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現代小説展望(げんだいしょうせつてんぼう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 6:55:11  点击:  切换到繁體中文


      心理的探求

 新らしい感覚で現実を見直すということは、干乾びた芸術を新鮮にする第一条件ではあるが、更に外に現われた可見的なものに止まらずに、その内部にまではいりこんでみようという努力がなされる。それが人間を対象とする時には、人間の内部生活――精神生活にまでふみこむことになる。そうして人間の内部を覗いてみると、如何に雑多な情意の錯綜がそこにあるか、如何に奥深い世界がそこに横たわっているかに、今更ながら驚かされる。その世界を探求し闡明しようとするところから、心理主義の小説が生れる。
 固より、如何なる小説でも、心理を全然無視したものはない。人間は心意の動きによって行動する以上、人間を描くに心意の動きを除外することは出来ない。ただ、自然主義が外部の現われを主として辿るのに反して、心理主義は内部の心理を直接に描こうとする。自然主義が外部から人間を見ようとするのに反して、心理主義は内部から人間を見ようとする。
 こういう心理主義は、古くからあったもので、あらゆる時代に存在していた。そして現代の新らしい心理的探求から生れてきた心理主義とは、全く面目を異にしている。どういう風に異なるかを見るには、従来のいわゆる心理解剖小説のことを一言しておく必要がある。
 心理解剖小説は、近代になって極度の精緻さを来した。例えば、吾国によく知られてるドストエフスキーやブールジェの小説はそれである。
 ドストエフスキーは心理解剖ばかりの作家とはいえない。彼の小説は、その構想の上にロマンチックなところが非常に多く、細民街の貧しい人々の描写には深刻な写実味が豊かであり、虐げられた人々の生活の叙述には一種神秘な心霊的な光輝が漂っている。けれども、例えば「罪と罰」などのような作品は、結局心理解剖を主としたものといってよいだろう。そしてブールジェの方は、純然たる心理解剖作家である。
 ところで、それらの作家の作品において、第一に目立つことは、その心理解剖が人間の行為を説明せんがためのものであるということだ。とこういえば、或は可笑しく聞えるかも知れない。すべて芸術上の種々の態度や方法は、それ自身が目的ではなくて、或は美を目的とし、或は何等かの解決を得るのを目的とする。だから心理解剖もそれ自身が目的でなく、即ち解剖のための解剖ではなくて、説明のための手段であることに、別に不思議はない。然し、実は、それが人間行為の説明のための手段であるところにこそ、現代の心理主義と異なる要点が潜んでいる。
 その要点にふれる前に、一応、説明のための心理解剖がどういう結果を来たしているか、ドストエフスキーの「罪と罰」とブールジェの「弟子」とについて、概説してみたい。
 ドストエフスキーの「罪と罰」は、主人公ラスコルニコフが金貸の老婆を殺害することが、全篇の中心であって、あらゆる事柄がその一事に集中されている。大学生ラスコルニコフは、自分の学業を終えるために、また母と妹の貧しい生活を補助するために、多少の金を得たいと始終考えている。妹は自分の身を犠牲にして賤しい金持の男と結婚しようとする。また彼の愛するソーニアという少女の一家は、想像に絶した貧困のどん底にある。彼はますます金を欲する。そして不正な金貸を業としてる老婆を殺害しようとする。彼はその殺害を自ら弁護するために、唯物論的思想に頼る。人間は優者と劣者との二つに区分されるものであって、一般の道徳的法則は、優者に対して――例えばナポレオンの如き偉人に対して――何等の拘束力をも持つものでない、というようなことを論証しようとする。従って、彼ラスコルニコフを生かすためには虱のような老婆一匹をひねりつぶしても構わないと結論する。そして彼は遂に罪を犯す。
 ところで、こういう風に種々の事情をつみ重ね、種々の理論をふりかざしながらも、ラスコルニコフをして老婆を殺害させることに作者が如何に困難を感じたかが吾々読者にははっきり分る。そして殺害後のラスコルニコフの自責や悔恨を述べるに当って、作者の筆が如何に平易に走っているかがはっきり観取される。
 そこで、結論をいえば、ラスコルニコフのような真面目な青年は老婆を殺害してもその金を盗み出すことが出来なかった如く、元来老婆を殺害出来るものではない。彼を殺害行為に導くために作者が如何に困難を感じたか。そして殺害後の悔恨を述べるのに作者が如何に慰安を感じたかが、すでに右のことを証明している。そこでこの小説は、あり得べからざる殺害行為を説明せんがための、精緻な深刻な心理解剖である。人間はこんな風に人を殺すものではない。それがかりに殺したとしたら、こんな風であるかも知れない。
 ブールジェの「弟子」は、或る道徳的な意図を以て書かれた小説であって、決定論者シクストの著書が、純情な青年を如何に誤らせるかを示したものである。がその中心は、この青年が師の理論を実験せんがために、一人の令嬢を誘惑して、恋愛心理の細かな記録を取り、遂に情死の場面にまで導き、彼女を一人自殺させるに至るまでの、愛欲と理智との紛糾を描いたものである。そして特に目立つのは、この青年の理智的な恋愛解剖が精妙を極めてるのに比してそれを裏切る本能的な愛欲が如何にも生彩に乏しいことである。そして作者自身、令嬢の兄の行動に――情意と行為との世界に、或る郷愁を感じるらしいことである。
 そしてここでも、一足とびに結論をいえば、この小説はあり得べからざる恋愛の精妙な心理解剖である。主人公ロベールの一人きりの思索については、作者の筆は自由にのびているが、恋人シャルロットとの二人の場面については、作者の筆は渋りがちである。若い男女はこんな風に恋愛するものではない。それがかりに恋愛したとしたら、こんな風であるかも知れない。
「罪と罰」や「弟子」のような作品が、文学上の名作であることには、異議はない。名作たるだけの多くの資格を具えている。が然し、ただ一つ吾々の見遁してならないことがある。それは仮想の上に成立ってる作品だということである。
 仮想という語を広義に解釈すれば、あらゆる小説には仮想がある。特定な環境や人物や事件など、一篇の物語を成り立たせる条件は、一つの仮想であるといってもよい。然し私が前にいった仮想というのは、現実そのものの仮想の謂である。人形師が生きた血液の通わない人体を拵えあげるように、生きた情意の脈打っていない魂を作者が拵えあげてることをいうのである。
 科学の進歩が人造人間を拵えだしたように、心理解剖の進歩は各種の人造人間を拵えだした。そうまでなった所以は、この心理解剖が全然説明のためのものであって、説明のための説明のあまりに、知らず識らず、現実の仮想にまでふみ出してしまったからである。
 ところが、現代の心理的探求は、それらの心理解剖からメスの使い方を習得しながら、全く新らしい方向へ踏み出した。人間の行動を――或は人間を――説明せんがための心理解剖から、人間の精神界を――内部の世界を――描写せんがための心理的叙述となった。
 説明のためから描写のためへ、解剖から叙述へ、この変化は非常な飛躍であって、全く面目を異にする作品を生み出す。
 この変化には、哲学的な思想的な影響を無視するわけにはいかない。
 簡単にいえば、自然主義が行きづまって各種の探求が文芸界になされたと同様に、自然主義の基礎ともいうべき唯物的実証論が行きづまった時、思想界にも各種の探求がなされた。殊に人間の意識外の世界について、特殊の研究がなされた。シャルコーは催眠術や暗示について研究を進め、覚醒時において全く意識されない観念を頭脳の中に据え得ることを証明した。リボーは記憶の作用を研究して、少しも意識されない記憶が存在し、しかもそれが特殊な明確さで頭脳の中に生きていて、何かの病気によって突然よび醒まされ、強烈な働きをなすことを説明した。ジャネーは精神病や暗示について研究し、一人の人間のうちにも、独自の生存をして時により相交錯する多くの魂があり得るといった。その他多くの哲学者や心理学者は、各方面に研究を進めて、人間の意識の世界を軽視するようになり、理性や理論に支配されない潜在意識や無意識の世界のうちに、各種の問題の説明を求めようとした。そして殊にベルグソンやフロイドの研究考察は、大きな光明や暗示をこの方面に投じた。
 ベルグソンの説くところによれば、意識は吾々の精神世界の一部分に過ぎなくて、単に説明したり理解したりする実際的役目を帯びてるだけである。吾々の理想や性格は、その意識的な部分よりずっと広く拡がっている。無意識こそ吾々の精神生活の普通の形体であって、この隠れた広い深い源から、吾々の意識的な理論的な生活が流れ出てくる。
 それからなお、彼は時ということについて新らしい考察をした。従来、時は空間と同様に測定されるものとされていた。即ち、時の各瞬間は同質のものであって、一メートルの長さの上に一メートルの長さをつぎたすことが出来るように、或る時間の上に或る時間がつぎたせるものであった。然しそれは、ベルグソンによれば、全く抽象的な仮定に過ぎなくて、現実の時というものは、ただ純粋な持続のみである。持続はたえず変化する。それ故、或る事物や現象の或る瞬間はその前の瞬間とは異なる……。
 右のような所説は、文芸界にも新らしい見解を寄与したが、更に、フロイドの精神分析学は大きな影響を齎した。フロイドによれば、吾々のうちには二つの存在がある。一つは自然的存在、即ち吾々の天性通りの存在であって、も一つは人為的存在、即ち教育や社会的拘束によって作り上げられた存在である、ところで吾々の意識は、この第二の人為的存在をしか認めたがらない。しかし往々にして、第一の自然的存在の方が強力であって、無意識界の底から、種々の身振や癖や夢想や狂気や罪悪などを強要する。
 なおフロイドは性的本能について微細な研究をなし、リビドーの理論を打立てた。吾々には栄養の本能があって、時に空腹を感ずると同様に、また性的本能があって時に性的空腹を感ずる。この性的空腹をリビドーというのである。そしてリビドーはその実際的満足を得ない場合には、種々の異なった形になって現われてくる。各人の神経組織に随って、或は精神病となり、或は夢となり、或は神秘主義となり、或は芸術となる。
 彼の夢の解釈と芸術の解釈とには、多くの新らしい見解を含んでいる。芸術の解釈には幾多非難の余地があるけれども、夢の解釈は吾々の無意識の世界に多くの光明を投ずるものである。吾々の無意識の世界が、如何に多くの潜在的な記憶や欲望などの要素を含んで、深く広いものであるか、それを明示し、或は暗示する。
 かくて、多くの哲学者や、心理学者などの研究は、吾々の精神生活のうちに広い深い無意識或は潜在意識の世界が存在することを、そして意識の世界はごく狭い一小部分にすぎないことを、次第に立証して行きつつある。そしてこの精神生活全体を描きたいという欲求が、文芸界に起ってきた。
 上述のような影響を受けた新らしい文芸が、普通の意識の世界ばかりでなく、更に広く深い潜在意識或は無意識の世界を重要視するのは、当然のことである。そして説明のための心理解剖から、描写のための心理的探求に変ってきたのも、当然のことである。
 例えば、超現実主義を瞥見してみよう。超現実主義は、普通に吾々が現実と看做してるもののも一つ奥の現実を信ずるもので、夢の世界の確実性と思想の独自な働きとを信ずるのである。夢というものは、吾々の無意識の世界が時あって吾々の意識に反映するものに外ならない。それをそのまま描こうというのだ。そして思想の独自な働きを尊重して、何等理性の拘束も加えず、修辞学的な配慮や道徳的な配慮を拒けて、思想の動くままに筆を走らせようというのだ。
 超現実主義の主唱者アンドレ・ブルトンは、或る晩、眠る前に、明瞭な一つの文句を耳にした。それは彼が意識していたあらゆる事柄と全く縁のないもので「窓で二つに切られた男がいる。」というような文句で、それと共に、窓で胴切にされて歩いてる男の姿が、視覚にも映ったのだった。
 こういうことは誰にでも時として起るものであって、それは超現実界の思想が吾々の意識にひょいと顔を出したに過ぎない、とブルトンはいう。そして彼は、吾々の精神が一々批判を下す遑のないほど急速な独白を、時として或る種の病人がなすのを見て、思想そのものの速度は舌やペンの速度よりも早いと推定した。その推定を実証するために、彼は友人のフィリップ・スーポーと一緒に、あらゆる意識的な考慮をぬきにして、思想の動くままにやたらにペンを走らしてみた。そして出来たものは殆ど判読し難いものではあったが、それこそ実は、思想そのものの独自な姿を如実に示すものだというのである。
 かくて超現実主義は、文学を理性や修辞学から脱却させて、吾々の精神の本来の働きを自動的に記述させようと試みる。
 また例えば、新即物主義もほぼ似通った見解の上に立っている。新即物主義は元来、抽象的な観念を排斥し、空虚な感情の昂揚を排斥して、事物の直接把捉を主張したのであるが、写実的な外形的な叙述を無意味であるとし、所謂報告文学のようなものを無価値であるとして、作者の無意識的な内部運動を重要視する。従って、例えばアルフレット・デプリーンの小説「アレクサンダー広場」は、吾々が現実に見るベルリンの町ではなくて、作者の内部から流出して音楽や映画みたいな形式で構成されてる、ベルリンの町である。
 超現実主義の作品は往々不可解なものとなり、新即物主義の作品は往々支離滅裂なものとなる。然しそれは、理性的な意識で作品に対するからだと、彼等はいう。

 われわれの周囲にあるいろいろのものは不動の状態を負わされている。恐らくそうした不動の状態は、われわれがそのものはそのものであって他の何ものでもないと確信しており、それらのものに対してわれわれの考えが不動だからであるのである。いつものことなのだが、こんなふうに眼を覚すと、私の精神はむなしく私が何処にいるかを知ろうとして動揺し、ものや国や、年月日などが凡て、私のなかで、私の周囲をぐるぐる廻るのであった。ひどく痺れていて身動きのできない私の体は、その疲労の形に従って、手足の位置を決め、それによって、壁の方向、家具の場所を推定し、自分のいる家を今新に組み立てて、名をつけようとする。体の持っている記憶、肋骨や膝や肩の持っている記憶は、嘗て体の眠ったことのある部屋をたくさん次々に体に見せるのであった。その間、体の周りには、眼に見えない壁が、想像された部屋の形に従って場所を変えながら、闇のなかに旋回し続ける。……私の体、私の下にしている脇腹は、私の心のどうしても忘れえない過去を忠実に覚えていて、細い鎖で天井に吊した壺形のボヘミヤ硝子の豆ランプの焔や、シェナ大理石のストオブを私に思い起させた。それはコンブレエの私の寝台、祖父たちの家での遠い昔のことで、今ははっきり心に思い浮べないで、現在のことのように思っているが、やがてすっかり眼が覚めたなら昔のことだったとよく分ることでもあろう。
(淀野・佐藤共訳)
 これは、マルセル・プルーストの小説「失いし時を索めて」の一節である。そしてこの主人公「私」は、体の持ってる記憶からばかりでなく、一杯の茶の香りからさえ追憶の連想によって、昔から今までのさまざまなことを意識の表面によび戻して、それをじいっと考え続けるのである。一人の少女に出逢ってから、それに初めて言葉をかけるまでの間に、百ページを満たすだけのいろんなことを考える。しかもその百ページは、愛についての考察ではなくて、あらゆる雑多な事柄の堆積である。彼は内部世界の深淵から、記憶の連鎖をたどって、あらゆるものを掬い上げてくる。そしてその「私」は自我ではなくて、私であると共に宇宙全体なのだ。
 吾々が普通に「私」と称するものは――自我は――局限された狭い小さなものに過ぎない。その局限を取除いて、あらゆる場合に「私は」というところの「私」にまで到達すると、その「私」なるものは、過去現在を包容し、意識の世界ばかりでなく、潜在意識の世界をも包容し、内部世界と外部世界とを一色に塗って宇宙的に拡大される。その拡大された「私」のなかのあらゆる事象を、取捨選択することなく、そのまま書き誌していったのが、プルーストの小説である。
 吾々は潜在意識或は無意識の世界に沈んでるものを文字に書き現わすことは出来ない。書き現わせるのは意識の世界に浮ぶことだけである。そして小説的な構想を拒け、理論的な取捨選択を拒け、意識の世界のことをその本来の姿のままに描こうとするに当って、プルーストは主に記憶の連鎖をたどっていった。がジェームズ・ジョイスは、意識の動きを直接に跡づけようとした。「意識の流れ」をじかにたどろうとした。
 彼はドーセット通りを歩いて帰った、むつかしい顔をして(包紙を)読みながら。アジェンダス・ネタイム……拓殖会社……。彼は鉄色の炎熱に霞んだ家畜を視た。銀色の粉末を振りかけた橄欖樹。静かな長い日……刈り込まれて成熟していく。オリーヴは瓶詰にするのだろうな? 家には、アンドルーズの店から買ったのが二つ三つ残っている。モリはあれを吐き出すんだ。今ではオリーヴの味が分るらしい。オレンジは薄紙に包んで枝編み籠に入れて荷造りされる。シトロンも同様だ。あのシトロン君はまだ聖ケヴィンズ・パレードに達者で勤めているかしら? またあの古めかしい琵琶を持ってるマスティアンスキ。あのころの俺達は楽しい夕を過したものだ。シトロン君の籐椅子に腰掛けたモリ。手に持つのはいい気持だ、冷たい蝋のような果物、手に持って、それを鼻孔の方へ持っていって芳香を嗅ぐ。あれみたいだ、あの豊かな甘美な野生的な匂い。何時も変らない、来る年も来る年も。それに高価に売れるんだとモイゼルが俺に話した。アービュタス・ブレース……ブレザンツ街……愉しい昔。瑕一つあってもいけないと彼は言った。遙々とやってくる……スペインはジブラルタル、地中海、レヴァント。ジャファの波止場には枝編み籠が整列している、一人の若い男がそれを勘定しながら帳合せをしている、汚いダンガリ製のズボンをはいた仲仕どもがそれを積み込んでいる。おや、何とかいった野郎が出て来たぜ。お早う! 気がつかない。ほんの挨拶をする位の知合というものは少々うるさいもんだ。奴の後姿はあのノルウェーの船長に似ている。今日奴に会うのかな。撒水車。わざと雨を呼び出そうとするようなもんだ。天になる如く地にもならせ給え、か。
(森田草平ほか五氏共訳)

 これは「ユリシーズ」の一節である。そしてこの小説が、ホーマーの「オディッセー」から骨組を取ってきたことや、ダブリン市における一小市民の一日の経験記録にすぎないことや、しかも二十世紀の各種の思想や世相や性格の圧縮図であることなどは、ここでは大した問題ではない。重要なことは、行文の紛糾錯雑を顧みずに作者が「意識の流れ」をじかにたどろうとした企図、全く句読点のない文句の連続――観念の連続――の四十頁を最後に必要とした態度である。
 以上述べたような――その例を外国にばかりとらねばならなかったことを私は遺憾に思うのであるが――いろいろな主張や作品は、文芸に新らしい領土を開拓した。これまでの文芸は、人間の行動を主にその対象としていた。心理解剖でさえも、全く行動の説明のためのものであった。然るに新らしい心理探求は、人間の内部の世界――精神の世界――の広大さを発見して、写実主義或は自然主義が外部を描写しようとしたように、その内部世界を描写しようと試みる。いわば、外部の現実のほかに精神内部の現実を発見して、それを如実に描写しようというのである。
 ところで、この新らしい描写の対象となる精神の内部世界――意識の世界――は、広く深い潜在意識或は無意識の海洋に浮かんでる一小島に過ぎないし、それ自身錯雑を極め変転限りないものであるから、随ってその描写も理路整然たることは不可能である。
 この方向を辿る時、小説はおのずから解体され、その様式は破壊される。在来の小説という概念にあてはまらない作品が生れてくる。プルーストの「失いし時を索めて」やジョイスの「ユリシーズ」などはその例である。
 小説の様式を破壊し、小説という概念から脱却して、新らしい作品を生むということは、むしろ喜ぶべきことである。ただここに一つの疑問が残されている。精神世界の現実を如実に描写することが――時間的、空間的制約を受ける文字によって描写することが、果して可能であるか否か?
 吾々の意識のなかにおける物象の去来には特殊の速度と過程とがある。例えば或る一つの顔を思い浮べる時、その眼や鼻や口などの相貌が、殆ど同時的といってもよいくらいに意識に上ってくる。或はまた、そういう個々の点のいずれかだけが、全部を支配しながら固定することもある。或はまた、ただ漠然とした全体の感じだけが然も明確に現われることもある。なお、そういう顔の意識が幾つも重なり合うこともある。また他のものと奇怪な関連をなすこともある。夢の世界の不可思議も人の知る通りである。そういう意識の世界を、或は意識の流れを、一字一字連ねてゆく文字による表現で、どうして描き出すことが出来るであろうか。
 出来るというのは、ただ比較的なことである。そして或る程度の取捨選択と整理とが、必ずなされなければならない。それが多くなされるか少くなされるか、ただ比較的なことである。
 文芸の新らしい領土は発見された。それを如何にして開拓するかは、今後に残された問題である。今までなされたことは、特殊な才能による特殊な試みに過ぎない。しかも、個人主義的な立場からなされた試みに過ぎない。近代になって、社会的な見方が文芸のなかにも取入れられた。そしてこの見方からも、問題を再検討してみる必要がある。

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