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人生(じんせい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 8:56:11  点击:  切换到繁體中文

くうくわくして居るこれを物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、なほ麕身きんしん牛尾ぎうび馬蹄ばていのものを捉へてきりんといふが如し、かく定義を下せば、すこぶる六つかしけれど、是を平仮名ひらがなにて翻訳すれば、先づ地震、雷、火事、おやぢの怖きを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷義理のしがらみなどいふ意味を合点がてんし、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくゞるのいひに過ぎず、たゞ其謂に過ぎずと観ずれば、遭逢さうほう百端ひやくたん千差万別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百万人またおの/\千百万人の生涯を有す、故に無事なるものは午砲を聞きて昼飯を食ひ、忙しきものは孔席こうせきあたゝかならず、墨突ぼくとつけんせずとも云ひ、変化の多きは塞翁さいをうの馬に※(「迚-中」、第4水準2-89-74)しんにうをかけたるが如く、不平なるは放たれて沢畔たくはんに吟じ、壮烈なるは匕首ひしゅふところにして不測のしんに入り、頑固なるは首陽山のわらびに余命をつなぎ、世を茶にしたるは竹林にひげひねり、図太づぶときは南禅寺の山門に昼寝して王法をおそれず、一々数へ来れば日も亦足らず、中々錯雑なものなり、加之のみならず個人の一行一為、各其る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るはやいばを加ふると等しからず、故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は又直接ともなる、之を分類するだに相応の手数はかゝるべし、して国に言語の相違あり、人に上下の区別ありて、同一の事物も種々の記号を有して、吾人ごじんの面目を燎爛れうらんせんとするこそます/\面倒なれ、比較するだにかしこけれど、万乗には之を崩御ほうぎよといひ、匹夫ひつぷには之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、しかも死はすなはち一なるが如し、し人生をとつて銖分縷析しゆぶんるせきするを得ば、天上の星といそ真砂まさごの数も容易に計算し得べし
 小説は此錯雑なる人生の一側面を写すものなり、一側面なほかつ単純ならず、去れども写してしんに入るときは、事物の紛糾ふんきう乱雑なるものを綜合して一の哲理を数ふるに足る、われ「エリオツト」の小説を読んで天性の悪人なき事を知りぬ、又罪を犯すもののゆるすべくして且あはれむべきを知りぬ、一挙手一投足わが運命に関係あるを知りぬ、「サツカレー」の小説を読んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、狡猾かうくわつ奸佞かんねいなるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、「ブロンテ」の小説を読んで人に感応あることを知りぬ、けだし小説に境遇を叙するものあり、品性を写すものあり、心理上の解剖を試むるものあり、直覚的に人世を観破するものあり、四者各其方面に向つて吾人に教ふる所なきにあらず、然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず、又直覚を以て観破しおほすべきにあらず、われは人生に於て是等これら以外に一種不可思議のものあるべきを信ず、所謂いはゆる不可思議とは「カツスル、オフ、オトラントー」の中の出来事にあらず、「タムオーシヤンター」をおひけたる妖怪にあらず、「マクベス」の眼前にあらはるゝ幽霊にあらず、「ホーソーン」の文「コルリツヂ」の詩中に入るべき人物のいひにあらず、われ手を振り目をうごかして、而も其の何の故に手を振り目を揺かすかを知らず、因果の大法をないがしろにし、自己の意思を離れ、卒然として起り、驀地ばくちに来るものをふ、世俗之を名づけて狂気と呼ぶ、狂気と呼ぶもとより不可なし、去れども此種の所為を目して狂気となす者共は、他人に対してかゝる不敬の称号を呈するにさきだつて、己等おのれらかつて狂気せる事あるを自認せざるからず、又何時いつにても狂気し得る資格を有する動物なる事を承知せざるべからず、人あに自ら知らざらんやとは支那の豪傑の語なり、人々自ら知らばもとより文句はなきなり、人を指して馬鹿といふ、是れ己が利口なるの時に於て発するの批評なり、己も亦何時にても馬鹿の仲間入りをするに充分なる可能力を具備するに気が付かぬものの批評なり、局に当る者は迷ひ、傍観するものはわらふ、而も傍観者必ずしもを能くせざるを如何いかんせん、自ら知るの明あるものすくなしとは世間にて云ふ事なり、われは人間に自知の明なき事を断言せんとす、之を「ポー」に聞く、いはく、功名眼前にあり、人々何ぞ直ちに自己の胸臆を叙して思ひのまゝを言はざる、去れど人ありておもひまゝを書かんとして筆をれば、筆忽ち禿とくし、紙をぶれば紙忽ち縮む、芳声はうせい嘉誉かよの手につばして得らるべきを知りながら、何人なんびと※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)ちゆうちよして果たさざるは是が為なりと、人あに自ら知らざらんや、「ポー」の言を反覆熟読せば、思なかばに過ぎん、けだし人は夢を見るものなり、思ひも寄らぬ夢を見るものなり、覚めて後冷汗背にあまねく、茫然自失する事あるものなり、夢ならばと一笑に附し去るものは、一を知つて二を知らぬものなり、夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞に来るものにあらず、青天にも白日にも来り、大道の真中にても来り、衣冠束帯の折だに容赦なくたつを排して闖入ちんにふし来る、機微の際忽然こつぜんとして吾人を愧死きしせしめて、其来る所もとより知り得べからず、其去る所亦尋ね難し、而も人生の真相は半ば此夢中にあつて隠約たるものなり、此自己の真相を発揮するは即ち名誉を得るの捷径せふけいにして、此捷径に従ふは卑怯ひけふなる人類にとりて無上の難関なり、願はくば人あに自ら知らざらんやなどいふものをして、誠実に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん
 三陸の海嘯つなみ濃尾のうびの地震之を称して天災といふ、天災とは人意の如何いかんともすべからざるもの、人間の行為は良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、一挙一動皆責任あり、もとより洪水こうずゐ飢饉ききんと日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不断の主権者にあらず、四肢しし必ずしも吾意思の欲する所に従はず、一朝の変俄然がぜんとして己霊の光輝を失して、奈落ならくに陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、是時このときあたつて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、若し海嘯地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法ぢやうはふなり、されども自ら死を決して人を殺すものはすくなし、呼息せま白刃はくじんひらめく此刹那せつな、既に身あるを知らず、いづくんぞ敵あるを知らんや、電光影裡えいりに春風をるものは、人意かた天意か
 青門老圃らうほひとり一室の中に坐し、冥思めいし遐捜かさうす、両頬せきを発し火の如く、喉間こうかん咯々かく/\声あるに至る、稿をしょくし日を積まざれば出でず、思を構ふるの時にあたつて大苦あるものの如し、既に来れば則ち大喜、衣をき、床をめぐりて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊はいくわいす、或は呻吟しんぎんし、或は低唱す、忽ちにして大声放歌欷歔ききょ涙下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーション」といふ、「インスピレーション」とは人意かた天意か
 「デクインシー」曰く、世には人心の如何いかに善にして、又如何に悪なるかを知らで過ぐるものありと、他人の身の上ならば無論の事なり、われは「デクインシー」に反問せん、君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の悪人たるを承知なるかと、あにたゞ善悪のみならん、怯勇けふゆう剛弱高下の分、皆此反問中に入るを得べし、平かなるときは天落ち地欠くるとも驚かじと思へども、一旦事あれば鼠糞そふん梁上りやうじやうよりちてだに消魂の種となる、自ら口惜しと思へどせんなし、源氏征討の宣旨せんじかうむりて、遥々はる/″\富士川迄押し寄せたる七万余騎の大軍が、水鳥の羽音に一矢いつしも射らで逃げ帰るとは、平家物語を読むものの馬鹿々々しと思ふ処ならん、たゞに後代の吾々が馬鹿々々しと思ふのみにあらず、当人たる平家の侍共さむらひどもも翌日は定めて口惜しと思ひつらん、去れども彼等は富士川に宿したる晩に限りて、急に揃ひも揃うて臆病風にかゝりたるなり、此臆病風は二十三日の半夜忽然吹き来りて、七万余騎の陣中をめぐり、翌くる二十四日の暁天に至りてせきとしてみぬ、誰か此風の行衛ゆくゑを知る者ぞ
 犬にえ付かれて、てな己は泥棒かしらん、と結論するものは余程の馬鹿者か、非常な狼狽者あわてものと勘定するを得べし、去れども世間には賢者を以て自ら居り、智者を以て人より目せらるゝもの、亦此病にかかることあり、大丈夫と威張るものの最後の場に臆したる、卑怯ひけふの名を博したるものが、急に猛烈の勢を示せる、皆是れ自ら解釈せんと欲して能はざるの現象なり、いはんや他人をや、二点を求め得て之を通過する直線の方向を知るとは幾何学きかがく上の事、吾人ごじんの行為は二点を知り三点を知り、重ねて百点に至るとも、人生の方向を定むるに足らず、人生は一個の理窟にまとめ得るものにあらずして、小説は一個の理窟を暗示するに過ぎざる以上は、「サイン」「コサイン」を使用して三角形の高さを測ると一般なり、吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何いかんせん、し人生が数学的に説明し得るならば、若し与へられたる材料よりXなる人生が発見せらるゝならば、若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なくかつ乱暴に出で来る、海嘯と震災は、たゞに三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田たんでん中にあり、険呑けんのんなるかな

(明治二十九年十月、第五高等学校『竜南会雑誌』)





底本:「現代日本文學大系17 夏目漱石集(一)」筑摩書房
   1968(昭和43)年10月25日
入力:柿澤早苗
校正:伊藤時也
2000年2月4日公開
2004年2月27日修正
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。


 

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