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僕の昔(ぼくのむかし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 9:20:13  点击:  切换到繁體中文

 根津ねず大観音だいかんのんに近く、金田夫人の家や二弦琴にげんきんの師匠や車宿や、ないし落雲館らくうんかん中学などと、いずれも『吾輩わがはいねこである』の編中でなじみ越しの家々の間に、名札もろくにはってない古べいの苦沙弥くしゃみ先生のきょは、去年の暮れおしつまって西片町にしかたまちへ引き越された。君、こんどの僕の家は二階があるよと丸善の手代みたように群書堆裡ぐんしょたいりひげをひねりながら漱石子そうせきしが話していられると、縁側えんがわでゴソゴソ音がする。見ていると三毛猫の大きなやつが障子しょうじの破れからぬうと首を突き出して、ニャンとこちらを向きながらないた。


 あの猫はね、こっちへ引きこしてきてからも、もとの千駄木の家へおりおり帰って行くのだ。この間も道であいつが小便をたれているところをうまくとっつかまえて連れて戻った。やっぱしもとの家というものは恋しいものかなあ。――何、僕の故家いえかね、君、軽蔑けいべつしては困るよ。僕はこれでも江戸っ子だよ。しかしだいぶ江戸っ子でも幅のきかない山の手だ、牛込の馬場下で生まれたのだ。
 父親おやじは馬場下町の名主なぬしで小兵衛といった。別に何も商売はしていなかったのだ。何でもあの名主なんかいうものは庄屋と同じくゴタゴタして、収入などもかなりあったものとみえる。ちょうど、今、あの交番――喜久井町きくいちょうを降りてきた所に――の向かいに小倉屋おぐらやという、それ高田馬場の敵討あだうちの堀部武庸たけつねかね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいうますを持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家いえがあった。もう今は無くなったかもしれぬ。僕の家は武田信玄の苗裔いえすじだぜ。えらいだろう。ところが一つえらくないことがあるんだ。何でも何代目かの人が、君に裏切りとかをしたということだ。家のもん井桁いげたの中に菊の紋だ。今あのへんを喜久井町というのは、僕の父親おやじがつけたので、家の紋から、菊井を喜久井とかえたのだそうな。こんなことはそうさなあ、明治の始めごろの話だぜ、名主というものがまだあった時分だろうな。
 名主には帯刀たいとうごめんとそうでないのとの二つがあったが、僕の父親はどっちだったか忘れてしまった。あの相模屋さがみやという大きな質屋と酒屋との間の長屋は、僕の家の長屋で、あの時分に玄関を作れるのは名主にだけは許されていたから、名主一名お玄関様という奇抜きばつな尊称を父親はちょうだいしてさかんにいばっていたんだろう。
 家は明治十四五年ごろまであったのだが、あにきらが道楽者でさんざんにつかって、家なんかは人手に渡してしまったのだ。兄きは四人あった。一番上のは当時の大学で化学を研究していたが死んだ。二番目のはずいぶんふるった道楽ものだった。唐棧とうざんの着物なんか着て芸者買いやら吉原通いにさんざん使ってこれも死んだ。三番目のが今、無事で牛込にいる。しかし馬場下の家にではない。馬場下の家は他人の所有になってから久しいものだ。
 僕はこんなずぼらな、のんきな兄らの中に育ったのだ。また従兄いとこにも通人がいた。全体にソワソワと八笑人か七変人のより合いのいえみたよに、一日芝居しばい仮声かせいをつかうやつもあれば、素人落語しろうとばなしもやるというありさまだ。僕は一番上の兄に監督せられていた。
 一番上の兄だって道楽者の素質は十分もっていた。僕かね、僕だってうんとあるのさ、けれども何分貧乏とひまがないから、篤行とっこうの君子を気取ってねこと首っきしているのだ。子供の時分には腕白者わんぱくものでけんかがすきで、よくアバレ者としかられた。あの穴八幡あなはちまんの坂をのぼってずっと行くと、源兵衛村げんべえむらのほうへ通う分岐道わかれみちがあるだろう。あすこをもっと行くと諏訪すわの森の近くに越後様えちごさまという殿様のおやしきがあった。あのお邸の中に桑木厳翼げんよくさんの阿母あぼさんのお里があって鈴木とかいった。その鈴木の家の息子がおりおり僕の家へ遊びに来たことがあった。
 僕の家の裏には大きななつめの木が五六本もあった。『坊っちゃん』に似ているって。あるいはそうかもしれんよ。『坊っちゃん』にお清という親切な老婢ろうひが出る。僕の家にも事実はあんな老婢がいて、僕を非常にかわいがってくれた。『坊っちゃん』の中に、お清からもらった財布さいふを便所へ落とすと、お清がわざわざそれを拾ってもってきてくれるくだりがあった。僕は下女に金をもらった覚えはないが、財布の一条ひとくだりは実地の話だった。僕の幼友おさなともだちで今、名を知られている人は、山口弘一という人だけだ。この人はたしか学習院の先生かなんかしていられるということだ。くわしくは知らぬ。
 そのうちに僕は中学へはいったが、途中でよしてしまって、予備門へはいる準備のため駿河台にそのころあった成立学舎へはいった。そのころの友人にはだいぶえらくなったやつがある。それから予備門へはいった。山田美妙びみょう斎とは同級だったが、格別心やすうもしなかった。正岡とはその時分から友人になった。いっしょに俳句もやった。正岡は僕よりももっと変人で、いつも気に入らぬやつとは一語も話さない。孤峭こしょうなおもしろい男だった。どうした拍子か僕が正岡の気にいったとみえて、打ちとけて交わるようになった。上級では川上眉山びざん、石橋思案しあん、尾崎紅葉こうようなどがいた。紅葉はあまり学校のほうはできのよくない男で、交際も自分とはしなかった。それからしばらくすると紅葉の小説が名高くなりだした。僕はそのころは小説を書こうなんどとは夢にも思っていなかったが、なあにおれだってあれくらいのものはすぐ書けるよという調子だった。
 ちょうど大学の三年の時だったか、今の早稲田わせだ大学、昔の東京専門学校へ英語の教師に行って、ミルトンのアレオパジチカというむずかしい本を教えさされて、大変困ったことがあった。あの早稲田の学生であって、子規や僕らの俳友の藤野古白こはくは姿見橋――太田道灌どうかん山吹やまぶきの里の近所の――あたりの素人しろうと屋にいた。僕の馬場下の家とは近いものだから、おりおりやってきて熱烈な議論をやった。あの男は君も知っているだろう。精神錯乱で自殺してしまったよ。『新俳句』に僕があの男を追懐して、
思ひ出すは古白と申す春の人
という句を作ったこともあったっけ。――その後早稲田の雇われ教師もやめてしまった。むろん僕が大学学生中の話だぜ。その間僕は下宿をしたり、故家うちにいたり、あちらこちらに宿をかえていた。僕が大学を出たのは明治二十六年だ。元来大学の文科出の連中にも時期によってだいぶ変わっている。高山が出た時代からぐっと風潮が変わってきた。上田敏君もこの期に属している。この期にはなかなかやり手がたくさんいる。僕らはそのまえのいわゆる沈滞時代に属するのだ。
 学校を出てから、伊予いよの松山の中学の教師にしばらく行った。あの『坊っちゃん』にあるぞなもしなまりを使う中学の生徒は、ここの連中だ。僕は『坊っちゃん』みたようなことはやりはしなかったよ。しかしあの中にかいた温泉なんかはあったし、赤手拭あかてぬぐいをさげてあるいたことも事実だ。もう一つ困るのは、松山中学にあの小説の中の山嵐やまあらしという綽名あだなの教師と、寸分すんぶんたがわぬのがいるというので、漱石はあの男のことをかいたんだといわれてるのだ。決してそんなつもりじやないのだから閉口へいこうした。
 松山から熊本の高等学校の教師に転じて、そこでしばらくいて、後に文部省から英国へ留学を命ぜられて、行って帰って来て、今は大学と一高と明治大学との講師をやっている。なかなか忙しいんだよ。
 落語はなしか。落語はすきで、よく牛込の肴町さかなまち和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席よせはたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。落語家はなしかで思い出したが、僕の故家いえからもう少し穴八幡のほうへ行くと、右側に松本順という人のやしきがあった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監ではぶりがきいてなかなかいばったものだった。円遊えんゆうやその他の落語家がたくさん出入りしておった。
 ――ざっと僕の昔を話したらこんなものだ。この僕の昔の中には僕の今もだいぶはいっているようだね。まあよいようにやっておいてくれたまえ。





底本:「吾輩は猫である(他一編)」旺文社文庫、旺文社
   1965(昭和40)年7月10日初版発行
   1969(昭和44)年7月1日重版発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:土屋隆
2005年9月17日作成
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