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炭焼のむすめ(すみやきのむすめ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 7:17:50  点击:  切换到繁體中文


     四

 六日目は谷もをはりの日である。此日は極めてはやく行つた。自分は既に八瀬尾の谷を辭する積りであつたがお秋さんが自分の爲めに特に醋酸曹達を造つて見せるといふ事であつたから一日延すことにしたのである。お秋さんはもう仕事場に仕度をして居る。爺さんは爐の側であつたが何か冴えない顏である。聞いて見ると小さな變事が起つたのだ。それは琉璃の子が一匹殘りに居なくなつたといふ事なのである。夜明に蛇が來たに違ひない。昨日籠へ取らうと思つて居たのに少しの油斷でいまいましいことをしたとしをれる。親鳥は低い木の枝に止つてまだ騷ぎがやまない。怒を含んだ形であらうか、上へ反らした尾を左右へ動かして居る。鶺鴒せきれいまでが小さな聲で鳴きまはつて居る。
 此日は忙しくないと見えて爺さんは爐の側に居て種々な雜談を仕掛ける。何時か琉璃の方は忘れて山口屋の風呂は世間に二つはあるまいといふ樣なことをいつて笑ふ。自分の宿のかみさんといふのは、大氣違で、犬に床まで敷いてやるといふ位な變な人間であるから風呂までが變つて居るといふ譯ではあるまいが兎に角變つて居るのである。表の障子は崖と相對して崖には洞穴ほらあながある。風呂は其洞穴の中だ。宿の女に案内されて闇い所へ這入つた時は妙な心持であつた。着物を脱げといはれて見ると板の間がある。ぼんやりながら段々に物が見えて來るといふわけで、六疊間位にり拔いてあるのが焚火のすすで餘計に闇くなつて居るのだ。誰でもはじめは妙な心持がするであらう。
 お秋さんの造つた曹達は純白雪の如き結晶である。これは食料の醋酸を造る原料である。下手がやると醤油のやうな色になることがある相だ。曹達を造つたら暇に成つたと見えて小屋へ來て腰を掛けた。手拭を外した所を見ると髮はぐるぐる卷で、今日は珊瑚さんごのやうな赤い玉のかんざしを一本※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して居る。自分は考へた。お秋さんはまだ年が若いのであるに草履拵で毎日々々仕事に日を暮して居るのである。欲しいものがあつたとて此狹い谷底にばかり住んで居る身に何の役に立たう。手拭だけが身だしなみである。白い手拭は平生に於ける唯一の裝飾品である。仕事といふのが隨分骨が折れる。薪を採つてそれを眞木割まきわりで裂いて干して置く。石灰に塊があれば臼でいて置く。忙しい暇には炭俵を坂の中途の小屋まで背負ひあげる。醋酸石灰でも曹達でも特別の技倆があるので其製品は名人で賣り出されて居るのであるが、一日の給料といつたら僅に二十錢に過ぎない。それで老父を助けて忠實に勞働して居るのである。お秋さんは鼻筋のたしかな稀な女である。然し世間の若い女の心に滿足と思はるべきことは一つも備はつてない。かう思ふと何となく同情の念が思はず起るのである。
 自分がいとまを告げて出たらお秋さんは背負子しよひこを負うて坂の中途まで行つて居た。坂を登らうとする時白は追ひ返されて降りて來た。自分は忽ちに追ひついた。さうしてお秋さんは何處まで行くのか知らんが、歩かれるだけ一所に歩く積りで成るべく靜に足を運んだ。お秋さんは「私と一所では暇がとれて迷惑でございませう」といつて頻りに急ぐ。身一つでも容易でないのに能くも足がつゞくものだと思つた。「此所へ鹿が立つて居たことがあります」と杉の木の下でいつた。そこには刺がびつしり生えて白い花のさいた極めて小さな木があつた。眞赤な枸杞くこの實のやうなのがたつた一つ落ち殘つて居る。珍らしいから一枝折つたら「ありどほしの花でございます」とお秋さんが又いつた。坂を登り切つたら流石さすがに息苦し相に胡蝶花しやがの花の疎らな草の中へ荷を卸した。背負子を負ふために殊更小さな綿入のちやんちやんを引つ掛けたので體が何時もより小柄に見えた。手拭をとつたら顏が赤らんで生え際には汗がにじんで居た。うららかな日に幾らかの仕事をしてぽつとほてつて來た時は肌の色の美しさが増さるのである。白いものは殊更に白く見える。「あれこんな所に藤の花が」と樅の木を見てお秋さんがいつた。藤は散つたのもあつて房はもう延び切つてゐる。
 樟の大木がおほひかぶさつて落葉の散つてある所を出拔けると豁然くわつぜんとして來る。兩方が溪谷で一條の林道は馬の背を行く樣なものだ。兩側には樅の木の板がならべて干してある。いくらかの臭みはあるが眞白な板は見るから爽かな感じである。足もとから谷へ連つて胡蝶花しやがの花がびつしりと咲いて居る。「あなた一寸待つて下さい」といはれて振り返ると「大層臭いやうですがアルコールはこぼれはしますまいか」といふのである。背中のかめの中には木醋から採つたアルコールが入れてあつたので、體の搖れる度にいくらかづつ吹き出すのであつた。お秋さんは右の手を拔いて左の肩で背負子を支へて左の膝を曲げてそつと地上へ卸した。持つてゐて呉れといふので自分は背負子を支へてゐる。一寸引つ立てて見たら重いのに喫驚びつくりした。お秋さんは手頃の石を見付けて來て栓を叩き込んだ。
 小さな山々が限りもなくうねうねと連つて居る。格外の高低もない。峰から峰へ一つ一つ飛び越して見たいと思ふ程一帶に見える。渺茫べうばうたる海洋は夏霞が淡く棚曳いたといふ程ではないがいくらかどんよりとして唯一抹である。じつと見て居ると何處からか胡粉ごふんを落したといふ樣にぽちつと白いものが見え出した。漁舟である。二つも三つも見え出した。白帆はもとからそこにあつたのだ。尚じつと見つめて居るとぽちつと白いのが段々自分へせまつて來るやうに思はれる。遠くはすべてがぼんやりである。谷の梢や胡蝶花の花や樅の眞白な板や近いものは近いだけ鮮かである。さうして最も近いものはお秋さんである。お秋さんは背負子を岩の上に乘せてくるりと背中を向けて背負つた。
 妙見越めうけんごえを過ぎると頂上で、杉の大木が密生して居る。そこにも羊齒しだや笹の疎らな間にほつほつと胡蝶花の花がさいて居る。一層しをらしく見える。清澄寺の山門まで來ると山稼ぎの女が樅板を負うたのや炭俵を負うたのが五六人で休んで居る。いづれも恐ろしい相形さうぎやうである。山稼ぎの女はいくらあるか知れぬがお秋さん程のものは甞て似たものさへも見ないのである。彼等とならんだお秋さんはあたか羊齒しだの中の胡蝶花の花である。寺の見收めといふ積りで山門をのぞいて見たら石垣の上の一うねの茶の木を白衣の所化しよけが二人で摘んで居る所であつた。山門の前には茶店が相接して居る。自分は一足さきに出拔けて振り返つて見たらお秋さんは背負子を負うた儘婆さん達に取り卷かれて話をして居る。たまたま谷底から出て來ると互に珍らしいのだ。つかまへて放されないのだらうと思つた。お秋さんは人に好かれるといふのは極つて居ることなのだ。自分は規則正しく植ゑられた櫻の木の青葉の蔭にたゝずんで待つて見たがどういふものかお秋さんは遂に來ない。然し茶店まで戻つて見るといふこともしえなかつた。自分は急に油が拔けたやうな寂しい心持になつて宿へ歸つた。
 清澄山は自分にはすべてが滿足であつた。然しお秋さんと言葉を交して別れなかつたことはどうしても遺憾である。針へ通した絲のうらを結ばないやうな感じである。

(明治卅九年七月)





底本:「現代日本文学全集6 正岡子規 伊藤左千夫 長塚節集」筑摩書房
   1956(昭和31年)6月15日発行
初出:「馬醉木」
   1906(明治39)年7月
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2001年9月6日公開
2006年1月26日修正
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