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恋愛の微醺(れんあいのびくん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 13:27:48  点击:  切换到繁體中文

 恋愛と云うものは、この空気のなかにどんな波動で飛んでいるのか知らないけれども、男が女がこの波動にぶちあたると、花が肥料を貰ったように生々として来る。おさない頃の恋愛は、まだ根が小さく青いので、心残りな、食べかけの皿をとってゆかれたような切ない恋愛の記憶を残すものだ。けた女のひとに出逢うと、娘の頃にせめていまのようなこころがあったらどんなによかったでしょうと云う。だから、心残りのないように。深尾さんの詩に、むさぼりて 吸へどもかなし にがさのみ 舌にのこりて 吸へどもかなし、ばらの花びら こんなのがある。どんな新らしいと云う形式の恋愛でも、吸へどもかなし にがさのみで、結局、魂の上に跡をとどめるものはにがさのみじゃないだろうか。私は新らしいと云う恋愛の道を知らない。新らしいと云うのは内容のかわった恋愛と云う意味ではなく、整理のついた恋愛を云うのかも知れないけれども、すぐ泥にまみれたかたちになってしまう。――懶惰らんだで無気力な恋愛がある。仕事のとうげに立った、中年のひとたちの恋愛はおおかたこれだ。
 この間も、ある女友達がやって来て、あなたはいま恋愛をしていないのかとく。恋愛もいいけれど怖いようなと云うと、その友達は恋愛になまけてしまってはいけない、恋をすれば、仕事もたくましくなり、からだも元気になるものだと話していた。
 その友達の話して行った中、こんな例がある。子供が二人あって、良人おっとに死別した絵を描く若い寡婦が、恋の気持ちを失って来ると、心がだんだん乾いて来て、生活がみじめになって、絵もまずくなり、容貌も衰えて、どうして生きていいのか解らなかったのだけれども、ふとすきな青年をみつけて、その男と仲よくなってしまったら、急に容貌も生々と美しくなり、絵もうまくなり、そうして、何より面白いことには、二人の子供をしからなくなったと云うことだ。恋愛のない時分は、いつも苛々いらいらしていて、朝から晩まで子供ばかり叱っていたのだと云う。
 道徳の上から律してゆけば、この未亡人の恋愛はどんな風なものなのか、私には解らないけれども、これは可憐かれんな話だとおもう。恋人に逢ったあくる日は、てきめんに生活が豊富になると云うのだ。この若い寡婦はまた、その男とは結婚しないと云う約束のもとに二、三年もこまやかな愛情をささげおうていると云うことだが、こんな恋愛は新らしいとは云えないだろうか。結婚をするといっぺんにいやになりそうな男だけれども、恋愛をしていると、何かしげきされて清々すがすがしいのだと云うことだ。――十代の女の恋愛には、飛ぶ雲のような淡さがあり、二十代の女の恋愛には計算がともない、三十代の女には何か惨酷ざんこくなものがあるような気がする。
 本当の恋愛とはどんなのをさして云うのだろう。サーニンのようなものを云うのだろうか、エルテルの悩みのようなものだろうか、それとも、みれん、女の一生、復活、春の目ざめ、ヤーマ、色々な恋愛もあるけれども、どれもこれも古くさくてぼろぼろのようだが、また、考えれば、どれもこれも新らしいとも云える。――恋愛をしてごらんなさい生々するから、そう云った友達の言葉が、私につぶてになって飛んで来る。すると、いままで良人の蔭で目をつぶっていたような気持ちが、急に生々とたちあがって羅紗らしゃの匂いの新らしい背広姿に好意を持ったり、襟足えりあしの美しさや、時には、よその男のもっている純白なハンカチの色にさえ動悸どうきのするような一瞬があるのだ。そうして、その動悸は肉体をいためつけるような苦しいものがともなっている場合がある。よその奥さんの気持ちの中に、こんな気持こころはミジンも湧いて来ないものだろうか。結婚をして、一人の男を知ると十七、八の娘のころのように雲のような恋愛はいやになってしまう。恋愛の気持ちのあるたびに、いちいち良人と別れるわけにもゆかないけれども……。
 十年も連れ添うた夫婦で云えば、良人の方には色々なかたちで愉しみの世界があるけれども、奥さんはどんな風にしてとしをとってゆくのだろう。結婚をしているひとたちの恋愛には交通巡査がいる。あぶなくないように恋をしなければならぬ。あやまってよそのくるまに突きあたろうものなら、入院費もかかるし、家族も仕事に手がつかない。交通の整理された恋愛は、悪いことだとはおもわない。私は現在ひとの奥さんだけれど、しみじみこんな事を考える折がある。旦那様に対して申しわけのないことだけれども、旦那様だって何を考えているか判ったものじゃない。きびしい眼からみれば、ふしだらな事かも知れないけれども、この世にあふれている無数の夫婦者の中に、こんな気持ちのない夫婦者はおそらく一人もありはしないだろう。一人の処女が結婚をして、初めてよその男に恋をするのは、あれはどうした事なのだろうか。見合結婚をして、一人の男の経験が済むと、何か一足いっそくとびに違った世界に眼がとどいてゆく。良人の友達の中に、あるかなきかの恋情を寄せてみたりする場合もある。そのあるかなきかの恋情は、ほんの浮気のていどで、家庭を不幸にするものじゃないとおもうがどうでしょうか。
 良人と添寝そいねしながらも、なおかつよその男の夢を見るのだ。その夢の中の男をしばって貰うわけにはゆかない。これも、変型だが、恋愛の一つだろう。たとえクリスチャンの奥さんでも、こんな夢の一つ二つの記憶はあるに違いない。交通整理のゆきとどいた町には怪我人が少ないように、恋愛の道には整理が必要だ。
 理想的な恋愛を私に云わしむれば、およそ悲劇的な影のない恋愛がのぞましい。私の知人にこんな例がある。その男は五十歳の男だ。奥さんと大学に行く子供がある。非常に平和な家庭で、波風一つたたない生活だそうだ。だが、その五十になる男のひとには、奥さんと同じ年配の恋人があり、ちょうど十五年も恋愛関係がつづいていると云うのだ。何と云うおどろくべき旦那様なのだろう。その十五年の間に、恋人はある商人の家に嫁に行ったが、それでも一年に一ぺんは逢うと云うのだ。七夕のようだとその男のひとは笑っていたが、私は吃驚した。奥さんはただの一度も旦那様をうたがわないし、十五年も恋人と逢いつづけているとは露ほども知らないのだと云う。こんな大嘘つきの旦那様を持った奥さんは幸せと云っていいのか不幸と云っていいのかわからないけれども、私から云えば、おそらく、幸福なひとのような気がする。おそらく、その男のひとは、棺桶かんおけ這入はいるまで、奥さんをだましおおせるに違いあるまい。奥さんは良人が死んでからも、あのひとはいいひとだったと幸せに思っている事だろう。その男のひとの云うのには、恋人があったから、至れりつくせりの真情をもって妻を愛しておられた。だから奥さんは浮気心をおこすひまがないのだそうだ。毎日洗濯をしたり、子供と散歩したりして、幸福らしいと云うのだ。では、その恋人の気持ちはどんなものでしょうと尋ねると、これもまた、十五年の長い歴史があるから、何も云わなくても、かなしみもよろこびも判りあい、不貞だとはおもっていないと云うことだ。恋愛を悲劇にしてしまうのは、恋愛に甘くなるからだろう。正直になろうとしたり、その恋愛に純粋になろうとすることは、さしさわりのない人間同士の間のことだ。未婚の男女の恋愛には、既婚者のように徹するような思慮があるだろうか。私は解らなくなってしまう。
 恋愛に就いて、正直も純粋も大切だとはおもうが、もっと大切なことは、自分の周囲にを散らさぬ用心だろう。つつましいほがらかな恋愛だったら、不貞と云いきれないような気がする。だが、かなしいことには人間同士だから、よっぽど用心しないことには泥まみれになり、あたりの人に笑われなければならない結果になることもあろう。
 恋愛をすれば、勿論もちろん肉体も精神もそれにともなってゆくべきだろうけれど、もしも私に、恋愛がみつかったならば、私は恋人に身心をささげながら妙なかしゃくを感じるだろう。私たちの生きている世代ではこれは不貞至極しごくなことだからだ。もしも、私にこんなことがあったら、何等なんら悲劇のともなわない恋愛などと口にしていてもしんではひどいかしゃくを感じるのはあたりまえの事だ。ひとの旦那様の恋愛と、ひとの奥様の恋愛をくらべてみると、月とすっぽんのような違いだ。ひとの奥様は恋をしてはならないのだ。支那へ行くと、目隠しをされた牛が水車をまわしている。牛を追う男は、時々煙草たばこを出して吸ったり、空を見上げたりして、眼を愉しませている。さしずめ旦那様はその牛を追う男で、女は目隠しをされた牛のようなものだろう。牛も目隠しをとって、四囲あたりをながめさして貰いたいものだ。
 美しくて朗らかで、誰にも迷惑を及ぼさない恋愛は童児たちでなければ望めないことかも知れない。精神的なものがあふれて来るほど、恋愛は悲劇的でものがなしくなって来る。恋愛の微醺とはどこの国へ行ったらあるのだろうか……。
 どこの国でも、恋愛物語で埋れているようでいて、恋愛の微醺を説いた物語は皆無だ。恋愛は生れながらにして悲劇なのだろう。悲劇でもよいから、せめて浪漫ロマン的な恋をとおもうが、すでに、世の中はせちがらくなっていてお互いの経済の事がまず胸に来る。
 夫婦同士は貧しくてもいいけれど、恋愛は貧しくては厭だ。しみったれて、けちけちした恋愛はまっぴらごめんだ。せめて恋愛の上だけでも経済を離れた世界を持ちたい。私はひとの奥さんだから、弱みそで困る。吸へどもかなし、ばらの花びら、こんな気持ちは心の上だけの遊びで、これもけむりのような懐情の一つ。
 未婚の者同士の恋愛は、どんな楽隊がはいってもいいからはなばなしくやってもらいたいものだ。巴里パリの街のアベックのように、未婚の者の美しい恋愛は、遠くからみていても、けっして厭なものじゃない。大いに微醺を享楽して貰いたいものだ。どんなに貧しい恋人同士でも、恋のさなかにあれば王侯のごとしである。新らしい恋愛には経済も必要かも知れないけれど、ささやかながら、秩序正しく清純であってほしい。
 私も、やがて、としをとれば、素晴らしい恋愛論が書けるようになるかもしれない。書けるようになりたいとおもっている。一人や二人の男を知っただけでは本当の恋愛なんて判らないのじゃないだろうか……。やがて、壮麗な恋愛論を一つ書きたいものだ。





底本:「林芙美子随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年2月14日第1刷発行
   2003(平成15)年3月5日第2刷発行
初出:「日本評論 昭和11年8月号」日本評論社
   1936(昭和11)年8月1日発行
入力:林 幸雄
校正:noriko saito
2004年8月10日作成
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