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或る男の手記(あるおとこのしゅき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 6:24:40  点击:  切换到繁體中文


「明日は大役だよ。よく考えて失敗しくじらないようにしなければいけない。」などと私は平気を装って云ったが、口元の軽い震えをどうすることも出来なかった。
 然し彼女の答えは、冷淡な調子ではあったが、案外素直な不平のみに止った。
「あなたがあんまり呑気で意気地がないから、こんな役目までも私がしなければならないんです。」
 そしてなお幸いなことには、彼女は子供の面倒をみてやらなければならなかったし、私は銚子に残ってる酒を飲みながら、すっかり酔っ払った風をすることが出来た。
 実際にも私は少し酔っ払ってたかも知れない。その晩いくら酒の廻りが悪かったからといっても、平素よりは随分長く多量にやったのだから。そして布団の中に蹲りながら、陰欝な妄念に弄ばれてるうち、私にも似合わない決心をしてしまった。その決心が翌朝になると、自分のこれまでの生活に対する反撥心から、更に益々固められた。
 私は学校を出ると間もなく結婚して家庭を持った。勿論恋愛結婚やなんかではなく、私の例の煮えきらない態度のために、いつしか媒妁人のために引きずり込まれてしまったのである。然し妻の俊子は善良な女だった。私によく仕え家庭をよく整えてくれた。そして三人の子供を設けた。家族が増すにつれて私の収入だけでは生活困難だったけれど、一番上の子が病気で入院した時をきっかけに、金のいる時にいつも妻が河野さんから借りてくる習慣になってしまった。河野さんは昔妻の父から恩義に預ったことがあるとかで、心よく私達の世話をしてくれた。向うでは何でもないことだったろうけれど、実業界に羽振のいい河野さんがついていてくれることは、私達にとっては非常に力強く、自然とその庇護に安んずるような惰性がついた。そして表面上、私達はまあ幸福な生活をしていたのである。所がその安穏幸福というやつがいけなかった。私達の生活にはいつしか、張りがなくなり、力がなくなっていた。私は元来文学が好きで、法科をやりながらも文芸書ばかり読み耽った。卒業後もずっと、会社員になり済そうか、それとも文学で身を立てようかと、それを迷い続けてきた。生活の脅威と重圧とがなかったために、いっまでも決心がつかなかった。河野さんの口利きで、今の会社の社長秘書といった無為閑散な冗員になり、一方では英語の小説の飜訳などをしていた。然し両方とも私の本当の仕事ではなかった。本当の仕事は、ずっと遠い所に……雲をでも掴むような所にあった。そして、その本当の仕事がいつまでも掴めないし、張りのない安穏な生活にはまってしまうし、子供は殖えてくるし、自分はいつしか三十の年を越してゆくし、遙かの先まで平坦な道の続いている自分の一生が、妙に味気なく見渡されて、何か或る驚異を求める焦燥の心が萠し、それかって別に面白い冒険もなし得ずに、いつしか酒と煙草とに耽るようになった。外で飲まなければ家で必ず晩酌をやり、敷島を手から離すことがなかった。酒と煙草とは精神の一種の手淫である。その不自然な精神的淫蕩に沈湎してるうちに、私の脳力も体力も衰えてきて、その直接の現われとしては、前に述べたようなひどい性慾減退を来し、また内的には、全く意志の力を失ってしまった。もう今迄のあやふやな生活を擲って、何か一つ自分の一生の仕事というものを選ぼうと思ったり、また直接当面の事柄としては、酒と煙草とを止そうと思ったりしたが、本当の決心が私には出来なくて、いつもぐずぐずに終っていった。そして私の精神はだらけきり、私の生活はなまぬるい陰欝なものになり、而も私の魂はまだ諦めきれずに、いつも落着かない焦燥のうちに悶えていた。
 妙に暖い薄曇りの日だったが、そのなま白い朝の明るみの中で、私は自分の姿を堪らなく惨めに感じ、その感じが前々日来の記憶に更に助長せられて、凡てに反撥するような心地から、前夜妄想のうちにふと浮べた決心を、私はほんとに固めてしまったのである。その決心とは、光子に逢ってみることだった。逢ってどうしようというのではない。逢ったらどうにかなるだろうというのだった。恐らくは、前夜松本に余り歯が立たなかった不満や、俊子の様子から受ける不安や、事情の切迫から来る脅威や、光子に対する好奇心や、自分の性的無力を証拠立てられた苛立ちや、其他いろんなこと――自分にだって一々分るものか――何やかやがつけ加わってはいたろうけれど――要するにそれは私にとって、凡てのものに対する最後の反抗の試みだった。道徳的な批判や良心なんかは、私には少しもなかった。
 そこで私は、その午前中には俊子が出かけられないことを推測し――俊子より前に光子へ逢わなければいけなかった――会社へ行く風をして朝早めに出かけ、河野さんの家のまわりをひそかにぶらつき、十町ばかり離れた所に場所を選定し――他に適当な場所が見当らなかったので、電車通りから一寸はいった洋食屋の二階にした――それからわざわざ自動電話を探して、河野さんの家へ――光子へ――電話をかけた。私はごく冷静に落着き払って、それだけのことをしたのである。
 電話口に出て来たのは、たしかに光子らしかった。所が私が名前を云うと、向うはぴたりと口を噤んでしまった。話しかけても答えがないので、「もしもし」と呼んでみると「はい」という返辞がした。話しかけるとまた答がない。呼ぶと返辞だけする。そんなことを三度ばかり繰返した後、私は確かに光子が聴いてだけはいると信じて、是非逢いたいことがあるから来てくれと繰り返して執拗に頼んだ。所がやはり答がなかった。私は暫く待ってから再び懇願した。すると突然怒ったような声が響いた。
「それでは参りますわ、じきに。」
 そして電話は切られた。私はぼんやり自動電話の箱から出て、約束の洋食屋へやって行ったが、どうしたのか、目的を達したという喜びは少しも感じなかった。否喜びどころではなく、次第に不安を感じてきた。
 可なり立派な西洋料理店だったが、朝のうちのせいか、階下の広間に四五人の客がいるきりで、落着きのない静けさにがらんとしていた。二階に上ると、幸にも二室に仕切られていたので、私は狭い方の室を占領して、葡萄酒一本と林檎のパイ二人前とを註文しながら、女が一人訪ねて来たらすぐに通してくれとボーイに頼んだ。そして一人になると、腰掛に坐っておれなくて、室の中をぐるぐる歩き出した。期待の念にわくわくしながらも、心は深い穴の底へでも落ちて行くかのような気持だった。然し私は長く待たされはしなかった。註文の品が運ばれて、葡萄酒を一杯飲むか飲まないうちに、光子は性急な足取りで階段を上ってきた。
 彼女は電話口に出て来た時と同じ服装のままですぐにやって来たものらしい。着くずれた銘仙の着物にメリンスの帯をしめていたが、髪だけは綺麗に取上げて、大きな鼈甲の簪を一つ無雑作に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)していた。ボーイが開けてくれた扉を斜め後ろ手に閉めきっておいて、挨拶もせずに私の方へつかつかと進んできた。その様子を一目見ると、私はもう何もかも駄目だという衝動を受けた。顔は真蒼と云ってもいいくらいに血の気が失せ、変に総毛立って、化粧のためにぼーと鼠色の陰を帯びていた。唇がかさかさに乾き、痙攣的に震える眉の下から、薄黒いくまで縁取られてる眼が異様に輝いていた。殊に私の眼を捉えたものは、臙脂色の襟から覗き出してる頸筋に、紫色のなまなましい痣が二つ三つ見えていて、それが今朝結い立ての髪と病的な対照をなしていることだった。そして私は、窓からさし込んで天井の高い白壁に湛えられてる、薄曇りの昼間の影のない明るみの中では、見るに堪えないようなものを、彼女の全体から嗅ぎ出したのである。
「まあお坐りよ。」と私は眼を外らしながら云った。
 彼女は黙って私の正面に坐った。卓子の上に少し萎れかけた菊の花瓶があって、それでやや二人の間が距てられた。その影から私は彼女を見据えていたが、黒目が半ば上眼瞼に隠れて光ってる彼女の眼付に出逢うと、もう我慢が出来なかった。
「お前は……。」
 彼女は同じ眼付で後を尋ねかけて来た。
「お前はとうとう……。」
 それでもやはり先が云えないでつまっていると、彼女はふいにいきり立った。
「ええ、そうなったわ。それがどうしたの!」
「それでお前は……いいのかい?」
「いいも悪いもないわ。どうせ私みたいな私は……。あんな風にぐれ出したんだから、どうなったって構やしない。」
 その絶望的な憤激が、私の方へ向けられないで、彼女自身の方へ向けられてるのを感じて、私はその隙に乗じようとした。
「そういう風にお前は、自分自身をいじめているが……実は……。」
「いいえ、」と彼女は私の言葉を押っ被せた。「実はだの本当はだの、そんなもの何もありゃしないわ。何にも……。私はただこうなっただけよ。あの時からもう……。」
「それじゃなぜ、今日やって来たんだい?」
「あなたが是非来いと仰言るから……。」
「それだけ?」
「ええ、それだけよ。」
 乾ききった唇を少し歪め加減にくいしばって、彼女はじっと私の方を見つめた。色褪せた菊の花の影から、先の尖った大きな鼈甲の簪が細かく震えているのが、しきりに私の心へ触れてきた。私は立上って少し歩きながら云った。
「僕は今日、お前と喧嘩をするために此処まで来て貰ったのじゃない。ゆっくり落着いて話してみたかったのだ。お前の心をよく聞いてみたかったのだ。お前の心次第で……。」その時私の頭に非常な勢で新たな考が閃めいた。「初めはあんな風だったけれど、何にも囚われない自由なのびのびとしたお前に、僕は……恋したのかも知れない。何もかも打捨ててしまって、お前と勝手気儘な放浪の生活をしてもいい。僕にはそれが、何だか新らしい本当の生活のような気もする。何処に行こうと自由だ。何をしようと自由だ。お前さえ承知してくれるなら……。」
「じゃあ一人でそうなすったがいいわ。」
 私は立止って振向いた。彼女は両肱をぐったりと卓子にもたせて、毒々しい軽侮の眼付で私を見ていた。
「お前は、僕を憎んでるね。」
「憎んでやしないわ。もう誰も怨んでも愛してもいないわ。ただ……。」
「え?」
「自分が憎いだけ。」
 ぶっきら棒に云ってのけて、突然、彼女ははらはらと涙をこぼした。私は呆気にとられて、その涙をぼんやり眺めていたが、不思議にぱっと一切のことが明るくなった。私は眼がくらむような気がして、椅子の上に身を落した。
「そうだったのか。やはりお前は……。」
 彼女はぎくりとして涙の顔を上げた。
「やはり松本君を愛してるのだろう。」
 そして私は惹きつけられるように彼女の眼に見入った。その眼は黝ずんでじっと据っていたが、私から徐ろに菊の花の方へ移ると、俄かにぎらぎらと輝いてきた。
「じゃあ私が松本さんを愛してるとしたらどうすると仰言るの? また愛していないとしたら、どうすると仰言るの?」
 真剣だとも皮肉だともつかないその調子に、私は遠くへ突き離された気がした。そして両手で頭を押えながら、それでもなお縋りついてゆこうとした。
「どうすることも、僕にはどうすることも出来ない。ただお前が何とか云ってさえくれれば……。」
 彼女は黙っていた。
「いろんなことがさし迫ってるのだ。……もう何もかも云ってしまおう。実は昨晩松本君が来て、すっかり打明けてから、お前を僕の家へ引取っておいて暫く交際さしてくれと、そう云うのだ。そして結局、俊子が今日お前の所へ行って、お前の心をよく聞いた上で……ということになっている。午後には行くだろう。それで僕は……。」
「え!」彼女は声を立てた。「奥さんが私の所へ?」
 彼女の喫驚した様子に私は眼を見張った。
「本当?」
「本当だとも。だから僕は……。」
 私は云いかけて止した。彼女はふいに飛び上ろうとしたが、それをじっと押しこらえるような表情をして、頬をぴくぴく痙攣さした。それから突然顔色を変えて、その引きつったままの口元に、嘲るような影を浮べて、いきなり病的に笑い声を立てた。
「いらっしゃるがいいわ。昼間よりか、晩にでも、そして……河野さんの所へでもいらっしゃるがいいわ。」
「何だって!」
 彼女はまた病的な笑い声を立てた。
「河野さんの所へいらっしゃるがいいわ。どんな風だか、私影から覗いててやるから。……男って可笑しなことばかり考えるものね。私を捉えて、俺はお前だとは思っていない、草野の細君だと思ってるんだって……。だから私も云ってやったわ。私もあなただとは思っていない、草野さんだと思ってるって。その時の喫驚なすった顔ったらないわ。それで私はなお云ってやった、私はもう身体は草野さんの奥さんと同じだから、どうか思う存分にって。いくら恐い眼付で見られたって、私びくともしやしない。そして云うことが振ってるわ、俺が悪かった、草野の細君というのはただお前の心をそそるための手段で、実は誰の細君でも何処の女でもいいんだ、そんな者はいやしない、俺が悪かったから誤解しないでくれ……そう云って頭を下げなさる所へ、私かじりついていってやったわ。人を馬鹿にして、じじいのくせに!……でも、何もかも馬鹿げてるわ、初めからみんな馬鹿げてるわ。」
 彼女の真蒼な顔はなお蒼ざめて、眼だけが異様に輝いていた。私はそれに堪えられなくなって、菊の花の影に隠れるようにして両手で額を押えた。もう何もかもめちゃくちゃになった気がした。彼女の言葉の奥には、いろんな感情がごったに乱れていた。単に河野さんとのことばかりではなく、私や松本のことなんかも、主客転倒して一緒にはいっていたかも知れない。私は頭の中で、何もかもめちゃくちゃになってそしてこんぐらかってしまった。その上なおいけないことには、妻に対する疑惑が頭の隅に引っかかってきた。
 私達はそれきり長い間黙っていた。何処かで小鳥の鳴く声がしたようなので、私はふと顔を上げた。光子は彫像のように固くなって考え込んでいた。が私の視線を感じてか、ふいに彼女は立上った。私も立ち上ったが、不覚にも涙をこぼした。

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