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新しい文学の誕生(あたらしいぶんがくのたんじょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-2 10:45:15  点击:  切换到繁體中文


 わたしたちのきょうの生活をリアリスティックに見つめれば、人民の殆んどすべてが日向と日かげの境で暮している。わるいことといいこととのまだらを身につけて生きざるを得ない状態である。今日の生活としてだれしもやむを得ないことは、その程度のちがいだけであるところまで辷りこむと、本質をかえて社会悪となり、また犯罪的性格をもつようになってしまう。公然のうそが、わたしたちの生活にある。うそであることを政府も人民も知っている。だけれどもうそわるいこととも知っている。モラルの基準もぐらついている。百万円の宝くじに当った人はバクチ打ちとして捕えられない。けれども、バクチは千葉県の競馬場でも大騒動して検挙されているし、新宿もそれでさわいだ。五十円の宝くじを買って、百万円あたる、ということはバクチでないだろうか。勤労の所得と云えるかしら。政府が赤字やりくりのために思いついて、先ず五十円券をどっさり買わせ、それで第一段儲け、ついで五人のひとに百万円あてさせて、こんどは売れのこりに一本あったから四百万円だけはらって、それが何かの形でまた逆にかえって来て、金まわりを助けてゆく。こういうことは、わたしたちの常識にとっては異状に見える。堅実に、堅実に、耐乏して生産復興と云われ、勤労者はその気で生きている傍で踊子たちが宝くじのぐるぐる廻るルーレットを的に矢を射ている。しかし、きょう勤労するすべての人に企業整備の大問題が迫っている。税の問題がある。
 社会のこういう矛盾と撞着、それをみんなが知っているくせに、いちいちおどろいたり、苦しんだりしないような顔でいるくせになってしまった。しかも心は晴れていない。ロシア文学の古典の中でも、いま日本に流行しているのは、プーシュキンやゴーゴリの作品でなく、その文学の世界が、永久の分裂で血を流しているドストイェフスキーであるという事情には、いまの日本のこの社会的な心理がかかわっている。解決のない人間の間の利害や心理の矛盾、無目的な情熱の絡み合いの世界を、坂口安吾より太宰治より濃厚に戦慄的に描き出しているドストイェフスキーの文学は、目的のはっきりしない社会混乱のなかに生きているきょうの若い人の心をひきつける。その相剋の強烈さで。その暗さの深さで。自分が感じている明るくなさや、ひとも自分も信じがたさを、刺戟し、身ぶるいさせる自虐的な快感でひきつけられているのだと思う。

 ここで、再びわたしたちは、文学にふれてゆく機会が偶然であるという事実と、ある文学にひきつけられるモメントの問題に立ちかえってみる。
 こういう現実の事情で、人々のうちにある文学の種や芽は全く今日戦争後の廃墟の間にばらまかれている有様だと云えると思う。わたしたちが激しい現実を生きてゆく道で、偶然に接触するいろいろの現象を箱入り風にあらかじめ選んでゆけるわけはない。肉体とともに精神も、実に荒っぽくもまれる。エロティックなものにもふれ、人格分裂の風景にふれる。その、それぞれに反応する生きた心を生きている。その波風の間で、では、何がわたしたちの日夜、まともに伸びたいとねがっている人間性の砦となり、その人の文学の足場となってゆくのだろう。
 平凡だと思われるほどすりへることのない一つの真実がある。それは、一人一人のひとが、自分のまともに生きようとする願望について不屈であることである。過去の文学談では、こういう問題は、文学以前のことという風に扱われる習慣があった。いまでも、そういう流儀はのこっている。しかし、それは間違っている。
 わたしたちが、ほんとにこの社会でまともに生きようとするとき、現実とその願望との間には忽ち摩擦がおこって、いやでも応でも私たちに、自分のこの社会での立場、属している階級の意味を目ざまさせる。勤労して生きているものの人生の内容と、徒食生活の男女の生活内容の絶対のちがいは、一つの恋愛小説をよめば、まざまざとしている。二十四時間を、八時間から九時間以上職場にしばられ、千八百円でしめつけられつつ家族の生活をみている正直な勤労者の青春にとって、きょうの猟奇小説と、ロシアの人民が暗黒のなかに生を苦しんでいた時代のドストイェフスキーの世界は、何を与えるだろう。しかし、偶然は、そういう作品をも或る休みの日の夜、人々の手にとらせるのだ。その人は、何の気もなしに読む。そして何と思うだろう。どんな感じがしただろう。
 勤労して生きるすべての人の新しい文学の胎動と可能のめざめは、この単純な、どんな感じがしたか、というところに源泉をもっているのである。読ますことは読ますが、どうも。そういう感じもある。ドストイェフスキーってなるほど大したものらしいが、しかし、カラマゾフの世界が、これからの現実に再びあるとしたらどうだろう。社会の歴史は、どっち向きに動くはずのものなんだろう。そういう疑問もあり得る。
 どれも、文学の作品批評とは云えないかもしれない。そんなにまとまってはいない。だけれども、どだい文学というものは、非常に複雑な世界の底を、びっくりするほど単純で、しかもまじりけないもので支えられているのがその本質である。それは、どうしてだろう? という疑問と、何故? という問いかけである。バルザックの世界、トルストイの世界、小林多喜二の世界の底に、一つの、どうして? が存在する。この根本的な疑問を、それぞれの作家が、どんな歴史の見かたで、どんな歴史のなかで、どんな階級の人として、どんな方法で追究し、芸術化して行ったかが、作品形成の一つの過程である。
 きょう作品を読む人々は、自分が現代の日本の現実の中に働いて生きるものとして生きているという社会的な本質にたって、まともに生きようと欲している、という人生のテーマと、そこにある感覚をしっかりもって、ふれる文学作品の一つ一つについて、心にひきおこされる直感的な判断を大切に保って、それを社会的に文学的に成長しつつ深め展開させて行ってこそ、はじめて、その人としての文学が生れるめどがつかまれて来る。そういう心でよんでみれば、古典から現代作家の、国内国外のあらゆる作家が、それぞれに見事な業績をのこしながらも、ほんとに自分の云いたいこと、あらわしてみたい心、描きたい情景だけは、誰もかいていないことを見出して、どんなおどろきと、新しい世界の発見にうたれるだろう。
 多くの文学作品をよんだあと、人はやがて自分で書くようになる、という事実は、決してただ書きかたがわかった結果ではない。他の人々が精神こめて、一生かかって芸術化した世界は、これほどどっさりあるのに、こんな小さい自分の人生であっても、やっぱりほかの誰にもかかれていず、自分しか書けないことがあるのだ、という発見こそ、その人を謙遜な勇気にふるいたたせ、人生の豊富さと人間社会の歴史の貴重さに感動させる。歴史が前進しないものなら、過去の天才は文学のテーマをかきつくしてしまえたろう。その人が自分の社会的・階級的人生を発見したからこそ、そこにおこるすべてのことの人間らしい美醜、悲喜の歴史的意味を知り、自分をもある時代の階級的人間の一典型として、客観的に描き出してゆく歓喜を理解するのである。
 わたしたちの人生と文学の偶然はこうして、偶然から意味ふかい必然に移ってゆく。リアリズムは、人間の生きる社会とその階級の歴史と個人の複雑な発展の諸関係を、社会の歴史と個人の諸要因の綜合的な動きそのものの中で現実的に掴もうとする本質によって、文学の最も強固な手法である。リアリズムが人間の芸術表現にとって大地のような性質だということは、すべての架空な物語、幻想をとりあげてしらべてみるとわかる。どんな虚構、どんな作為のファンタジーにしても、それが文学として実在し、読者の心に実在感をもってうけいれられるためには、力をつくして、そのファンタジーや、ディフォーメーションにそのものとしての現実性を与えることに努力しているのである。

〔一九四八年三月〕





底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「勤労者文学」創刊号
   1948(昭和23)年3月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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