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博士問題とマードック先生と余(はかせもんだいとマードックせんせいとよ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:12:25  点击:  切换到繁體中文

     上

 が博士に推薦されたという報知が新聞紙上で世間に伝えられたとき、余を知る人のうちの或者あるものは特に書を寄せて余の栄選を祝した。余が博士を辞退した手紙が同じく新聞紙上で発表されたときもまた余は故旧新知こきゅうしんちもしくは未知のあるものからわざわざ賛成同情の意義に富んだ書状を幾通いくつうも受取った。伊予いよにいる一旧友は余が学位を授与されたという通信を読んで賀状を書こうと思っていた所に、辞退の報知を聞いて今度は辞退の方を目出めでたく思ったそうである。もらっても辞してもどっちにしても賀すべき事だというのがこの友の感想であるとかいって来た。そうかと思うと悪戯好いたずらずきの社友は、余が辞退したのを承知の上で、ことさらに余を厭がらせるために、夏目文学博士殿と上書うわがきをした手紙を寄こした。この手紙の内容は御退院を祝すというだけなんだから一行いちぎょうで用が足りている。従って夏目文学博士殿と宛名を書く方が本文よりも少し手数てすうが掛った訳である。
 しかしすべてこれらの手紙は受取る前から予期していなかったと同時に、受取ってもそれほど意外とも感じなかったものばかりである。ただ旧師マードック先生から同じくこの事件について突然封書が届いた時だけは全く驚ろかされた。
 マードック先生とは二十年前に分れたぎり顔を合せた事もなければ信書の往復をした事もない。全くの疎遠そえんで今日まで打ち過ぎたのである。けれどもその当時は毎週五、六時間必ず先生の教場へ出て英語や歴史の授業を受けたばかりでなく、時々は私宅まで押し懸けて行って話を聞いた位親しかったのである。
 先生はもと母国の大学で希臘語ギリシャごの教授をしておられた。それがある事情のため断然英国を後にして単身日本へ来る気になられたので、らの教授を受ける頃は、まだ日本化しない純然たる蘇国語スコットランドごを使って講義やら説明やら談話やらを見境みさかいなくられた。それがため同級生はことごと辟易へきえきていで、ただけむかれるのを生徒のぶんと心得ていた。先生もそれで平気のように見えた。大方どうせこんな下らない事を教えているんだから、生徒なんかに分っても分らなくてもかまわないという気だったのだろう。けれども先生の性質が如何にも淡泊たんぱく丁寧ていねいで、立派な英国風の紳士と極端なボヘミアニズムを合併がっぺいしたような特殊の人格を具えているのに敬服して教授上の苦情をいうものは一人もなかった。
 先生の白襯衣ホワイトシャートを着た所は滅多めったに見る事が出来なかった。大抵はねずみ色のフラネルに風呂敷ふろしきの切れはしのような襟飾ネクタイを結んでましておられた。しかもその風呂敷に似た襟飾ネクタイが時々胴着チョッキの胸から抜け出して風にひらひらするのを見受けた事があった。高等学校の教授が黒いガウンを着出したのはその頃からの事であるが、先生も当時は例の鼠色のフラネルの上へ繻子しゅすか何かのガウンを法衣ころものように羽織はおっていられた。ガウンの袖口には黄色い平打ひらうちひもが、ぐるりと縫い廻してあった。これは装飾のためとも見られるし、または袖口をくくる用意とも受取れた。ただし先生には全く両様の意義を失った紐に過ぎなかった。先生が教場できょうに乗じて自分の面白いと思う問題を講じ出すと、殆んどガウンも鼠の襯衣シャツも忘れてしまう。はてはわがいる所が教場であるという事さえ忘れるらしかった。こんな時には大股おおまたで教壇を下りて余らの前へひげだらけの顔を持ってくる。もし余らの前に欠席者でもあって、一脚の机がいていれば、必ずその上へ腰を掛ける。そうして例のガウンの袖口に着いている黄色い紐を引張って、一尺程の長さをこしらえて置いて、それでぴしゃりぴしゃりと机の上をたたいたものである。
 当時余はほんの小供こどもであったから、先生の学殖がくしょくとか造詣ぞうけいとかを批判する力はまるでなかった。第一先生の使う言葉からが余自身の英語とはすこぶる縁の遠いものであった。それでも余は他の同級生よりも比較的熱心な英語の研究者であったから、分らないながらも出来得る限りの耳と頭を整理して先生の前へ出た。時には先生のうちまでも出掛けた。先生の家は先生のフラネルの襯衣シャツと先生の帽子――先生はくしゃくしゃになった中折帽なかおれぼうに自分勝手に変な鉢巻はちまきを巻き付けてかむっていた事があった。――すべてこれら先生の服装に調和するほどに、先生の生活は単純なものであるらしかった。

       中

 その頃のは西洋の礼式というものを殆んど心得こころえなかったから、訪問時間などという観念を少しもさしはさむ気兼きがねなしに、時ならず先生を襲う不作法ぶさほうを敢てしてはばからなかった。ある日朝早く行くと、先生は丁度朝食あさめししたためている最中であった。家が狭いためか、または余を別室に導く手数てかずを省いたためか、先生は余を自分の食卓の前に坐らして、君はもう飯を食ったかと聞かれた。先生はその時卵のフライを食っていた。なるほど西洋人というものはこんなものを朝食うのかと思って、余はひたすら食事の進行を眺めていた。実は今考えるとその時まで卵のフライというものを味わった事がないような気がする。卵のフライという言葉もそれからずっと後に覚えたように思われる。
 先生はやがて肉刀ナイフ肉匙フォークを中途で置いた。そうして椅子を立ち上がって、書棚の中から黒い表紙の小形の本を出して、そのうちの或頁あるページを朗々と読み始めた。しばらくすると、本をせてどうだと聞かれた。正直の所余には一言ひとことも解らなかったから、一体それは英語ですかと聞いた。すると先生は天来の滑稽を不用意に感得したようにはばかりなく笑い出した。そうしてこれは希臘ギリシャの詩だと答えられた。英国の表現エキスプレッションに、珍紛漢ちんぷんかんの事を、それは希臘語さというのがある。希臘語は彼地かのちでもそれ位ずかしい物にしてあるのだろう。高等学校生徒の余などに解るはずは無論ない。それを何故なぜ先生が読んで聞かせたのかというと、詳しい理由は今思い出せないが、何でも希臘の文学を推称すいしょうした揚句あげくの事ではなかったかと思う。とにかく先生はそういう性質たちの人なのである。
 先生の作った「日本におけるドン・ジュアンの孫」という長詩もたしか聞かされたように思う。けれどもそのうちの或行あるぎょうにアラス、アラック、という感投詞が二つ続いていたと記憶するだけで、あとはまるで忘れてしまった。
 ベインの『論理学』を読めといって先生が貸してくれた事もあった。余はそれを通読するつもりでうちへ持って帰ったが、何分なにぶん課業その他が忙がしいので段々延び延びになって、何時いつまで立っても目的を果し得なかった。ほど経て先生が、久しいぜん君に貸したベインの本は僕の先生の著作だから保存して置きたいから、もし読んでしまったなら返してくれといわれた。その本は大分丹念たんねんに使用したものと見えて裏表うらおもてとも表紙が千切ちぎれていた。それを借りたときにも返した時にも、先生は哲学の方の素養もあるのかと考えて、小供心こどもごころうらやましかった。
 あるときどんな英語の本を読んだらかろうという余の問に応じて、先生は早速さっそく手近にある紙片に、十種ほどの書目しょもくしたためて余に与えられた。余は時を移さずその内の或物を読んだ。即座に手に入らなかったものは、機会を求めて得るたびにこれを読んだ。どうしても眼に触れなかったものは、倫敦ロンドンへ行ったとき買って読んだ。先生の書いてくれた紙片が、余のたもとに落ちてから、約十年の後に余は始めて先生の挙げたすべてを読む事が出来たのである。先生はあの紙片にそれほどの重きを置いていなかったのだろう。凡てを読んでからまた十年も経った今日から見れば、それほど先生の紙片に重きを置いた余の方でも可笑おかしい気がする。

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