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中味と形式(なかみとけいしき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:06:37  点击:  切换到繁體中文


 ここに学者なるものがあって、突然声を大にして、それは明かに矛盾である、どっちか一方が善くって一方が悪いにきまっている、あるいは一方が一方より小さくて一方が大きいに違いないから、一纏(ひとまと)めにしてモッと大きなもので括(くく)らなければならないと云ったならば、この学者は統一好きな学者の精神はあるにもかかわらず、実際には疎(うと)い人と云わなければならない。現にオイケンと云う人の著述を数多くは読んでおりませんが、私の読んだ限りで云えば、こんな非難を加えることができるようにも思います。こう論じてくると何だか学者は無用の長物のようにも見えるでしょうが私はけっしてそんな過激の説を抱(いだ)いているものではありません。学者は無論有益のものであります。学者のやる統一、概括と云うものの御蔭(おかげ)で我々は日常どのくらい便宜(べんぎ)を得ているか分りません。前に挙(あ)げた進化論と云う三字の言葉だけでも大変重宝なものであります。しかしながら彼ら学者にはすべてを統一したいという念が強いために、出来得る限り何(なん)でもかでも統一しようとあせる結果、また学者の常態として冷然たる傍観者の地位に立つ場合が多いため、ただ形式だけの統一で中味の統一にも何にもならない纏(まと)め方(かた)をして得意になる事も少なくないのは争うべからざる事実であると私は断言したいのです。
 冷然たる傍観者の態度がなぜにこの弊を醸(かも)すかとの御質問があるなら私はこう説明したい。ちょっと考えると、彼らは常人より判明(はっきり)した頭をもって、普通の者より根気強く、しっかり考えるのだから彼らの纏(まと)めたものに間違はないはずだと、こういうことになりますが、彼らは彼らの取扱う材料から一歩退(しりぞ)いて佇立(たたず)む癖がある。云い換えれば研究の対象をどこまでも自分から離して眼の前に置こうとする。徹頭徹尾観察者である。観察者である以上は相手と同化する事はほとんど望めない。相手を研究し相手を知るというのは離れて知るの意でその物になりすましてこれを体得するのとは全く趣が違う。幾ら科学者が綿密に自然を研究したって、必竟(ひっきょう)ずるに自然は元の自然で自分も元の自分で、けっして自分が自然に変化する時期が来ないごとく、哲学者の研究もまた永久局外者としての研究で当の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしていない場合が多い。学校の倫理の先生が幾ら偉い事を言ったって、つまり生徒は生徒、自分は自分と離れているから生徒の動作だけを形式的に研究する事はできても、事実生徒になって考える事は覚束(おぼつか)ないのと一般である。傍観者と云うものは岡目八目とも云い、当局者は迷うと云う諺(ことわざ)さえあるくらいだから、冷静に構える便宜があって観察する事物がよく分る地位には違ありませんが、その分り方は要するに自分の事が自分に分るのとは大いに趣を異にしている。こういう分り方で纏(まと)め上げたものは器械的に流れやすいのは当然でありましょう。換言すれば形式の上ではよく纏まるけれども、中味から云うといっこう纏っていないというような場合が出て来るのであります。がつまり外からして観察をして相手を離れてその形をきめるだけで内部へ入り込んでその裏面の活動からして自(おのず)から出る形式を捉(とら)え得ないという事になるのです。
 これに反して自(みず)から活動しているものはその活動の形式が明かに自分の頭に纏って出て来ないかも知れない代りに、観察者の態度を維持しがちの学者のように表面上の矛盾などを無理に纏めようとする弊害には陥る憂(うれい)がない。さきほどオイケンの批評をやって形式上の矛盾を中味の矛盾と取り違えて是非纏めようとするは迂濶(うかつ)だと云って非難しましたが、あの例にしてからが、もしオイケン自身がこの矛盾のごとく見える生活の両面を親しく体現して、一方では秩序を重んじ一方では開放の必要を同時に感じていたならば、たとい形式上こういう結論に到着したところで、どうも変だどこかに手落があるはずだとまず自(みず)から疑いを起して内省もし得たろうと思うのです。いくら哲学的でも、概括的でも、自分の生活に親しみのない以上は、この概括をあえてすると同時にハテおかしいぞ変だなと勘づかなければなりません。勘づいて内省の結果だんだん分解の歩を進めて見ると、なるほど形式の方にはそれだけの手落があり、抜目があると云うことが判然して来るべきです。だからして中味を持っているものすなわち実生活の経験を甞(な)めているものはその実生活がいかなる形式になるかよく考える暇さえないかも知れないけれども、内容だけはたしかに体得しているし、また外形を纏める人は、誠に綺麗(きれい)に手際(てぎわ)よく纏めるかも知れぬけれども、どこかに手落があり勝である。ちょうど文法というものを中学の生徒などが習いますが、文法を習ったからといってそれがため会話が上手にはなれず、文法は不得意でも話は達者にもやれる通弁などいうものもあって、その方が実際役に立つと同じ事です。同じような例ですが歌を作る規則を知っているから、和歌が上手だと云ったらおかしいでしょう、上手の作った歌がその内に自然と歌の規則を含んでいるのでしょう。文法家に名文家なく、歌の規則などを研究する人に歌人が乏しいとはよく人のいうところですが、もしそうするとせっかく拵(こしら)えた文法に妙に融通の利(き)かない杓子定規(しゃくしじょうぎ)のところができたり、また苦心して纏めた歌の法則も時には好い歌を殺す道具になるように、実地の生活の波濤(はとう)をもぐって来ない学者の概括は中味の性質に頓着(とんじゃく)なくただ形式的に纏めたような弱点が出てくるのもやむをえない訳であります。なおこの理を適切に申しますと、幾ら形と云うものがはっきり頭に分っておっても、どれほどこうならなければならぬという確信があっても、単に形式の上でのみ纏っているだけで、事実それを実現して見ないときには、いつでも不安心のものであります。それはあなた方(がた)の御経験でも分りましょう。四五年前日露戦争と云うものがありました。露西亜(ロシア)と日本とどっちが勝つかというずいぶんな大戦争でありました。日本の国是(こくぜ)はつまり開戦説で、とうとうあの露西亜と戦をして勝ちましたが、あの戦を開いたのはけっして無謀にやったのではありますまい。必ず相当の論拠があり、研究もあって、露西亜の兵隊が何万満洲へ繰出(くりだ)すうちには、日本ではこれだけ繰出せるとか、あるいは大砲は何門あるとか、兵糧(ひょうりょう)はどのくらいあるとか、軍資はどのくらいであるとかたいていの見込は立てたものでありましょう。見込が立たなければ戦争などはできるはずのものではありません。がその戦争をやる前、やる間際(まぎわ)、及びやりつつある間、どのくらい心配をしたか分らない。と云うのはいかに見込のちゃんと明かに立ったものにせよただ形式の上で纏(まとま)っただけでは不安でたまらないのであります。当初の計画通りを実行してそうして旨(うま)く見込に違わない成績をふり返って見て、なるほどと始めて合点(がてん)して納得(なっとく)の行ったような顔をするのは、いくら綺麗(きれい)に形だけが纏っていても実際の経験がそれを証拠立ててくれない以上は大いに心細いのであります。つまり外形というものはそれほどの強味がないという事に帰着するのです。近頃流行(はや)る飛行機でもその通りで、いろいろ学理的に考えた結果、こういう風(ふう)に羽翼(うよく)を附けてこういうように飛ばせば飛ばぬはずはないと見込がついた上でさて雛形(ひながた)を拵(こしら)えて飛ばして見ればはたして飛ぶ。飛ぶことは飛ぶので一応安心はするようなもののそれに自分が乗っていざという時飛べるかどうかとなると飛んで見ないうちはやっぱり不安心だろうと思います。学理通り飛行機が自分を乗せて動いてくれたところで、始めて形式に中味がピッタリ喰っついている事を証明するのだから、経験の裏書を得ない形式はいくら頭の中で完備していると認められても不完全な感じを与えるのであります。
 して見ると、要するに形式は内容のための形式であって、形式のために内容ができるのではないと云う訳になる。もう一歩進めて云いますと、内容が変れば外形と云うものは自然の勢いで変って来なければならぬという理窟(りくつ)にもなる。傍観者の態度に甘んずる学者の局外の観察から成る規則法則乃至(ないし)すべての形式や型のために我々生活の内容が構造されるとなると少しく筋が逆になるので、我々の実際生活がむしろ彼ら学者(時によれば法律家と云っても政治家といっても教育家と云っても構いません。とにかく学者的態度で観察一方から形式を整える方面の人を指すのです)に向って研究の材料を与えその結果として一種の形式を彼らが抽象する事ができるのです。その形式が未来の実施上参考にならんとは限らんけれども本来から云えばどうしてもこれが原則でなければならない。しかるに今この順序主客を逆(さかさ)まにしてあらかじめ一種の形式を事実より前に備えておいて、その形式から我々の生活を割出そうとするならば、ある場合にはそこに大変な無理が出なければならない。しかもその無理を遂行しようとすれば、学校なら騒動が起る、一国では革命が起る。政治にせよ教育にせよあるいは会社にせよ、わが朝日社のごとき新聞にあってすらそうである。だから世間でもそう規則ずくめにされちゃたまらないとよく云います。規則や形式が悪いのじゃない。その規則をあてはめられる人間の内面生活は自然に一つの規則を布衍(ふえん)している事は前(ぜん)申し上げた説明ですでに明かな事実なのだから、その内面生活と根本義において牴触(ていしょく)しない規則を抽象して標榜(ひょうぼう)しなくては長持がしない。いたずらに外部から観察して綺麗(きれい)に纏(まと)め上げた規則をさし突けてこれは学者の拵(こしら)えたものだから間違はないと思ってはかえって間違になるのです。
 お前の云う通りにすると、大変おかしいことがある。例えて見れば芝居の型だ。また音楽の型とも云うべき譜である。または謡曲のごま節や何かのようなものである。これらにはすべて一定の型があって、その形式をまず手本にしてかえって形式の内容をかたちづくる声とか身ぶりとか云う方をこの型にあて嵌(はま)るように拵(こし)らえて行くではないか。そうしてその声なり身ぶりなりが自然と安らかに毫(ごう)も不満を感ぜずに示された型通り旨(うま)く合うように練習の結果としてできるではないか。あるいは旧派の芝居を見ても、能の仕草を見ても、ここで足をこのくらい前へ出すとか、また手をこのくらい上へ挙(あ)げると一々型の通りにして、しかも自分の活力をそこに打込んで少しも困らないではないか。型を手本に与えておいてその中に精神を打ち込んで働けない法はない。とこういう人があるかも知れない。けれどもこういう場合にはこの型なり形式なりの盛らるべき実質、すなわち音楽で云えば声、芝居で云えば手足などだが、これらの実質はいつも一様に働き得る、いわば変化のないものと見ての話であります。もし形式の中に盛らるべき内容の性質に変化を来すならば、昔の型が今日の型として行わるべきはずのものではない、昔の譜が今日に通用して行くはずはないのであります。例えて見れば人間の声が鳥の声に変化したらどうしたって今日(こんにち)までの音楽の譜は通用しない。四肢胸腰(ししきょうよう)の運動だっても人間の体質や構造に今までとは違ったところができて筋肉の働き方が一筋間違ってきたって、従来の能の型などは崩(くず)れなければならないでしょう。人間の思想やその思想に伴って推移する感情も石や土と同じように、古今永久変らないものと看做(みな)したなら一定不変の型の中に押込めて教育する事もできるし支配する事も容易でしょう。現に封建時代の平民と云うものが、どのくらい長い間一種の型の中に窮屈に身を縮(ちぢ)めて、辛抱しつつ、これは自分の天性に合った型だと認めておったか知れません。仏蘭西(フランス)の革命の時に、バステユと云う牢屋を打壊(うちこわ)して中から罪人を引出してやったら、喜こぶと思いのほか、かえって日の眼を見るのを恐れて、依然として暗い中に這入(はい)っていたがったという話があります。ちょっとおかしな話であるが、日本でも乞食を三日すれば忘れられないと云いますからあるいは本当かも知れません。乞食の型とか牢屋の型とか云うのも妙な言葉ですが、長い年月の間には人間本来の傾向もそういう風に矯(た)めることができないとも限りません。こんな例ばかり見れば既成の型でどこまでも押して行けるという結論にもなりましょうが、それならなぜ徳川氏が亡(ほろ)びて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒(こば)むからなんでしょう。なるほど一時は在来の型で抑(おさ)えられるかも知れないが、どうしたって内容に伴(つ)れ添(そ)わない形式はいつか爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思う。
 元来この型そのものが、何のために存在の権利を持っているかというと、前にもお話した通り内容実質を内面の生活上経験することができないにもかかわらずどうでも纏(まと)めて一括(ひとくく)りにしておきたいという念にほかならんので、会社の決算とか学校の点数と同じように表の上で早呑込(はやのみこみ)をする一種の智識慾、もしくは実際上の便宜のためにほかならんのでありますから、厳密な意味でいうと、型自身が独立して自然に存在する訳のものではない。例えばここに茶碗がある。茶碗の恰好(かっこう)といえば誰にでも分るが、その恰好(かっこう)だけを残して実質を取り去ろうとすれば、とうてい取り去る事はできない。実質を取れば形も無くなってしまう。強(し)いて形を存しようとすればただ想像的な抽象物として頭の中に残っているだけである。ちょうど家を造るために図面を引くと一般で、八畳、十畳、床の間と云うように仕切はついていても図面はどこまでも図面で、家としては存在できないにきまっている。要するに図面は家の形式なのである。したがっていくら形式を拵(こしら)えてもそれを構成する物質次第では思いのままの家はできかぬるかも知れないのです。いわんや活(い)きた人間、変化のある人間と云うものは、そう一定不変の型で支配されるはずがない。政(まつりごと)をなす人とか、教育をする人とかは無論、総(すべ)て多くの人を統御(とうぎょ)していこうと云う人も無論、個人が個人と交渉する場合に在(あ)ってすら型は必要なものである。会う時にお時儀(じぎ)をするとか手を握るとか云う型がなければ、社交は成立しない事さえある。けれども相手が物質でない以上は、すなわち動くものである以上は、種々の変化を受ける以上は、時と場合に応じて無理のない型を拵えてやらなければとうていこっちの要求通りに運ぶ訳のものではない。
 そこで現今日本の社会状態と云うものはどうかと考えてみると目下非常な勢いで変化しつつある。それに伴(つ)れて我々の内面生活と云うものもまた、刻々と非常な勢いで変りつつある。瞬時の休息なく運転しつつ進んでいる。だから今日の社会状態と、二十年前、三十年前の社会状態とは、大変趣きが違っている。違っているからして、我々の内面生活も違っている。すでに内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というものも、自然ズレて来なければならない。もしその形式をズラさないで、元のままに据(す)えておいて、そうしてどこまでもその中に我々のこの変化しつつある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えている。我々が自分の娘もしくは妻に対する関係の上において御維新前と今日とはどのくらい違うかと云うことを、あなた方(がた)が御認めになったならば、この辺の消息はすぐ御分りになるでしょう。要するにかくのごとき社会を総(す)べる形式というものはどうしても変えなければ社会が動いて行かない。乱れる、纏(まと)まらないということに帰着するだろうと思う。自分の妻女に対してさえも前(ぜん)申した通りである。否わが家(や)の下女に対しても昔とは趣きが違うならば、教育者が一般の学生に向い、政府が一般の人民に対するのも無論手心がなければならないはずである。内容の変化に注意もなく頓着(とんじゃく)もなく、一定不変の型を立てて、そうしてその型はただ在来あるからという意味で、またその型を自分が好いているというだけで、そうして傍観者たる学者のような態度をもって、相手の生活の内容に自分が触れることなしに推(お)していったならば危ない。
 一言にして云えば、明治に適切な型というものは、明治の社会的状況、もう少し進んで言うならば、明治の社会的状況を形造るあなた方の心理状態、それにピタリと合うような、無理の最も少ない型でなければならないのです。この頃は個人主義がどうであるとか、自然派の小説がどうであるとか云って、はなはだやかましいけれども、こういう現象が出て来るのは、皆我々の生活の内容が昔と自然に違って来たと云う証拠であって、在来の型と或る意味でどこかしらで衝突するために、昔の型を守ろうと云う人は、それを押潰(おしつぶ)そうとするし、生活の内容に依って自分自身の型を造ろうと云う人は、それに反抗すると云うような場合が大変ありはしないかと思うのです。ちょうど音楽の譜で、声を譜の中に押込めて、声自身がいかに自由に発現しても、その型に背(そむ)かないで行雲流水と同じく極(きわ)めて自然に流れると一般に、我々も一種の型を社会に与えて、その型を社会の人に則(のっと)らしめて、無理がなく行くものか、あるいはここで大いに考えなければならぬものかと云うことは、あなた方の問題でもあり、また一般の人の問題でもあるし、最も多く人を教育する人、最も多く人を支配する人の問題でもある。我々は現に社会の一人である以上、親ともなり子ともなり、朋友(ほうゆう)ともなり、同時に市民であって、政府からも支配され、教育も受けまた或る意味では教育もしなければならない身体(からだ)である。その辺の事をよく考えて、そうして相手の心理状態と自分とピッタリと合せるようにして、傍観者でなく、若い人などの心持にも立入って、その人に適当であり、また自分にももっともだと云うような形式を与えて教育をし、また支配して行かなければならぬ時節ではないかと思われるし、また受身の方から云えばかくのごとき新らしい形式で取扱われなければ一種云うべからざる苦痛を感ずるだろうと考えるのです。
 中味と形式と云うことについて、なぜお話をしたかと云うと、以上のような訳でこの問題について我々が考うべき必要があるように思ったからであります。それを具体的にどう現わしてよいかと云うことは、諸君の御判断であります。下らぬことをだいぶ長く述べ立てまして御気の毒です。だいぶ御疲れでしょう。最後まで静粛に御聴き下すったのは講演者として深く謝するところであります。



底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月に刊行
入力:柴田卓治
校正:大野晋
ファイル作成:野口英司
1999年12月1日公開
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