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疑惑(ぎわく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-21 8:48:15  点击:  切换到繁體中文

――水野敬三より妻の藤子に宛てた手記――

 昨日、宵の内から降り出したしめやかな秋雨が、今日も硝子戸の外にけぶつてゐる。F――川の川音も高い。町を挾んだ丘の斜面の黄ばんだ木の葉の色も急に濃くなつたやうだ。J――峠から海の方へ展がる山坡に沿うて、雨を含んだ灰色の雲が躍るやうに千切れては飛び、飛んでは千切れて行く。海の沖には風が騷いでゐるのかも知れない。とに角私が此處へ來てから暗い空模樣が今日で五日も續いてゐるのだ。著いた日の夜出した繪葉書はもうお前の手に屆いたことと思ふ。が、夏の終りに病後の一月餘りを過した時の事を思ひ浮べて、此處の晴れ晴れしい秋空を想像してはいけない。ほんとに陰氣な、物寂しい日ばかりなのだから‥‥‥‥。
 藤子、もうすべてをお前に打ち明けてしまひたい。
 この長い手紙、と云ふよりもこの部厚な手記を前觸れもなく突然私の手から受け取つた時、お前がどんなに怪しんで胸を轟かすか、そして、またこの手記の一句一節を次第に辿つて行く時に、お前の心がどんなに痛み、どんなに悶えるか、それは私によく分つてゐる。が、この手記に書かれてゐる事柄をお前に打ち明けようとして、私が四月餘りをどんなに苦しみ、どんなに惱んで來たか、それはこの手記を讀んでみれば自然お前にも分るだらうと思ふが、きつとお前の痛み悶えと、その強さは少しも變らないに違ひない。全く、今かうして筆を持ちながらもその心持は私を息苦しくさへするのだ。
 此處へくる日の朝、私は『研究論文の想を纒めに、また體の疲れを休めに‥‥‥』と、かうお前に斷りを云つた。が、それは詐りだつた、口實だつた。全く、これだけは許して貰ひたい。私には纒むべき論文の想もない、また體の疲れを休めやうなどと云ふ心持もない。ただ暫くなりともお前から離れて、すべてを深く靜に省みて、そして、この手記をお前に書き與へよう爲めに此處へ來たのだつた。お前と始終顏を合せながら、それをとうとう詞では云ひ出す事の出來ない自分の弱さを、臆病さを知り盡したから‥‥‥‥。
 私はこの手記を庭に向いた靜かな自分の部屋の縁先で、或は私の書齋の搖り椅子に凭りながら、一人讀み續けて行くお前の姿を想像する。きつとお前の指先は顫へるだらう、お前の胸の動悸は高まるだらう、お前の顏色は青白く變るだらう、若しかしたらお前の眼から涙が抑へても抑へきれぬやうに染み出すだらう。それを思ふと私の心は暗くなる、筆を動かす手先もすくんでしまふ。何故なら私が此處に書かうとする事柄に就いて、お前は何にも知らないのだから、いや、例へ知つてゐても、恐らく今のお前の胸からは美しく忘れ去られてゐる事なのだから‥‥‥。それをお前にかうして打ち明ける、お前の心を亂だす、お前の胸を苦しめる。その自分の殘酷さ、男らしい堅い沈默に堪へ得ない自分の薄志、私は決してそれを知つてゐないのではない。知つてゐるからこそ今まで苦しんで來たのだ。
 が、藤子、私を堅く信じてくれ。
 きつとこの手記はお前を苦しめ惱ますに違ひないのだ。然し、この手記を書く私は、決してお前を憎んではゐない。恨んではゐない、怒つてはゐない。またお前を責める心や、苦しめる心は少しもないので。そして私を堅く信じてくれ――と云ふやうに、私もお前を堅く信じてゐる。お前が、結婚後の私に對するお前が、私に捧げてくれた心と體、その中に籠められた愛の至純さを私はよく知つてゐる。そのすべてを信じ、且つ知つてゐるだけに、私はこの手記をお前に書き與へずにはゐられないのだ。自分の薄志と云つた、自分の弱さと云つた。が、私は決してこれをぢつと胸に包んで置けない事はない。飽くまでもお前に秘め隱す、そしてお前を苦しめず惱ませずに置く事も出來る。然し、それは夫婦生活の何と云ふ虚僞だらう。何と云ふ堪へ難い隙間だらう。その虚僞と隙間の意識が何物よりも私には苦痛なのだ。私はその虚僞を碎きたい、その隙間をしつくりと埋めてしまひたい。その爲めに私はこの手記をお前に書き與へようとするのだ。
 お前はただこれを讀んでくれれば好い。そして、心に堅く頷いてくれれば好い。お前自身がこの手記に答へたくなかつたら、別に答へを待つ事も私はしない。また答へてくれたら、私は快くそれを受けるだらう。が、例へこの手記を讀んでどんなに苦しみ悶えようとも、それは直ぐに忘れてくれ。ただ、この中に書く事柄を心に堅く頷いてさへくれれば私は滿足なのだから‥‥‥。それだけで私とお前の夫婦生活は眞實の上に成り立つに違ひないのだから‥‥‥‥。
 繰り返して言ふ、飽くまでも堅く私を信じてゐてくれ。現在も、未來も、そしてまた、過去も‥‥‥‥。

 日光が燒けつくやうに硝子窓に燃えてゐた八月の三日、さう思ふと、もう今日までに四月近かくの時が過ぎ去つてゐる。[#「過ぎ去つてゐる。」は底本では「過ぎ去つてゐる」]ほんとうに思ひ巡らす月日の短かさだ。
 その日の眞晝近く、地上のすべての事物は、人も、樹木も、家屋も、電柱も、また砂にまぎれる小蟻さへも、息を途絶えさすやうな劇しい暑さに疲れ果てて、ぢつと聲をひそめて立つてゐるやうに思はれるその眞晝近く、私は理科大學研究室の窓際の机に向つて、一所懸命に蘭科植物の葉色素研究の爲めに顯微鏡を覗き込んでゐた。そよとの風もない部屋の蒸暑さ、窓の向うに見える緑の深い銀杏の並木さへ葉をうなだれてゐたが、私の感覺はただ顯微鏡の小さな孔から映つてくる鬼蘭の、青い格子縞のやうな纖維に集中されてゐた。
『水野先生、お宅からお電話です‥‥‥』と、その時、不意に私の耳元に響いた小使の聲はどんなに私の心を驚かせただらう。その電話の知らせが、やがてお前のあの險惡な急性盲腸炎を呼び起す、體の異状を私に告げたのだつた。
 お前は日頃健康な質だつた。で、その日も、その翌日も、檢温器の示すお前の體の高い熱や、またお前の訴へる腹部の痛みを單純な膓加答兒ぐらゐに思ひ過して、お前自身も私も深くは氣に留めなかつた。それがどうだつたらう、そのまた翌日の朝になつても鎭まらない病勢の、而もお前の訴へる苦惱が急に異樣に劇しくなつて來たので、驚いてT――醫師を呼んだのだ。
『急性盲膓炎です。而も、少し手遲れ氣味です‥‥‥』と、その時、若いT――醫師も醫師らしくもなく態度の冷靜さを失つて、私にかう告げたのだつた。私もその物々しさに度を失はずにはゐられなかつた。が、實際にお前の生命はもう或る危險界に迫つてゐた。
 それから、私の友達のあの水島醫學士が外科主任をしてゐる、家の近くのS――病院へ、お前の母や、私の兄の謙一と一緒にお前をあわただしく擔架で運び込むまで、もう殆ど高熱に半ば意識を失ひながら、紫ずんだ脣から囈言のやうに苦しみを訴へてゐるお前を見詰めて、私はまるで自分の意識までを引つ掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)されるやうな焦燥と戰ひ、お前の生命に對する不安と爭つてゐたのだつた。
『手術の結果如何だが、とに角、盡すだけは盡してみよう‥‥‥』と、内科の瀧口博士と共にお前を一わたり診察し終つた時、水島はさうした頼りない詞を私に囁いて、お前の爲に寸刻を爭ふ手術の準備を整へに、手術室へ急いだのだ。
『餘程惡い御容態です。何しろ盲膓の半分は化膿してゐるやうですからね。無論、手術の效果次第ですが、或る程度のお覺悟は必要です‥‥‥』と、水島に續いて瀧口博士は私と兄を病室の廊下まで連れ出して、低く落ち着いた、然し、其處に一種の緊張感を持つた聲で、かう告げたのだ。その、或る程度のお覺悟――と云ふ、まるで鐵槌をいきなり眞面まともから打ち降されたやうな詞に、私の頭は混亂した。もう絶望だ――と、私は直ぐに考へてしまつたのだ。
『そんなに氣を落さんでも好い。まだ希望はあるのだ‥‥‥』と、兄は冷靜な態度で私を慰めてくれた。
『その希望が‥‥‥』と、私は直ぐに答へ返した。が、聲は無意識に顫へてゐた。
『馬鹿な事を、醫者が重病人に對してああ云ふのは一種の策略ポリシイだ。さう人間は生易しく死ぬものぢやない。大丈夫だ、己が保證する‥‥‥』と、兄は直ぐに私の詞にかう被せた。私にはその落ち着き拂つた樣子が小憎らしくさへ見えた。
『とに角、かうなつてはすべてが運だ。が、好い運に信頼するが好い‥‥‥』と、兄はかうでも云ひたいやうな表情を浮べて、ぢつと私を見返してゐた。
 二人はそのまま病室へ這入つた。[#「這入つた。」は底本では「這入つた、」]
 全く、今考へてみれば、私は餘に危急な出來事のすべてに氣を轉倒されてゐたのだ。平生丈夫なお前がそんな短い時間の内に、そんな思ひ掛けない宣言を與へられる。そして、堪らなく不安な氣持をそそられる手術を受ける。それが氣の弱い、感じ易い、物事に單純過ぎる、人間的な苦悶を知らないお坊ちやん育ちの私だから、もう一圖に醫師の詞に脅かされてしまつたのだ。それでなくとも、やつと三年目に近づいたばかりのお前との結婚生活を平穩に樂しんでゐる時代だつたから、お前の身に突然振りかかつて來たその不幸は、私に對してもいきなり拔身を突きつけられたやうな恐怖を與へたのだ。で、實際以上にすべては誇張されて映つて來た。そして、二人の結婚生活の幸福が當然お前の死に依つて破壞されてしまふのだと信じ切つてしまつたのだつた。
 病室へ這入ると、お前の母が老年の近い小皺の寄つた顏を土氣色にして、釣り上つたやうな眼でぢつとお前の顏を見詰めてゐる姿が、私の胸を衝いた。その母も、流石に兄も、私も、そして附添ふ若い一人の看護婦も、高い熱でさらさらに乾いた灰のやうなお前の顏色を見、夢中の口から洩れる呻き聲を聞いた時、お前の上に嚴かに死が迫らうとしてあるやうな豫感に打たれて、堅く口を噤んでしまつた。そして、消毒藥の何處となく漂ふ病室の中はお前の呻き聲に靜寂が破られるだけだつた。それに窓から見える病院の芝生の庭には一昨日のやうに、昨日のやうに、ぎらぎらした午後の太陽が照りつけ、處々に咲く松葉牡丹の花が陽炎の中に燃えるやうな紅を映してゐる、動く物一つない靜けさだ。
 私はむつと熱いいきれの鼻を打つお前の枕元に近附いて、時々痙攣するやうに動いてゐるお前の手を堅く執つた。丁度、死の爲めにもぎ去られて行かうとするお前を自分の手で守らうとするやうに‥‥‥。が、お前の掌はじつとりと汗ばみ、其處から傳はつてくる體熱はお前の體を燒き盡さうとでもするやうに強かつた。あつふあつふと生ら暖い吐息が私の顏に感じられた。お前の口は半分明け放たれ、齒並の奧に白苔の生えた舌が縺れてゐた。
『どうかして下さい。痛、痛つ‥‥‥』と、その時お前は顏を歪めて、敷布シイツの上にのけぞりながら身もがきした。私は我知らず顏を反けずにはゐられなかつた。そんなお前のしどけない姿を、醜い澁面グリメエスを私は今まで見た事がなかつたのだ。そして、病氣がお前の日頃のつつましやかな、物靜かな、内氣な物ごしのすべてを毀してしまつた幻滅をふと感じた。實際、お前の訴へてゐる苦惱と、またお前の生死に對する不安とに殆ど意識を困迷させられてゐながら、どうしてそんな冷たい心の隙間が私の心に出來たか。とに角、掛布を速にお前の胸に覆ひながら、滑り落ちた氷嚢をお前の額に置きながら、さうしたお前を母や兄や看護婦達にまざまざしく見詰められる事が私には苦しかつた。
『お動きなすつてはいけません。もう少しで御座います。お體に障ります‥‥‥』と、同時に看護婦はお前の耳元に囁いた。
『痛、痛つ‥‥‥』と、お前はまた夢中で叫んで、敷布を撥ねのけた。
 手術前の體の消毒の爲めに運搬車が來て、一先づお前を消毒室へ運び去つて行つた時、急に呻き聲の消えた靜かな病室の中に、私は兄とお前の母と顏を見合せてぢつと押し默つてしまつた。お前の姿が眼の前から消え去つた事、それは私の心に或る幽かなゆとりを與へた。と同時に、今まで自分の胸にくるめいてゐた不安や焦燥や苦惱が人力以上の物に支配されてゐるお前の生死に對して、何等の力にも何等のたしにもなり得ないやうな心持になつた。なるやうにしかならないと云ふ宿命的な考へと、なるやうになつてしまへと云ふ或る輕い絶望の氣持が、私の胸を幽かに落ち着かせたのだつた。そして、また其處に兄の詞がさつき暗示したやうな希望が、萬が一と云ふ希望が遠くからだんだん明るく、力強く近附いてくるやうにも感じられた。
『平生丈夫だから、大丈夫なやうな氣もしますね‥‥‥』と、ふと私は兄を見上げて云つた。兄は窓際によつてぎらぎらと輝いてゐる夏空を見上げてゐたのだ。
『大丈夫だ‥‥‥』と、兄は力強く答へた。
 心痛と不安とで人心地もなかつた、お前の母は、その兄の詞を聞いて顏を和らげたやうだつた。が、そのままお前の身を案じるやうに消毒室の方へ出て行つた。
 と、其處へ手術室の準備を終つたらしい水島があわたゞしく這入つて來た。
『消毒が濟んだら直ぐに取り掛かるよ‥‥‥』と水島は云つた。愈※(二の字点、1-2-22)だ――と云ふ衝撃シヨツクが私をぎくりとさせた。

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