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文芸と道徳(ぶんげいとどうとく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:14:59  点击:  切换到繁體中文


 古今道徳の区別はこれで切上げておいて話は突然文芸の方へ移ります。もっとも文芸の方の話をくわしく云うつもりではないから、必要な説明だけにとどめて、ごくざっとしたところを申しますが、近年文芸の方で浪漫主義及び自然主義すなわちロマンチシズムとナチュラリズムという二つの言葉が広く行われて参りました。そうしてこの二つの言葉は文芸界専有の術語でその他の方面には全く融通のかないものであるかのごとく取扱われております。ところが私はこれからこの二つの言葉の意味性質をきわめて簡略に述べて、そうしてそれをぜん申上げた昔と今の道徳に結びつけて両方を綜合そうごうして御覧に入れようと思うのです。つまり浪漫主義も自然主義も文芸家専有の言語ではないという意味が分ればその結果自然の勢いでこれらがまた前説明した二種の道徳と関係して来ると云うのであります。
 この浪漫主義自然主義の文学についてちょっと申上げる前にあらかじめ諸君の御注意をわずらわしておきたい事がありますが、前も御断り申したごとく今日のお話はすべて道徳と文芸との交渉関係でありますから、二種類の文学のうち(ことに浪漫主義の文学のうち)道徳の分子の交って来ないものは頭から取除とりのけて考えていただきたい。それからよし道徳の分子が交っていても倫理的観念が何らの挑撥ちょうはつを受けない――否受け得べからざるていの文学もまた取りけて考えていただきたい。それらを除いた上でこの二種類の文学を見渡して見ると浪漫主義の文学にあってはその中に出てくる人物の行為心術が我々より偉大であるとか、公明であるとか、あるいは感激性に富んでいるとかの点において、読者が倫理的に向上遷善の刺戟しげきを受けるのがその特色になっています。この影響は昔し流行はやった勧善懲悪かんぜんちょうあくという言葉と関係はありますが、けっして同じではない。ずっと高尚の意味で云うのですから誤解のないように願います。また自然主義の文学では人間をそう伝説的の英雄の末孫か何かであるようにもったいをつけてありがたそうには書かない。したがって読者も作者も倫理上の感激には乏しい。ことによると人間の弱点だけをつづり合せたように見える作物もできるのみならず往々おうおうその弱点がわざとらしく誇張されるかたむきさえあるが、つまりは普通の人間をただありのままの姿にえがくのであるから、道徳に関する方面の行為も疵瑕しか交出するということはまぬかれない。ただこういうあさましいところのあるのも人間本来の真相だと自分でも首肯うなずひとにも合点がてんさせるのを特色としている。この二つの文学をくわしく説明すればそれだけで大分時間が経ちますから、まあ誰も知っているぐらいの説明で御免ごめんこうむって、この二つの文学が前の二傾向の道徳をその作物中に反射しているということにさえ気がつけば、ここに始めて文芸と道徳とがいずれの点において関係があるかと云うことも明かになって来ようと思います。
 返す返す申すようですが題がすでに文芸と道徳でありますから、道徳の関係しない文芸のことは全然論外に置いて考えないと誤解を招きやすいのであります。道徳に関係の無い文芸の御話をすれば幾らでもありますが、例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子ひょうしで、卑陋ひろうな御話ではあるが、大きな放屁ほうひをするとする。そうすると諸君は笑うだろうか、おこるだろうか。そこが問題なのである。と云うといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。まず私の考では相手が諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。もっとも実際やってみなければ分らない話だからどっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである。これに反して相手が西洋人だと怒りそうである。どうしてこう云う結果の相違を来すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだと言わなければならない。すなわち西洋人が相手の場合には私の卑陋ひろうのふるまいを一図に徳義的に解釈して不徳義――何も不徳義と云うほどの事もないでしょうが、とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかも知れません。ところが日本人だと存外単純に見做みなして、徳義的の批判を下す前にまず滑稽こっけいを感じてすだろうと思うのです。私のしかつめらしい態度と堂々たる演題とに心をかたむけて、ある程度まで厳粛の気分を未来に延長しようという予期のある矢先へ、突然人前でははばかるべき異な音を立てられたのでその矛盾の刺激にえないからです。この笑う刹那せつなには倫理上の観念はごうも頭をもたげる余地を見出し得ない訳ですから、たとい道徳的批判を下すべき分子が混入してくる事件についても、これを徳義的に解釈しないで、徳義とはまるで関係のない滑稽こっけいとのみ見る事もできるものだと云う例証になります。けれどももし倫理的の分子が倫理的に人を刺戟しげきするようにまたそれを無関係の他の方面にそらす事ができぬように作物中に入込んで来たならば、道徳と文芸というものは、けっして切り離す事のできないものであります。両者は元来別物であって各独立したものであるというような説も或る意味から云えば真理ではあるが、近来の日本の文士のごとく根柢こんていのある自信も思慮もなしに道徳は文芸に不必要であるかのごとく主張するのははなはだ世人を迷わせる盲者の盲論と云わなければならない。文芸の目的が徳義心を鼓吹こすいするのを根本義にしていない事は論理上しかるべき見解ではあるが、徳義的の批判を許すべき事件が経となり緯となりて作物中に織り込まれるならば、またその事件が徳義的平面において吾人に善悪邪正の刺戟しげきを与えるならば、どうして両者をもって没交渉とする事ができよう。
 道徳と文芸の関係は大体においてかくのごときものであるが、なお前にげた浪漫自然二主義についてこれらがどういう風に道徳と交渉しているかをもう少し明暸めいりょうに調べてみる必要があると思います。すなわちこの二種の文学についてどこが道徳的でどこが芸術的であるかを分解比較して一々点検するのであります。こうすれば文芸と道徳の関係が一層明暸になるのみならず、また浪漫自然二文学の関係もまた一段と判然はっきりするだろうと思います。第一、浪漫派の内容から言うと、ぜん申した通り忠臣が出て来たり、孝子が出て来たり、貞女が出て来たり、その他いろいろの人物が出て来て、すべて読者の徳性を刺激してその刺激に依って事をなす、すなわち読者を動かそうと云う方法を講じますから、その刺激を与える点はりもなおさず道義的であると同時に芸術的に違ない。(文学と云うものが感情性のものであって、吾人の感情を挑撥ちょうはつ喚起するのがその根本義とすれば)かく浪漫派は内容の上から云って芸術的であるけれども、その内容の取扱方に至るとあるいは非芸術的かも知れません。という意味はどうもその書き方によくない目的があるらしい。こういう事件をこう写してこう感動させてやろうとかこう鼓舞してやろうとか、述作そのものに興味があるよりも、あらかじめ胸に一物いちもつがあって、それを土台に人を乗せようとしたがる。どうもややともするとそこに厭味いやみが出て来る。私が今晩こうやって演説をするにしても、私の一字一句に私と云うものがつきまつわっておってどうかして笑わせてやろう、どうかして泣かせてやろうとくすぐったり辛子からしめさせるような故意の痕跡が見えいたら定めし御聴きづらいことで、ために芸術品として見たる私の講演は大いに価値を損ずるごとく、いかに内容が良くても、言い方、取扱い方、書き方が、読者を釣ってやろうとか、挑撥ちょうはつしてやろうとかすべて故意の趣があれば、その故意わざとらしいところ不自然なところはすなわち芸術としての品位にかかわって来るのです。こういう欠点を芸術上には厭味いやみといって非難するのです。これに反して自然主義から云えば道義の念に訴えて芸術上の成功を収めるのが本領でないから、作中にはずいぶん汚ない事も出て来る、鼻持のならない事も書いてある。けれどもそれが道心を沈滞せしめて向下堕落の傾向を助長する結果を生ずるならばそれは作家か読者かどっちかが悪いので、不善挑撥もまたけっしてこの種の文学の主意でない事は論理的に証明できるのである。したがって善悪両面ともに感激性の素因に乏しいという点から見て、そこが芸術的でないと難を打つ事はできる。その代りその書きぶりや事件の取扱方に至っては本来がただありのままの姿を淡泊に写すのであるから厭味におちいる事は少ない。厭味とか厭味でないとかいう事は前にも芸術上の批判であると御断りしておきましたが、これが同時に徳義上の批判にもなるからして自然主義の文芸は内容のいかんにかかわらずやはり道徳と密接な縁を引いているのであります。というのはただありのままをてらわないで真率に書くというのが厭味のない描写としての好所であるのであるが、そのありのままを衒わないで真率に書くところを芸術的に見ないで道義的に批判したらやはり正直という言葉を同じ事象に対して用いられるのだからして、芸術と道徳も非常に接続している事が分りましょう。のみならず芸術的に厭味がなく道徳的に正直であるという事がこの際同じ物を指しているばかりではなく理知の方面から見れば真という資格に相当するのだから、つまりは一つの物を人間の三大活力から分察したと異なるところはないのであります。三位一体と申してもよいでしょう。
 こう分解して見ると、一見道義的で貫ぬいている浪漫派の作物に存外不徳義の分子が発見されたり、またちょっと考えると徳義の方面に何らの注意を払わない自然派の流を汲んだものに妙に倫理上の佳所があったり、そうしてその道義的であるや否やが一にその芸術的であるや否やで決せられるのだから、二者の関係は一層明暸になって来た訳であります。また浪漫、自然と名づけられる二種の文芸上の作物中にこの道徳の分子がいかに織り込まれるかもたいてい説明し得たつもりであります。
 なお余論として以上二種の文芸の特性についてちょっと比較してみますと、浪漫派は人の気を引立てるような感激性の分子に富んでいるには違ないが、どうも現世現在を飛び離れているのうらみをまぬかれない。みだりに理想界の出来事を点綴てんてつしたようなかたむきがあるかも知れない。よしその理想が実現できるにしてもこれを未来に待たなければならない訳であるから、書いてある事自身は道義心の飽満悦楽を買うに十分であるとするも、その実おのれには切実の感を与えにくいものである。これに反して自然主義の文芸には、いかに倫理上の弱点が書いてあっても、その弱点はすなわち作者読者共通の弱点である場合が多いので、必竟ひっきょうずるに自分を離れたものでないという意味から、汚い事でも何でも切実に感ずるのは吾人の親しく経験するところであります。今一つ注意すべきことは、普通一般の人間は平生何も事の無い時に、たいてい浪漫派でありながら、いざとなると十人が十人まで皆自然主義に変ずると云う事実であります。という意味は傍観者である間は、他に対する道義上の要求がずいぶんと高いものなので、ちょっとした紛紜ふんうんでも過失でも局外から評する場合には大変からい。すなわちおれが彼の地位にいたらこんな失体は演じまいと云う己を高く見積る浪漫的な考がどこかにひそんでいるのであります。さて自分がその局に当ってやって見ると、かえって自分の見縊みくびった先任者よりもはげしい過失を犯しかねないのだから、その時その場合に臨むと本来の弱点だらけの自己が遠慮なく露出されて、自然主義でどこまでも押して行かなければやりきれないのであります。だから私は実行者は自然派で批評家は浪漫派だと申したいぐらいに考えています。次に御話したいのは先年来自然主義をある一部の人がとなえ出して以後世間一般ではひどくこれをきらってはては自然主義といえば堕落とか猥褻わいせつとかいうものの代名詞のようになってしまいました。しかし何もそう恐れたり嫌ったりする必要はごうもないので、その結果の健全な方も少しは見なければなりません。元来自分と同じような弱点が作物の中に書いてあって、己と同じような人物がそこに現われているとすれば、その弱点を有する人間に対する同情の念は自然起るべきはずであります。また自分もいつこういう過失を犯さぬとも限らぬと云う寂寞じゃくまくの感も同時にこれに伴うでしょう。己惚うぬぼれの面をぎ取って真直な腰を低くするのはむしろそういう文学の影響と言わなければなりません。もし自然派の作物でありながらこういう健全な目的を達することができなければ、それこそ作物自身が悪いのであると云わなければならない。悪いという意味は作物が出来損できそこなっているのです、どこか欠点があると云うのです。ぜん説明した言葉を用いて評すれば、そういう作物にはどこか不道徳の分子がある、すなわちどこか非芸術のところがある、すなわちどこか偽りを書いているのだという事に帰着するのです。ありのままの本当をありのままに書く正直という美徳があればそれが自然と芸術的になり、その芸術的の筆がまた自然善い感化を人に与えるのは前段の分解的記述によってもう御会得ごえとくになった事と思います。自然主義に道義の分子があるという事はあまり人の口にしないところですからわざわざ長々と弁じました。もっともただ新らしい私の考だから御吹聴ごふいちょうをするという次第ではありません。御承知の通り演題が「文芸と道徳」というのですから特にこの点に注意を払う必要があったのです。
 これで浪漫主義の文学と自然主義の文学とが等しく道徳に関係があって、そうしてこの二種の文学が、冒頭に述べた明治以前の道徳と明治以後の道徳とをちゃんと反射している事が明暸めいりょうになりましたから、我々はこの二つの舶来語を文学から切り離して、直に道徳の形容詞として用い、浪漫的道徳及び自然主義的道徳という言葉を使って差支さしつかえないでしょう。

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