您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 牧野 信一 >> 正文

文学的自叙伝(ぶんがくてきじじょでん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-26 9:02:56  点击:  切换到繁體中文

父親からの迎へが來次第、アメリカへ渡るといふ覺悟を持たせられてゐて、私は小學校へ入る前後からカトリツク教會のケラアといふ先生に日常會話を習ひはじめてゐた。先生は日本語が殆んど不可能で、はじめは隨分困つたが、オルガンなどを教はつてゐるうちに私の英語と先生の日本語は略同程度にすすんだ。私は祖父から教會にあるやうな立派な燭臺やストツプのついたオルガンを買つて貰ひ、母親の琴と、六段や春雨を合奏した。電燈が點いて間もない頃だつたが祖父は電氣を怕がつて、行燈の傍らで獨酌しながら私達の合奏を聽き、醉が回つて來る時分になると、屹度、ほツほツほツとわらふやうな聲で泣いた。父親を知らぬ孫の巧みなオルガンの彈奏振りに感激するのであつた。ケラア先生は折々バイオリンを携へて私達を訪れた。祖父は鎖國思想の反キリスト教論者であつたが、そんな晩にはアメリカの息子が贈つて寄越したオイル・ラムプのシヤンデリアを燭して、最も簡單な意見を交換した。大體私が通譯官であつた。――私の父親は中學の課程からボストンに生活し、學生時代を終るとどういふわけで、また何んな程度の位置か知らなかつたが、電信技手となつて U.S.N.Stuckton なる水雷艇に乘つてゐた。造船所にも務めた。父の先輩や友人が乘つてゐる軍艦や汽船が横濱に着くといふ通知を受けると、山高帽子で紋付の羽織を着た祖父と私は人力車で國府津に出て汽車に乘つた。その度毎に私は父からの屆物であるといふ洋服や時計や望遠鏡や物語本などを貰つた。私はいつの間にか、少年雜誌のセント・ニコラスや、ニユーヨーク・タイムスのハツピーフリガン漫畫などを笑ひながら讀めるやうになつてゐた。然し渡航する機會もなく、祖父が歿くなつて、私が中學に入つた年に、父親は第一回の歸國をした。ところが私は、はじめて見る父親を何故か無性にバツを惡がつて一向口も利かうとしなかつた。とても今更空々しくつて、お父さん――などと呼びかけるのは想つても水を浴びるやうであつた、[#読点はママ]彼は、つまらぬつまらぬと滾して國府津の海岸寄りの方へ別居した。(述べ遲れたが、私の生地は神奈川縣小田原町である。)國府津町はその頃村で、東海道線に乘るためには電車で國府津へ向はなければならなかつた。自轉車に乘つて父のところへ遊びに行くと、いつもアメリカ人の友達が滯在してゐた。で私もそれらの家族伴れなどの人達に交つて、ピクニツクに加はつたり、凧をあげて見せたりするうちに、彼等と一緒になつて彼等の習慣の中であると、自然に父親とも親しめるやうになり、父と子は相對する場合でない限り、英語で口を利いた。私は、小學でも中學でも凡ゆる學科のうちで綴り方と作文が何よりも不得意で、幾度も〇點をとり、旅先などから母親にでも手紙が書き憎くかつたのであるが(母は私のハガキでも、私が戻るとそれを目の前に突きつけて、凡ゆる誤字文法を指摘した。第一文章が恰で成つて居らず、加けに無禮な調子であると訂正されるうちに、作文でも手紙でも私は、眞に考へたことや感じたことは、そのまま書くべきものではなく、左ういふことは餘程六ヶ敷い言葉を用ひて書くべきだ、左ういふ窮屈を忍んで、決りきつたやうな眞面目さうな、嚴しさうな、そして思ひも寄らぬ大袈裟な美しさうな言葉を連ねなければならぬのかと考へると、文字が亦、これはまた言語同斷といふ程拙劣であつて私は途方に暮れた。親戚などに父の代理として時候見舞などを書かされる場合に、母が傍で視張つてゐるのであるが、私には何うしても、末筆ながら御一同樣へも何卒宜しく御鳳聲の程を――などとは書けぬのであつた。)――父との左ういふ習慣がすゝむと、私は決してそんな冷汗を覺えることもなく、自由となり、未だ父を見なかつた頃からケラア先生に教つてゐたので書き慣れてもゐたのであるが、ちよつとした旅先からなどでも氣輕に、親愛ナル父上ヘとも、汝ノ從順ナル息子ヨリとも書けたし、お早ウ、父サン――などと、彼の友達が居る場合なら呼びかけることも出來た。私は父親の書架に旅行記の類ひばかりが充ちてゐるのを見て、そんなものばかりを耽讀するので家に落着かぬのかと思つた。そして私に、はじめてすすめた本はガリバア旅行記であつたが、私はほんの少し讀んだだけで何故か憂鬱になつて止めた。その書架にどんな本が竝んでゐたか殆ど記憶にないが、ローレンス・スターンの風流紀行センチメンタル・ジヤアネイといふのが酷く手垢に汚れてゐたのを、わづかに思ひ出すことが出來る。――中學を終る頃になると、そこに來る同年輩のアメリカ人の娘と私は盛んなる手紙のやりとりをするやうになつて、時には、君コソハ僕ノ永遠ノ女王デアリ、僕ハ君ノ最モ忠實ナル下僕デアル――となど、全くその通りの氣持で書き、また、斯ンナ月ノ美シイ晩ニ君ト腕ヲ組ンデ、斯ンナ靜カナ海邊ヲ歩イテヰルト、僕ノ魂ハ恍惚ノ彼方ニ飛ビ去リ、嬉シキ涙ガ滾レサウニナル、コレハ僕ニトツテ生涯ノ最モ美シキ思出トナルデアロウ――と、それも全くその通りの感銘を持つて喋舌つた。
 ところが私は(記述は前後するが)その後結婚の以前に三度もの戀愛を經驗したが、手紙は恰で駄目で、どんな類ひの手紙を貫つても[#「貫つても」はママ]容易にそれに匹敵するやうなことが書けず、それでも夢中になつて書くには書いたが讀み返すといつも全身が砥石にかかつたやうな堪らぬ冷汗にすり減つた。會つてもつい默り勝ちで、思はず欠伸をするやうなことになつたり、眞面目なことを云はなければならない場合に、つい空呆けて横を向いたりするやうな始末で、皆な失戀に終つた。どんなに熱烈に思つてゐても、四角張つた特に拙い漢字で、戀しき君よ……などとは書けず、また徹底的に眞面目さうな表情で、屹度結婚しようネ――などとささやいて、手などは握れなかつた。私は、あのアメリカの娘に示した態度や言葉の十分の一でも、この敬ふべき郷土の言葉をもつて驅使成し得るならば、と悲嘆に暮れた。思へば思ふほど、われわれの言葉や文字は、尊嚴に過ぎて、到底犯し得ぬ貴重なものに變つた。
 中學の四年頃(記述は前に戻るが)パジエツトといふ若い英語の先生と懇意になり、つい話しかけられると問はるるままに答へてゐた。英語の科目は凡て、終始滿點であつたが、それは當然のはなしで寧ろ濟まなく考へてゐた。何の先生とも個人的な口を利くことは絶對に嫌ひなものであつたが、パジエツトさんの場合は全く止むを得なかつたにも關はらず、いつか、毛唐となど得意さうに話して、あいつは生意氣だといふ評判が立つてしまつた。凡そ私は得意でなどはなかつたのであるが、家に戻ると娘を案内して(その時分はあんな手紙を書きもせず、特に恥しいといふことも知らぬ程度で)自轉車を竝べながらあちこちの風物などを説明しまはるのであるが、娘が呉れるネクタイを結ばなければ惡いやうな氣がして、制服を着換へてゐたのを、學生監に見つかつて停學處分を享けた。生意氣と見られれば途方もなく生意氣に相違なかつたらうが、終ひには墮落呼はりをされるに至つては私も餘程憂鬱にならずには居られなかつた。そして、學期末になると、體操の點が戍[#「戍」はママ]といふ最下等であつた。開校以來の出來事だ左うであつた。作文の丁は默頭けるのだが、さすがに體操の落第點といふのは、努力の仕樣もなく、途方に暮れるうちに、私は益々それが馬鹿々々しくなつて、號令をかけるのさへ嫌ひになつた。體操の教師は二人ゐたがTさんといふ錐のやうな眼の休職曹長が非常に私を憎んだ。どういふ意味か知らないがT先生はジヤツコラといふ綽名で、箱のやうな感じで、歩調の試驗だなどといふと、私ばかりを大勢の前に引き出して、やれ踵が二秒早く降り過ぎたの、脛がもう何ミリ前へ伸びぬからとかと飽くまでも難癖をつけて、他の者の十倍も長く歩かせるのだが、そんなにされれば益々氣持が上つてしまつて、思はずフラフラすると先生は堪らぬ罵聲を擧げて鞭を鳴らした。そして、これを見よと叫んで、自分の歩調の模範を示すのであるが、私には決してその差別が見わけ難かつた。私は、これほど人に憎まれた經驗を未だに比ぶべきものを知らない。――私は終ひにこれは何うも自然に任せるより他はないと觀念して、徒手體操の時になつても、決して力が入らぬやうな動作になつてしまつた。前腕ヲ平ラニ動カセ、オイツ! とか、首ヲ前後左右ニ曲ゲ――など割れるやうな號令の許に、あはや顎のかけがねが脱れんばかりな仁王のやうな大きな口をあけて、オイチ、二ツ、などと絶叫しながら、腕を力一杯に折つたり曲げたり、首などは石ころのやうに亂暴にあつちへ向けたりこつちへ曲げ倒したりして、その勢ひの最も獰猛なやつが甲上だなどといふT先生の訓練法に、私は自づと逆はずには居られなくなつた。先生は私の體操振りを目して、クラゲのやうだとか醉拂の態だとかと憤つて、腕が拔ける程引つ張つたり、首根つこを掴んで振り回したりしたが、責められれば責められる程否應なく私の動作は手應へもなく亡靈と化した。今にして思へば、私のあれらの體操振りは寧ろ現代的なる方法を髣髴する概があつたと思はれるのだ。今では何處の學校や海兵團の體操を見たつて、あんな馬鹿臭いのはありはしない。あんな體操なぞは凡そ肉體に不自然なる激動を與へるのみで終ひには精神作用までをも最も偏頗なる小局に乾干びさせてしまふ位のものである。個性と自然との純一を貴んでこそはぢめて心身のトレイニングに役立つべきで、今やあしたの霞を衝いて津々浦々までも鳴り渡るあの明朗至極なるラヂオ體操を見ても明らかの如く、正にあのやうなる悠かな窈窕味をもつて大氣に飽和し、自づと濶達なる人生の大呼吸を體得すべきが當然の所以は、かの偉大なるルツソオも既に「エミール」の中で縷々と述べて居り、更に世紀文明の太初に遡つては夙に大ソクラテス竝びに大プレトーンが全生命を傾注したる諧謔法を選んで永遠に若々しく呼號してゐる通りである。不幸なる私は、あの中學の體操に依つて犯罪妄想の如き心悸亢進の胚種を植ゑつけられた。兎角、肩肘張らしたる度偉い掛聲は人生を暗澹とさせるより他に効果はない。そこで私は或日思ひあまつて、あの體操に關する疑惑をパジエツト先生に訴へると、眞の日本流はあんな筈ではないであらう、またスパルタ流と雖もその趣きを異にするものだと私に同意せられ、君は明日にも、眞の自由と、誠なる個性を尊重する校風の、都の學園を索めて轉校すべきが當然だ――とすすめたが、私が轉校もしないうちに先生は京都の大學へ移られた。先生はエール大學のドクトル・オヴ・フイロソフイで、文藝にも餘程の理解を持つて居られたらしかつた。後にも私との手紙の往復は續いて、私が又作文丁をとつたことなどを知らせると、君は未だ作文に於ける Herald system を知らないまでだ、自分に呉れる手紙を見ると、いつも大層奇拔なるロマンテイツク・スピリツトに富んでゐて詩人の素質が十分だ、いつそ手紙を書く通りに自由に書き、それを和譯する方法をとつて見たら如何か、と注意されたので早速私は、よしツ! と胸を叩いて、その方法にとりかかつて見たが、和譯した文章を眺めると、拷問にかけられても他人の前には提出も敵はぬ幼稚沁みたものに見え、私は腕をこまねいてとつおいつなる長太息を洩らさずには居られなかつた。

[1] [2] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告