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疑惑(ぎわく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-21 8:48:15  点击:  切换到繁體中文


プルスは‥‥‥』と、水島はまた云つた。
八十九ノイン・アハチツヒ‥‥‥』と、助手がそれに答へた。
瞳孔パピツレ‥は‥‥』
全開フオオル‥‥‥』と、助手が喋舌り續けてゐるお前の眼を開いてみながら、かう水島に答へた。
と、水島は全くお前の聲を氣にも留めない冷靜さで、しつかりと助手に頷き返した。脈を取つてゐた一人の助手と看護婦は直ぐに手術臺の傍の硝子臺に近づいて、ピンセツトやガアゼを取つた。同時に水島は息抑へのマスクを口元に覆つて、す早く手術臺に近く立つた。お前の後半身は助手に依つて生々しく露出された。
『ほんとに許して‥‥‥ああ‥‥‥惡かつたわ‥‥‥だつてあの時あなたが‥‥‥あの道で‥‥‥手を‥‥‥熱い‥‥‥』と、喋舌り續けてゐるお前をぢつと見返りながら、水島は暫く佇んでゐた。と、その眼には暗い影がちらりと差して、それをひよいと私の顏に振り向けた。
『ひどい囈言だ‥‥‥』と、私は水島の視線を避けながら、湧き返るやうな胸の混亂を抑へてかう呟いた。
『何、直ぐ止む‥‥‥』と、かう答へた時、水島の眼に差してゐた暗い影は消えた。
 が、囈言と云つた私は、すべてを否定して濟まさうとしてゐた私は、其處まで來た時もうお前の昏睡の脣から洩れてくるその斷續した詞の意味を囈言と思ふ事も、否定し濟ます事も出來なかつた。頭にはかあつと血が上つて來た。胸の鼓動は小指先にまで鋭く傳つて行くのを意識した。そして、私は水島や助手や看護婦の前に、いやさうして尚ほも脣を動かし續けてゐるお前の前に佇んでゐる堪らない苦痛と、赤面と、恥ぢと、戰きとにあらがつて行く事は出來なくなつた。が、私は却く事も、進む事も、耳を抑へる事も、顏を反ける事も出來なかつた。恰も地に釘づけされたやうに、凝化してしまつたやうに、私は手術臺を二三尺離れて立ち惱んでゐたのだつた。
『あたしが惡いわ、いいえ、あたしが惡いわ。でも、もう爲方がない‥‥‥どうする事も‥‥‥苦しい‥‥‥痛い‥‥‥許して、許して‥‥‥あの晩、ほんとにあの晩‥‥‥貞雄さん‥‥‥誰にも、誰にも‥‥‥考へ‥‥‥思ひ違ひ‥‥‥かんに、かんにして‥‥‥』と、お前の無氣味な鋭さを持つた聲は、何時か絶え入るやうな涙聲に變つて、其處でポツンと切れた。そして、すいすいと、宛ですべてが裏はらに變つて了つたやうな安らかな息が、お前の口を洩れて來た。
『三十‥‥‥』と、數へ聲を止めてゐた助手は、急に張り上げた聲でまたお前の耳元に叫んだ。
『あ、あ、あ‥‥‥』と、やがてお前はそれに答へるともない調子で呟くやうに云つたかと思ふと、深い息を吸つてそのままひつそりと鎭まつてしまつた。
 長い、けれど總身を引き絞るやうな沈默が續いた。
 私はカアテンを透して差す西日影にほの白く浮んだお前の顏を、黒髮を、つぶつた眼を、幽かに波打つ胸を、脹らんだ乳を、開き出された生々しい腹部を――鋭い視線の刄物で縱に斷ち切るやうにずつと見通した。そして、其處に例へ一點でも感じられる暗い影があつたら見遁すまいとした。恐らくその視線は誰の眼にも陰慘な殘酷な、光を持つてゐるやうに見えたであらう。が、その光の影には引き裂かれるやうな苦悶が、悲痛が、驚きが、失望が高く波打つてゐたのだつた。今まですべてを、いやお前の心と體のすべてを自分の物と信じてゐた私の信念が、其處で粉微塵に碎かれてしまつたやうな氣がしたのだ。
『何と云ふ事だ‥‥‥』と、かう心に獨りごちた時、私の眼にはあの貞雄君の顏が消さうとしても消えぬ幻影になつてまざまざしく映つた。
『若しやお前が‥‥‥』と、さう疑ひ返した時、また私の眼にはあの貞雄君の、呉に去つてから久しく私達の家を訪れない貞雄君の顏が、私がお前のいとこ達の中で一番好きだつた、あの快活な、懷しい微笑を口元から絶やさない貞雄君の、あのあの淺黒い顏が浮んで來たのだ。
『馬鹿な、馬鹿な‥‥‥』と、私は自分の醜い、不愉快な、瞬間に卷き起つて來た疑惑を抑へようとした。實際、それは餘りに意外な、餘りに信じられない事實だつた。が、例へそれが笑ふべき、お前の單純な幻想から湧いて來たに過ぎない囈言であらうとも、『思ひ違ひ、かんにして‥‥‥』とまではつきりお前の脣から洩れた詞を、どうして私がさう生易しく否定し去る事が出來よう。その長い沈默の間、私の頭には總身の血がかあつと煮え返つてゐた。そして、その感情の波が、ともすれば自分の意識を昏迷させてしまひさうだつた。
 が、私は辛くも自分を制御してゐた。
『メス‥‥‥』と、靜かな、深い眠りに落ちてしまつたお前をぢつと見詰めてゐた水島は、やがて落ち着いた聲で傍の助手に囁いた。
と、次の刹那、水島の手には冷かな銀色を反射する小刀のメスが執られてゐた。そして、水島の鋭い眼は暫くお前の腹部に注がれてゐたのだ。
 助手も看護婦もお前も私も、その水島も、瞬間、化石したやうに佇んだ。そして、何時の間にかスヰツチをひねられた頭上の電氣の光に、暗い陰影を型取られ、顏の眉一つを動かさなかつた。
 メスが水島の手に閃いた。助手の手にピンセツトが光つた。看護婦の手にガアゼが握られた。私の總身はさつと引き締まつた。そして、思はず瞬きして、眼を注いだ時、吹き出るやうに切り口を流れた血潮が助手の左手のガアゼを眞赤に染めてゐた。と、殆ど同時に、私の意識はすうつと拭はれるやうに總身から消え去つて、血潮の赤が限りなく遠くに霞んだかと思ふと、私はくらくらと倒れかかつた。鼻に腐肉を嗅ぐやうな匂ひを意識しながら‥‥‥。
 肩に、背中から抱きすくめた何かの力が幽かに感じられた。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥。
 耳元に幽かに囁く人聲がした。冷かな風が首筋を掠めて過ぎた。と、私は漸く我に返つた。そして、けばけばしい日光の反射が疼くやうに網膜を差すのに眼を細めながら、ひよいとあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した時、私はお前の病室の窓際の椅子に身を投げ掛けてゐたのだつた。
『敬さん、敬さん‥‥‥‥』
『氣が附いたか‥‥‥‥』
と、お前の母と兄の聲がまだ遠くの人聲のやうに、同時に耳を打つた。
『あ‥‥‥』と、吐息づきながら思はずはつきり眼を見開いて、母と兄の顏を見守つたが、それはまつ青な、云ひ知れぬ不安を湛へた、陰鬱な顏だつた。
 頭はまだ空つぽだつた。すべての意識は混沌としてゐた。ただ、吐氣のつきさうな感覺と、腐肉を突きつけられてゐるやうな匂ひとが、むつと胸元に感じられるだけだつた。
『やつぱり大丈夫ぢやなかつたな‥‥‥』と、兄は暫くしてかう云つた。
『ええ‥‥‥』と、私は[#「私は」は底本では「私の」]その意味を捉へ兼ねて訊き返した。
『まあ、どんなにびつくりしたでせう、敬さん‥‥‥』と、お前の母はぢつとその私を見詰めた。
『いや、とうとう腦貧血を起してしまつたぢやないか‥‥‥』と、兄は詰るやうに云つた。
『腦貧血‥‥‥』と、思はず聞き返した時、私の意識にはすべての經過がはつきり蘇つた。そして、手術室にゐるお前の事がぎくりと思ひ出されたのだ。
『あの、藤子は、藤子はどうしたんです‥‥‥』と、私は叫んだ。
『ふむ、今濟んだと云ふ知らせがあつた。大變巧く行つたらしい‥‥‥』と、兄は落ち着いた調子で答へた。
『巧く行きましたか‥‥‥』と、云ひ返した時、私はがくりと重荷を下したやうな心の安らぎを感じた。そして、窓臺に頸を凭せかけながら眼を瞑つた。
『ほんとにお前のお蔭で餘計な人騷ぎをした‥‥‥‥‥』
『それでもまあ直ぐ鎭まつて、ようございましたね‥‥‥‥』
『それもさうですが、ほんとに云はんこつちやない‥‥‥』と、兄は幽かに舌打ちした。
 私は深く息を吸つた。そして、明け放した正面から窓の方へ流れてくる涼しい風に吹かれながら、ぢつと口を噤んでゐた。もう夕方が近いのだつた。眞晝の燒けつくやうな暑さが和ぐ頃だつた。意識は次第にはつきりして來た。感情の劇しい興奮も弛んで來た。昏倒した體の後疲れが何處となく感じられて來た。そのまま身動きもせずに、お前の母や兄の詞に答へようともせずに、私はぢつと僅か一時間程の間に自分が過ぎて來た複雜な心の跡を顧みてゐた。と、それがまるでかりそめの夢だつたやうな、また氣まぐれに自分の前を掠めた幻影だつたやうな氣もした。
『さうだ、夢であれ、幻影であれ‥‥‥』と私は思つた。
と、『お前の爲めに餘計な人騷ぎをした‥‥‥』と、單純に私を責めてくれてゐる兄の詞までが決して恨めしくは思へなかつた。すべてをさう思つて、ただ單純に私が昏倒したのだ――と思つてゐてくれたら、お前の手術の結果が巧く行つたと云ふ歡びをすべてが感じてゐる今、それはどんなに幸福な解釋だつたか知れないのだ。
 が、夢だつたらうか、幻影だつたらうか。私にはそれが忽ち冷かな現實の、過ぎ去つたものではあるが到底疑ふ事の出來ない現實の姿となつて、ひしひしと心の前に浮んで來たのだつた。そして、それが現實であつたと思ふと同時に、私はあの昏睡期に這入つたお前が囈言のやうに語り續けたあの詞が、實際實の事だつたらうかと、また疑はずにはゐられなかつた。
『若しそれが現實の事だつたら、そして、お前とあの貞雄君が‥‥‥』と、私は考へた。
と、私には戰慄が來た、苦悶が來た。そして、直ぐにその考へを否定してしまつた。お前が、またあの貞雄君が――と思ひ並べる事は、私には到底堪へ得ない恐ろしい想像だつた。淺ましい自分の邪推に過ぎないと否定せずにはゐられない事だつた。が、お前のあの聲がまざまざと耳に殘つてゐるのをどうしようか‥‥‥‥。
と、私の默想はまたあの廊下に軋る[#「軋る」は底本では「軌る」]運搬車のゴム輪の音に破られた。
 お前はまた死人のやうに眠つてゐた。顏は灰白色に變つて、脣は紫色にしぼんでゐた。眼は何時開かれるとも知れないやうに閉ぢられてゐた。そして、艶々しい黒髮も、ふくよかな片頬の肉も、黒み勝ちな瞳も、何時も潤んだその赤い脣も――すべてはお前の姿から忘れられてしまつたやうに思はれた。そのお前が母や看護婦達の手に依つて寢臺の上に寢かされて、靜かな、幽かな、安らかさうな息が病室の靜けさの中に聞えてくるまで、私は我を忘れてぼんやりお前を見守つてゐた。そして、コロロホルムの麻醉に、手術の痛みも、夢中な自分の詞も、私の苦悶も、私の昏倒も、そしてすべての人達の懸念も焦慮も知らずに過ぎたに違ひないお前を、何となく一番幸福者のやうに感じたのだつた。
『夢であれ、幻影であれ‥‥‥』と、かげりかけた眞夏の西日が窓を赤く染めてゐるのをぼんやり見詰めながら、お前の爲めに私はかう呟き續けてゐた。
 お前の母も、兄も口を噤んでゐた。そして、靜かな病室の中にはまだ昏睡から覺めないお前の寢息が幽に流れてゐた。(をはり)

 作者附記――水野の手記は此篇で終つてゐる。が、この手記はとうとう藤子に送られずにしまつた。そして、藤子の退院後も二人の結婚生活は幸福に續いてゐた。藤子に送らるべきこの手記が私の手に送られて來たのは最近の事である。『死がすべてを葬つてしまつた今、この手記の發表は藤子に取つて何等の心の痛みともなるまい‥‥』と、水野はこの手記に添へて私に書いてゐる。藤子は手術の缺陷のあつた爲めか盲膓炎を再發して昨年の秋に死んだのである。水野が私の中學時代からの友人である事は云ふまでもあるまい。(九年二月)





底本:「太陽」
   1920(大正9)年4月号
入力:小林徹
校正:はやしだかずこ
2000年10月5日公開
2006年1月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」は「/\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

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