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貝殻追放(かいがらついほう)007

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-27 9:22:53  点击:  切换到繁體中文


 曾て乃木大將が腹を切つて死んだ頃、渡邊霞亭といふ小説家がその逸事を集めて小説體で書いた事があつた。勿論「一般讀者の感興を惹くこと」を專一としたもので、忠君愛國の結晶、勤儉尚武の模範として、主人公なる將軍を神の座に押直さうと努めたものであつた。その一節に、將軍の質素を物語るところがあつた。兵營から時たま歸つて來る夫を慰める爲に、夫人は夫の好物の豆腐はもとより、心づくしの料理を膳にのぼせてすすめたが、將軍は數々の料理の並んだのを見て反つて不機嫌になり、豆腐以外には一切箸をつけなかつた。食事が濟むと夫人に向つて、久々に我家でうまい食事をした喜びを述べた後で、「若し豆腐だけで、他のおかずがなかつたらもつとうまかつたらう」と將軍は云つたといふのである。此の話を讀んだ時に、自分は將軍の芝居氣の多かつた事には反感を持つて居たけれど、兎に角珍しい悲劇的性格の人として崇敬もしてゐたのが、意外に安つぽいけちな人間に思はれて來て不愉快だつた。教訓的の作品といふものは、屡々かういふ弊害に傾き易い事を知つて貰ひ度い。學校で教へる二宮金次郎や近江聖人を道具に使ふ修身よりも、狐や烏が物を云ふお伽噺が如何に深く子供の純美なる心に觸れるか。無理押しつけに押しつけて飮み込ませようとする修身が、殆んど教育的効果を持つてゐない事は、實際教育の任に當る人の常に嘆じてゐるところである。
「先生」が「物になつちや居ない」といふ批評は自分の甘受するところである。けれども吉村忠雄氏又は次郎生は、彼の作品が如何どういふ性質のものであるかを全然了解してゐない。如何に「文藝を解せざる卑賤の階級」の一人にしても、あまりに自負し過ぎた賤民である。作品の傾向を了解しないのは爲方が無いとしても、賤民の癖に斯くあれと指導してゐるその指導が、全く作者としての自分の常に避け度いと思ふところを目標としてゐるのだから、その標準から「物になつちや居ない」と罵られるのは寧ろ名譽だといつてもいい。
 吉村忠雄氏又は次郎生は「迅き事風の如きものの後には動かざること巖の如きものを、靜なること林の如きものの後には波瀾幾千丈といつた風のものを配するとか、坦々でなく紆餘曲折端睨すべからざる中に偉人の俤を偲ぶといふ風にするのが眞に是れ偉人を偉人として遇し、讀者の興味を彌が上にも湧き立たせ且は後世の人々をして其俤を偲ばしむる眞の方法」だと説いてゐるが、その單純淺薄な英雄化、戲曲化を避けるのが、眞に偉人を偉人として偲ばせるものだと自分は考へる。古來我國の歴史も戲曲も物語も、その中に現れる人物を、極端なる英雄豪傑聖人善人と、極端なる弱蟲卑怯者佞人惡人の二派に分ける慣習があるので、その折角の偉人豪傑、又は反對の惡人極道も、人形芝居の人形よりも更に遙に人間らしさを缺いたものになり下つてしまふ。吉村忠雄氏又は次郎生が要求する處も、即ち此の人間らしからぬ人間として「先生」を描けといふに外ならない。
 自分は「先生」が上野の山の砲聲を聞きながら西洋の經濟書を講義したといふ逸事や、伯爵に敍すると云ふのを拒んだといふ話などよりも、あれ程一から十迄警世の事に一身を任ねた人も家庭に於ては極端に子供を甘やかしたといふ話を聞いた時に、かへつて「先生」の人となりを懷しく思つた。自分は「先生」を曲解して、人形や土偶でくにはし度くない。「先生」を偉大なりと思ふ丈「先生」を人間扱ひし度いのである。
 お氣の毒ながら吉村忠雄氏又は次郎生は、單に文藝を解せざる「卑賤民」であるばかりでなく、全然文字を解さないのではないかとさへ疑はれる。それは「足下は言はん、先生は然る波瀾に富んだ性行の人ではなく世に平凡なる偉人と言はれし通り頗る常識の發達せる平凡なる人であつた」といふ聞き捨てならぬ一節である。自分の「先生」の何處に「先生」を平凡人だと書いてあるか。自分は吉村忠雄氏又は次郎生の考へる如く、常識の發達した人は即ち平凡人だなどゝいふ亂暴な考へは持つて居ない。又偉大なる人は必ず奇行に富むものだなどゝいふ間違つた考へも持つて居ない。「當時の人にしては奇想天外より落つるといふ樣なことばかりされた人である」とさもほこりかに詰問者は書立ててゐるが、「先生」の偉らかつたのは、最も吾々の生活を時勢の進歩に伴はせつつ合理的に導いた事にあるのであつて、滿洲浪人や衆議院々外團のやうな奇行を賣物にする徒輩と同列に見られては堪らない。乃木將軍は腹を切つたから偉いのではない。西郷隆盛は犬を引張つて立つて居るから偉いのではない。我が「先生」は腹ごなしに米をついたから偉いのではないのである。
 これで「先生」に對する答辯は濟んだから、ついでに斷つて置くが、「先生」は新作ではなくて大正一年か二年頃に、小説らしからぬ小説を書き度いといふ欲求の起り始めた時代のものである。特に末尾にその稿了の日附を記して置いたのだが、古い原稿を掲げる事は新聞社の喜ばぬところだつたと見えて、作者には無斷で削つてしまつた。
 次に質問されたのは「好きからに文筆を弄んでゐるのか或は本職的に沒頭してゐるのか」といふ頭腦あたまの古い連中のおきまり文句である。換言すれば道樂か本氣かといふのであらうが、自分の創作慾は〔十七字略〕政治家と稱される人間が憲政を弄ぶのとは、些か趣を異にして居る。自分は文筆で衣食はしてゐないが、それが本氣でない證據にはならない。銀行員が銀行の仕事ばかりしてゐたからといつて、必ずしもその人が本氣だとは限らない。要はその意志にあるので、外觀の差別は問題の外である。自分が勸善懲惡を專一にしたり、「卑賤階級」を顧客として創作をするのなら、それは本氣でないと云はれても爲方が無い。吉村忠雄氏又は次郎生の如き、お粗末な程簡短な人間には、手取早い職業別によつて、人を見る以上に人間性を見る丈の能力は無いに違ひない。
 更に粗雜なる頭腦の持主は、自分が數年間海外に留學したのは小説「汽車の旅」を書く爲ではなく、「必ずや其修め得た處のものを以て大いに活躍せんが爲であつたらう」と難じてゐるが、自分は「汽車の旅」を書く爲めに洋行したのだと答へても構はない。少くともあの一篇は自分が外國から歸つてから書いたものであるから、自分が何かしら海外で學んだものがあれば、それはあの中に含まれてゐる筈である。正直のところ自分は「先生」には自信が無いが、「汽車の旅」の方は多少自分の作品としては、いいものだと信じてゐる。學校で無理に教へる學問などよりも遙に尊いものが、あの小篇の中に潛んでゐる事を思ふと、自分は海外留學の徒事でなかつた事を滿足に思ふのである。
 吉村忠雄氏又は次郎生は、さも知つたふりをして「君が專門に修めたものでも確乎しつかりとやつたがいゝ」などゝ云つてゐるが、自分は此の人々が考へてゐるやうな意味で專門などは何もない。自分は一科の學問をする爲に外國へ行つたのでは無い。自分は自分を最もいい人間にする爲の教養を深めようとは思つてゐたが、本來自分の性質から云つても、罐詰の學問などは修め度くなかつた。「近親者」と名告りながら、その位の事も知らないのは、愈々「近親者」でない證據かと思ふと、自分にとつては限り無き喜びである。
 吉村忠雄氏又は次郎生は「卑賤階級」の人間に特有な「今や國事は日日に多端で三文文士の御託を聞くよりも一人でも多くの實際家を必要としてゐる」と、よく實業家と稱される人間の中の、金力と頭腦の力の不平均なものが、はづかし氣も無く繰返す言葉を口にして自分の教養の無い事を正直にさらけ出した。目前の好景氣に浮調子となつた成金は、如何に頭腦の無い「實際家」の集團によつて國民が衰頽デジエネレエトするかを知らないのである。今「國事日日に多端」なる時に最も必要なのは、ハンマアばかり握つてゐて頭腦の空虚な人間が不必要だと思つて居る人間そのものである。原始時代の人間は食物丈で生きて居たかもしれないが、文明の世の中に於ては人は思想なくしては生甲斐が無いのである。
 匿名好きの吉村忠雄氏又は次郎生は、水上瀧太郎の匿名を何故か威たけだかに詰問してゐる。見聞の狹い「卑賤民」は雅號は單に下の名前丈を變へるものだと考へてゐるが、東西古今を問はず、幾多の文人墨客の中には全姓名に變名を換へ用ゐた例がいくらもある。ピエル・ロテイ、ジヨオジ・サンドなどいふのも筆技名ノン・ド・プリユムである。江戸時代の戲作者の殆んどすべてが本名を用ゐてゐない事は、勸善懲惡主義の匿名好きの吉村忠雄氏又は次郎生も先刻承知の事であらう。近くは春之舍おぼろ、嵯峨之舍おむろ、二葉亭四迷の如き、更に新しいところで太田正雄氏の如きは木下杢太郎、きしのあかしや、地下一尺生、その他めまぐるしい程の變名を用ゐてゐる。自分が自分の崇敬する明治大正の一大藝術家泉鏡花先生の作中の人物の姓名を無斷借用して水上瀧太郎ととなへたのは、別段深い意味はない。子供の時分から物を書く時には、親のつけた名前よりも自分自身で考へた名がつけ度かつたので、さうした迄の事である。しきりに「近親者」だ「近親者」だとしつつこく云ひながら、ちつとも本當の自分を知らないところを見ると、吉村忠雄氏又は次郎生は人違ひをしてゐるのではないかとも疑はれる。斷つて置くが自分の本名は阿部章藏である。
 吉村忠雄氏又は次郎生の愚にもつかない質問に長々と答へながら、自分は自分の正直過ぎるのが馬鹿々々しくなつたが、考へて見ると吉村忠雄氏又は次郎生の如き「卑賤民」は數に於て恐るべき勢力を持つてゐるのであるから、自分が本氣で努力してゐる藝術の爲にも、勞をいとはず返答しなければならないやうにも思はれる。讀者恐らくは、馬鹿々々しい詰問に取合つてゐる自分の愚を救ひ難しとするであらうが、その自分の馬鹿正直をさして即ち「愚者の鼻息」と題したのである。(大正七年六月十八日)

――「三田文學」大正七年七月號





底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
   1940(昭和15)年12月15日発行
入力:柳田節
校正:門田裕志
2005年1月19日作成
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