それを妻に隠したのは、ただ妻から小言を喰わないためにばかりだった。妻と一つの生活――この一つの生活というのに力点を付して――一つの生活をしている、という意識さえしっかりしていれば、下らない肉体的な過失くらいは取るに足らない、そう思って私は、どんなことをしても危険を殆んど感じなかった。光子を平気で井ノ頭まで連れ出したのも、右のような持論を持ってるからだった。所が、光子からああいう話を聞き、次に自由奔放な彼女の魂を見、最後に家庭なんかの煩いを離れた伸々とした気持になって、私の心の中には別なものが頭をもたげてきた。それが更に、酒を飲んでるうちに光子の眼付から度々そそられた。そして、前にはただ「何だかごたごたして」とだけ書いたが、このごたごたのうちに私は意を決したのである。前日来のことで絶望して苛立ってる奔放な光子を見、その挑みかかるような眼付を見て――だが彼女がどういう心持だったかは私にはよく分らない、彼女自身にも恐らく分っていないだろう、実際その場の空気はごたごたしていたから……でもその間に、私は彼女を対象として自分をためしてみようと思ったのである。そしてそれは、性慾を蔑視する平素の持論にも矛盾しなかった。
 そういう風にして凡ての調子が狂っていった。光子も私の気持を無意識的に感じて、更に絶望的に苛立っていったらしい。
 呪わしい一夜だった。
 私達は飯も食べずに、七時頃その家を飛び出した。朝靄が靉いて、地面はしっとりと露に濡れていた。木立には雀が鳴いていた。森を掠めてる清らかな朝日が、私には眩しかった。光子は足先を見つめながら歩いた。蒼い顔色をして、唇の端を軽く痙攣さし、時々病的な光が眼に現われてきた。池の縁に出た時、私は皮肉に微笑を浮べながら云った。

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