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現代小説展望(げんだいしょうせつてんぼう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 6:55:11  点击:  切换到繁體中文


      感覚的探求

 自然主義の破綻は、多くの人々に新らしい途を辿らせた。各人が各自の方向に進んだ。我が国で、新技巧派とか人道主義とか新感覚派とか称えられたものは、批評家が便宜上名づけたものにすぎなくて、実は、そういう主義や流派は存在せず、各作家がそれぞれ各自の途を歩いたのである。一体、詩人の方は、何等かの旗幟をかかげ何等かの作詩法を提出し、何等かの主義主張を唱えることが多いものであるが、小説家の方は、ただ黙って創作することが多い。これは、両者の気質にもよるであろうが、また詩と小説との本質に関連する面白い現象である。がここでは問題外ゆえはぶく。
 ところで、前記の新技巧派と人道主義とについては、現在では殆んど論ずる必要のないことだし、また論及の遑もないが、新感覚派については、一言しておく必要がある。
 批評家が便宜上名づけた新感覚派という言葉は、小説創作上における一つの態度を暗示する。
 自然主義が現実の壁につき当って行きづまった時、或る人々は、その現実の壁を不思議そうに眺めた。不思議そうに眺めることは、新らしい眼で眺めることだ。何等の先入見もない小児のような眼で眺めることだ。すると、これまで灰色の陰鬱なものだとせられてた壁の上に、日の光が戯れ、種々の色合が躍ってるのが、次第に見えてくる……。
 そういうところから、新らしい眼で現実を見直すことになる。眼は感覚だ。そこで、新らしい感覚による探求の途が開かれる。自我を没却して現実の真に肉薄しようという態度から、自分の新らしい感覚によって現実に触れようという態度に変る。そしてその感覚をあらゆるものから解放された新鮮な状態に保つことが、第一の条件であり、その感覚で人生の現実を直接に感得することが、目標である。
 少し極端な例だが、スペインの作家ラモンの短文を二三引用してみよう。――

 寝室にはいつも、釘で拵えたような小さな穴があって、そこから吾々は見張られている。誰かが吾々を見張っていて、決して視線を外らさない。

 世界で最も恐ろしい響きはシルクハットの落ちる音だ。

 電信局に夜遅くまで灯火がついてるのを見ると、重体な病人の室の灯火を見るような気がする……。はいっていって尋ねたくなる、いかがですかと、何か変ったことでもありますかと……。
 見ようによっては単なる思い付とも見られる。然しそうばかりとはいえない。新らしい感覚で感得されたものでなければこういうものは単なるヨタにすぎなくなる。
 新らしい感覚によって感得されたものは、必然に、それ独特の表現形式を以て現われてくる。なぜなら、芸術作品においては、内容と表現とは切り離すことの出来ないものだから。
 批評の場合には、便宜上かりに作品の内容と表現とを分けて論ずることがある。然しそれはあくまでも「便宜上かりに」であって、両者は不可分の関係にある。吾々は物を考える場合に、単に物――内容――だけを考えることは出来ない。必ず言葉――表現――によって考える。そして小説のなかで、例えば「女」という場合には「女」と題する一つの彫像みたいな具体的な個体を現わすのであって、単なる概念ではない。
「もう生きていたくない。」――「もう死にたい。」――とこういう二つの表現は、理論的には一つの気持の両面を現わすものであっても、芸術的には全く違ったものとなる。
「世の中が嫌になった。」――「生きていてもつまらない。」――「生きていたくない。」――「死んだ方がましだ。」――「死んでしまいたい。」――「死のう。」
 こういう風に程度の差をつけて書き並べてみると、どれをどれに置きかえても妥当でないことが分るはずである。即ち内容が異なれば表現も異なってくる。内容と表現との間には、髪の毛一筋の隙間もあってはならない。なおいえば「今日はお天気だ。」というのと、「今日は日が照ってる。」というのとは、全く違った事柄を表わす。それ故、新らしい感覚はそれ独特の表現を要求する。
 夜が明けたように彼女の瞼が段々と大きく開き、闇色の瞼のぐるりへトゲのように睫毛をはねると、鋭くじっと彼女はわたしを見据え、わたしの心臓へはっと怪しい動悸の刻みを与えた瞬間
「と申しますと?」
 弱々しい低い声音に、何かしら決心の表情を見せるのです。
「お間代をお支払い出来ませんでしたら、この住まいを出ろとおっしゃるのですか?」
 おお! 彼女の睫毛の先にキラキラと膨れた夜の雨のような大粒な涙です。古びた浮刷の花模様の壁紙。はすにわびしくそこへ映った彼女の影法師。と、わたしの心はふと何かに怯えるのです。……
(「風」――竜胆寺雄)
「あらゆる人間の経歴を泳ぎぬけてきた」手におえない三十九の女に「わたし」という青年が立退きを談判してる一節である。新鮮な感じに溢れている。新らしい感覚で捉えられたものが、ぴたりと表現されている。
 ところで、この一節或は「風」全篇を読んでみると、吾々は何かしら或るまやかしを感ずる。前に述べた通り、内容と表現とを合致さしたその全体に、或るまやかしを感ずる。人生の現実の上に、何者かが何かを組立ててるように感ずる。
 自然主義が、自己を空しうして余りに対象を凝視しすぎたため、或る璧につき当ったのとは逆に、感覚による探求は、ともすると、感覚の作用にばかり頼りすぎて、対象の凝視がおろそかになる。そこに危険がひそんでいる。
 対象の凝視は、対象をしっかり把握せんがためのものである。そこで、対象の凝視が足りず、随って対象の把握が足りなくて、感覚がひとり跳梁する時、一種の曲芸が起ってくる。まやかしの組立がはじまってくる。空中楼閣が築かれてくる。絢爛な空疎な作品が生れてくる。
 作品の内容と表現とが一致することは前に述べておいた。それで絢爛な空疎な作品というのは、内容が空疎で表現が絢爛だという意味ではない。内容も表現も、即ち作品そのものが、空疎で絢爛なのだ。軽くてぴかぴか光る玩具のようなものだ。それは所詮、生活逃避の娯楽器具に過ぎない。
 辛辣な[#「辛辣な」は底本では「辛竦な」]諷刺を取忘れたナンセンス、愛欲の根を張らないエロチック、怪奇な戦慄を伴わないグロテスク……などは、感覚的探求の迷路といってよい。
 ただ一つ注目を要するのは、感覚を主とする新らしい神秘主義である。これはまた心理的探求の支持を必要とするが、然し、科学的な理智的な神秘主義、アラン・ポウのような神秘主義と異なって、おもに感覚的に進んでゆくところに特色がある。
 川端康成の「抒情歌」のなかの女は、床の間の紅梅の花を、亡き恋人の霊と見立てて、それに話しかける。――
 覚えていらっしゃいますか。もう四年前のあの夜、風呂のなかで突然はげしい香におそわれた私は、その香水の名は知らぬながらも、真裸でこのような強い香をかぐのは、たいへん恥しいことだと思ううちに、目がくらんで気が遠くなったのでありました。それはちょうど、あなたが私を振り棄て、私に黙って結婚なされ、新婚旅行のはじめての夜のホテルの白い寝床に、花嫁の香水をお撒きになったのと同じ時なのでありました。私はあなたが結婚なさるとは知りませんでしたけれども、後から思い合せてみますと、それは全く同じ時刻でありました。
 そしてこの、幼い時から透視的直覚力の強い女は、霊界通信のこと、仏教の精霊のこと、ギリシャ神話のこと、自分の不思議な直覚的想像のこと、などを話すのである。そしてその話全体が、一種の香りに似た感性で包まれている。
 こういう作品は、吾々の持つ感覚の奥行の深さを思わせる。そこに一種の神秘な世界が暗示される。ただ、その神秘な世界を開拓するには、感覚だけでは足りない。他の多くのものが必要になってくる。ここでも既に作者は、単なる感覚の域をぬけ出して、更に深い心理的な見解の上に立っている。
 少しく冗長のきらいはあるが、ここに二つの短篇の各一節を書き並べてみよう。――
 私は高い石垣の上から妻と捨児を飲み込んでいる街を見下した。街は壮大な花のようであった。街は大きく起伏しながら朝日の光りの中で洋々として咲き誇っていた。
  …………
 暫くして、女は朗かな朝の空気の中を身軽に街のどこかへ消えて了った。
「俺は何物をも肯定する」と、街は後に残ってひとり傲然としていっていた。
 私はその無礼な街に対抗しようとして息を大きく吸い込んだ。
「お前は錯誤の連続した結晶だ。」
 私は反り返って威張りだした。街が私の脚下に横わっているということが、私には晴れ晴れとして爽快であった。私は樹の下から一歩出た。と、朝日は私の脚を眼がけて殺到した。
(「無礼な街」――横光利一)
 ……そのまま由良は立ち去りかねて花江と一緒に立っていると、間もなく遠くの木枯の中からかたかたと馬車の音が聞えてきた。すると、花江はまたしきりに帰ってくれと由良にいい出したので……彼女と別れて帰ってきた。しかし、花江から見えなくなったと思われるあたりまで来たとき、由良はそこの草の中に立ち停って花江の方を見ていると、誰も人を乗せずに傾きながら近づいて来た小さなぼろ馬車に花江が乗って、ふっと提灯を吹き消すのが眼についた。そうして、やがてまたかたかたと草原の中の石ころ道を走り出した馬車と一緒に、ほっと吐息をついているかのように柱にもたれて揺れていく花江の姿を見送っていると、由良は吹きつけて来た木枯に面を打たせたまま、もうおれもこれはどう藻痒こうと、花江から放れることがとうてい出来そうにもないと強く思った。
(「馬車」――横光利一)
 右はどちらも、短篇の結末であり、女と別れるところである。そして一方は都会の朝であり、一方は山間の夜であって、それと同じくらい気分の違いがある。が、吾々の眼を惹くのは、同一人の作品とは思えないほど、作者としての態度が異なっていることだ。前者においては、感覚的な新鮮な描出をねらってる作者の姿が見えるし後者においては、心理的な緊密さを求めてる作者の姿が見える。「無礼な街」から「馬車」までには、七年あまりの時が経過している。この間に作者の歩いた途が正しいかどうかは、読者の判断と嗜好とに任せよう。そして、「馬車」には現実的な豊満さが乏しいと非難する者があるなら、「無礼な街」には現実から遊離した軽佻さが更に目につくではないかと、それだけいっておきたい。
 何等の先入見もない新らしい眼で見るということは、作家にとって最も必要なことである。赤児の眼に映る外界が、如何に驚異に満ちた輝かしい溌剌としたものであるかを、吾々は想像する。その赤児のような眼で外界が眺められるならば、至るところに宝石が発見されるだろう。吾々が平常見馴れていて一顧もしないようなところに、燦然たる宝石の輝きを発露さしてくれる作家があったら、吾々はどんなにか生き甲斐を感ずるだろう。
 作品が古いとか新らしいとかいうことは、多くは、作家の眼の感覚が古いか新らしいかに由来する。芸術作品にあっては、内容と表現とが一つのものであるという限りにおいて古い眼の作家から新らしい作品が生れるはずはない。
 そして作品が新らしいということは、生動してることの別名であり、古いということは、枯死してることの別名である。優れた作品は常に新らしいとは、こういう意味においていい得らるる。
 作家は、新らしい眼で以て、新鮮な感覚で以て、なおいえば、溌剌と生動してる感性で以て、対象を見なければならない。
 然しそれは、人間の生活的現実に対する見方であって、その態度の全部ではない。新たな感覚に奉仕することが、作家としての態度の全部になる時、創作の上にまやかしの組立が生じてきて、絢爛ではあるが空疎な作品が生れてくる。
 ジュール・ロマンの「某人の死」という小説から、面白い一節を引用してみよう。――
 ……夕方であった。光は太陽と共に西へ立戻るために、事物から離れかかっていた。事物とその光線とが見分けられない昼間のように、そんなに密接に光りはくっついてはいなかった。少し離れて浮んでいて、事物の息が持ちあげてるヴェールのようだった。
 ……家々にはランプがともされていた。窓掛が引かれてるにも拘らず、(外から)内部が見えた。なぜなら、昼間は、人家が街路を見街路へ思いを向けているが、晩になると、街路の方が人家を見ランプへ思いを向けるのである。

 こういう一節をよむと何等まやかしの組立もないしっとりと落付いた或世界が、ほのかに感ぜられる。これは単なる思い付や単なる感覚による描写ではない。実際この作品は、個人と社会、個物と万象、その間の交錯関係、そんなことが主題となってるものである。そして右のような描写筆致は、そこから自然に生れてきたものである。
 感覚的探求は、何等かの創作態度の裏付があって、初めて有力に生かされる。とともに、新たな創作態度には、必ず新たな感覚的探求が伴う。芸術は、理性的な世界によりも、より多く感性的な世界に属する。

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