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源氏物語(げんじものがたり)35 若菜(下)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 9:56:02  点击:  切换到繁體中文


 紫夫人の大病のために法皇の賀宴も延びて秋ということになっていたが、八月は左大将の忌月きづきで音楽のほうをこの人が受け持つのに不便だと思われたし、九月はまた院の太后のおかくれになった月で、それもだめ、十月にはと六条院は思っておいでになったが、女三にょさんみやの御健康がすぐれないためにまた延びた。衛門督えもんのかみの夫人になっておいでになる宮はその月に参入された。しゅうとの太政大臣が力を入れて豪奢ごうしゃな賀宴がささげられたのである。病気で引きこもっていた衛門督もその時はじめて外出をしたのであった。しかもそのあとはまた以前にかえって、病床に親しむ督であった。女三の宮も御煩悶はんもんばかりをあそばされるせいか、月が重なるにつれてますますお身体からだがお苦しいふうに見えた。院は恨めしいお気持ちはあっても、可憐かれんな姿をして病んでおいでになる宮を御覧になっては、どうなるのであろうと不安を覚えておなげきになることが多かった。祈祷きとうをおさせになることで御多忙でもあった。法皇も宮の御妊娠のことをお聞きになって、かわいく想像をあそばされ、いたく思召おぼしめされた。長く六条院は二条の院のほうに別れておいでになって、おたずねになることもまれまれであると申し上げた人も以前あったことによって、御妊娠がただ事の結果でなくはないのであるまいかとふとこんなことを思召すとお胸が鳴るのでもあった。人生のことが今さら皆お恨めしくて、紫夫人の病気のころは院があちらにばかり行っておいでになったのを、もっともなこととはいえ、思いやりのないこととして聞いておいでになったが、夫人の病後も院の御訪問はまれになったというのは、その間に不祥なことが起こったのではあるまいか。宮が自発的に堕落の傾向をおとりになったのではなく、軽薄な女房の仕業しわざなどで不快な事件があったのではなかろうか、宮廷における男女の間は清潔な交際で終始しなければならないものであるのに、その中にさえ醜聞を作る者があるのであるからと、こんなことまでも御想像あそばされるのは、いっさいをお捨てになった御心境にもなお御子をお思いになる愛情だけは影を残しているからである。法皇が愛のこもったお手紙を宮へお書きになったのを、六条院も来ておいでになる時で拝見されたのであった。
用事もないものですから無沙汰ぶさたをしているうちに月日がたつということもこの世の悲しみです。あなたが普通でない身体からだになって健康もそこねているということをくわしく聞きましたが、今はどうですか。世の中が寂しくなるような運命に出あっても、忍んでお暮らしなさい。恨めしがる様子をお見せになったり、ねたみを告げたりすることは上品なものではありません。
 などとさとしておありになるのである。院はお気の毒で、心苦しくて、宮に秘密のあることなどはお知りあそばされずに、自分の不誠意とばかり解釈しておいでになるのであろうとお思いになって、
「お返事はどうお書きになりますか。心苦しいお手紙で私はつらい気がしますよ。あなたにどんなことがあっても、人に変わった様子は見せまいと私は努めているのですよ。だれがいろいろなことを申し上げたのだろう」
 とお言いになると、恥じて顔をおそむけになる宮のお姿が可憐かれんであった。顔がすっかりせて物思いに疲れておいでになるのが上品に美しい。
「あなたの幼稚な性質を知っておいでになって、こんなにもお言いになるのだと、私は他のことと思い合わせてごもっともだと思われる点がありますよ。それで今後もあぶなかしく思われてならない。こんなふうに言ってしまおうとは思わなかったことですが、院が私を頼みがいなく思召すだろうと思うことが苦痛ですからね。あなただけにでも私が軽薄な者でないことを認めてほしいと思うのですよ。深く物をお考えにならないで、人のいいかげんな言葉にお動きになるあなたには、私のほんとうの愛が浅いものに見えもするでしょうし、またあなたとは年齢としの差のはなはだしい良人おっと軽蔑けいべつしたくもなるでしょうけれど、私としてそれを残念に思わないわけはありませんが、院の御在世中だけは、これを幸福な道としてお選びになったことですから、老いた良人をもあまり無視するようなことはお慎みになるがいいのですよ。昔から願っている出家の志望も、自分よりは幼稚な宗教心しか持つまいと思っていた女の人たちが先に実行するのを傍観しているのも、私自身がこの世の欲を捨てえないのではなくて、出家をあそばす際にはあなたをお託しになった院のお志に感激した心が、すぐまた続いてあなたを捨てて行くような行動を取らせなかったのですよ。以前は気がかりに思われた人も今ではもう出家のほだしにならないだけになっているのです。女御だってどうなるか知りませんが、皇子たちがおえにもなってゆくのですから、後宮の地位などは問題にさえせねば苦労のない立場を得られることだけはできると私も見ておけます。そのほかの人たちは成り行きのままで、私といっしょに出家をしてしまってももういいほどの年齢としになっているとこのごろでは思われます。院ももう長くはおいでにならないでしょう。以前よりいっそうお身体からだが弱くおなりになって、心細い御様子でいらっしゃるとのことですから、今になって悪い名などをお耳に入れて御心配をかけてはいけませんよ。この世は何でもありませんが、来世のお妨げになることをしてはあなたの罪も大きくなりますよ」
 そのことと露骨にお言いにならないのであるが、しみじみとお説きになるために、宮は涙ばかりがこぼれて、知らず知らずめいり込んでおしまいになったのを御覧になる院も、お泣きになって、
「他の人がこうしたことを言うのを、聞く必要もない老人としより理窟りくつだと思った私だが、いつのまにかそれを言うほうの人に私がなっている。よけいなことを言う老人だとお思いになっていっそういやになるでしょう」
 ともお言いになって、すずりを引き寄せて御自身で墨をおすりになり、紙をおりになりなどして、お返事を書かせようとされるのであるが、宮は手もふるえてお書きになれない。あの濃厚な言葉の盛られてあった衛門督えもんのかみの手紙の返事はこんなに渋らずに書かれたであろうとお思いになると、また反感が起こるのでもおありになったが、それでも院は言葉などを口授くじゅしてお書かせになった。
「お伺いになることはこんなことで今月もだめでしたね。それに新婚者の女二にょにみや派手はでな御賀をおささげになった時に、老人の妻であるあなたが競争的に出て行くのは遠慮すべきだと思いましたよ。十一月はあなたのお母様の忌月でしょう。十二月はあまりに押しつまってよろしくないし、あなたの身体からだも見苦しくなるだろうから、久しぶりにお姿を御覧に入れるのはいかがかと思いますが、しかしそうそう延ばしてよいことでありませんからね、あまり物思いをしないようにして、朗らかな心になって、せたお顔のなおるようにまずなさい」
 などとお言いになって、さすがにかわいくは思召すのであった。
 衛門督をどんな催し事にも必要な人物としてお招きになって御相談相手に今まではあそばす院でおありになったが、今度の法皇の賀に限って何の仰せもない。人が不審がるであろうとはお思いになるのであるが、その人が来てはずかしめられた老人である自分の見られることも不快であるし、自分が彼を見ては平静で心がありえなくなるかもしれぬと院はお思いになって、もう幾月も参殿しない人を、なぜかとお尋ねになることもないのである。ただの人たちは衛門督が病気続きであったし、六条院にもまた音楽その他のお催しの全くない年であるからと解釈していたが、左大将だけは何か理由のあることに違いない、多感多情な男であるから、自分が推測していたあの恋で自制の力を失うようなことがあったのではないかとは見ていても、まだこれほど不祥なことが暴露してしまったとは想像しなかった。
 十二月になった。十幾日と法皇の御賀の日が定められて六条院の中は用意に忙しくなった。二条の院の夫人はまだそのまま帰らずにいたが、御賀の試楽があるのに興味を覚えてもどってきた。女御にょごも実家にいた。今度のお産でお生まれになったのもまた男宮であった。次々に皆かわいい宮様を夫人はお世話することに生きがいを覚えていた。試楽の日は右大臣夫人も六条院へ来た。左大将は東北の御殿でそれ以前にすでに毎日監督する舞曲の練習をさせていたから、花散里はなちるさと夫人は試楽の見物には出て来なかった。衛門督えもんのかみをこの試楽の日に除外するのは惜しく物足らぬことであると院はお思いになったし、それ以上にまた人の不審を引くことをお恐れにもなって、来るようにと使いをお向けになったが、病の重いことを申して督は出て来ようとしなかった。病気といっても何という名のある病をしているのでもないわけであるが、やましく思う点があるのであろうと、心苦しく思召して、特使をさえもおやりになって招こうとあそばされた。父の大臣も、
「なぜ御辞退をしたかね。何か含むことでもあるように院がお思いになるだろうに。大病というのではないのだから、無理をしても参ったほうがよい」
 と勧めていたところへ再度のお使いが来たのであったから、つらい気持ちをいだきながら参った。それはまだ他の高官などの集まって来ない時分であった。これまでのようにお座敷の御簾みすの中へ衛門督をお入れになって、院御自身はまた一つの御簾を隔てた奥のお居間においでになった。うわさのとおりに非常に痩せて顔色が悪かった。平生もはなやかな派手はでな美しさは弟たちのほうに多くて、この人は深く落ち着いた静かな風采ふうさいによさのあった人であるが、今日はことにおとなしい身のとりなしで侍している姿を、内親王の配偶者として見ても相応らしい男であるが、その関係の正しくないのが不快だ、憎悪ぞうおを覚えずにはおられないのであると院は思召したが、さりげなくしておいでになった。
「機会がなくてあなたにも長くいませんでしたね。長く病人の介抱をしていて何の余裕もなくてね、前からここへ来ておいでになる宮が、院の賀に法事をして差し上げたいと言っておられたのが、いろいろな故障で滞っていてね、今年も暮れになったので、これ以上延ばすこともできず、以前に計画したとおりのことはととのわないが、形だけでも精進のお祝いぜんを差し上げる運びになって、賀宴などというとたいそうだが、親戚しんせきの子供たちの数がたくさんにもなっているのだから、それだけでも御覧に入れようと思って舞の稽古けいこなどをさせ始めたものだから、せめてそれだけでもうまくゆくようにと思って、拍子が合うか試してみるのですが、指導をしていただくのに、だれがよいかともよく考える間がなくてあなたに御面倒を見てもらうのがよいときめて、長くおいでもなかったお恨みも捨てたわけですよ」
 とお言いになる院の御様子に、昔と変わった所もないのであるが、衛門督は羞恥しゅうちを感じて自身ながらも顔色が変わっている気がして、急にお返辞ができないのであった。
「長らく奥様がたが御病気をしておいでになりますことを承っておりまして、御心配を申し上げながら、前からございました脚気かっけがしきりに出てまいりまして、歩行が困難でございましたために御所へ上がることができませんで、すっかり世の中から隔離されましたような寂しい生活をいたしておりました。院がおめでたい年に達せられますので、年来の御交誼こうぎに対してまずお祝いを申し上げなければと父が申しておりましたが、関白を拝辞しました自分が表だって出ることよりも、地位は低くとも中納言の私が主催するのが妥当であると父は考えるようになりまして、私の誠意をお目にかくべきだと勧められましたものですから、病体をおしてあちらへはお伺いいたしたのでございます。いよいよお寂しい静かな御生活のように拝見いたしましたあちらの御様子では、はなやかな賀宴をお持ち込みあそばすようなことは恐縮なされるだけではないかと拝察されまして、こちら様の御質素な御計画はかえって御満足になることかと存ぜられます」
 と衛門督えもんのかみが申すと、華奢かしゃを尽くしてお目にかけたという前日の賀宴を女二の宮の関係でしたとは言わずに、父のためにしたと話すのに心の鍛錬のできていることがうかがわれると院は思召された。
「私の所でやらせていただくことはこのとおりに簡単なことであるのを見て、一概に悪く言う人もあるであろうと思っていたが、理解のあるお言葉を聞いて、さすがにとあなたにはいよいよ敬意が払われる。大将は役人としては少しは経験ができたようでも、そうした繊細な観察をすることなどは、得意でもないだろうがいっこうだめですよ。法皇はあらゆる芸術に通じておいでになるが、その中でも最も音楽の御造詣ぞうけいが深いから、それらに遠ざかっておいでになる御出家後といえども院が御覧になるのだと思うと晴れがましいのですよ。あの大将といっしょに、舞い手になる子供へ、心得べきことをよく注意しておいてくれたまえ。専門家の師匠というものは自身の芸には偉くても融通のきかないものだから」
 などとお命じになるなつかしい味のある院の御様子をうれしく拝しながらもまた衛門督は恥ずかしく、きまり悪く思われて、言葉少なにしていて少しも早く御前を立って行きたいと願われる心から、以前のように細かい話しぶりは見せずにいるうち、ようやく願いどおりにここを去るによい時を見つけた。東北の御殿で大将がかかりになって十分に用意してあった舞い手と楽人の衣装などが、また衛門督の意見によって加えられるものもできた、その道には深く通じている衛門督であったから。今日は試楽の日なのであるが、これだけを見物するのにとどまる夫人たちも多いため、目美しくして見せるのに、賀の当日の舞い人の衣装は、明るい白橡しろつるばみに紅紫の下襲したがさねを着るはずであったが、今日は青い色を上に臙脂えんじを重ねさせた。今日の楽人三十人は白襲しろがさねであった。南東の釣殿つりどのへ続いた廊のへやを奏楽室にして、山の南のほうから舞い人が前庭へ現われて来る間は「仙遊霞せんゆうか」という楽が奏されていた。ちらちらと雪が降って、もう隣へ近づいた春を見せて梅の微笑ほほえむ枝が見える林泉の趣は感じのよいものであった。
 縁側に近い御簾みすの中に院のお席があって、そこにはただ式部卿しきぶきょうの宮が御同席され、右大臣の陪覧する座があっただけである。以下の高官たちは皆縁側に席をして、そこには形式を省いた饗応きょうおうの物が出されてあった。右大臣の四男と、左大将の三男、それに兵部卿ひょうぶきょうの宮の御幼年の王子お二人の四人立ちで万歳楽が舞われるのであるが、皆小さい姿でかわいかった。四人とも皆高い貴族の子供たちで風貌ふうぼうが凡庸でない。皆にいたわれながら小公子たちは登場した。また大将の典侍腹てんじばらの二男と、式部卿の宮の御長男でもとは兵衛督であって今は源中納言となっている人の子のこの二人が「※(「鹿/章」、第3水準1-94-75)こうじょう」、右大臣の三男が「陵王りょうおう」、大将の長男の「落蹲らくそん」のほかにも「太平楽」「喜春楽」などの舞曲も若い公達きんだちが演じた。日が暮れてしまうと御前の御簾は巻き上げられて、音楽にも舞にもおもしろみが加わってゆく。かわいい姿の御孫の公達は秘伝を惜しまずそれぞれの師匠が教えた芸に、よい遺伝からの才気の加味された舞をだれもだれもおもしろく見せるのを、皆かわいく院は思召おぼしめした。老いた高官たちは皆落涙をしていた。式部卿の宮も御孫の芸にお鼻の色も変わるほど感動されたのであった。六条院が、
「年のゆくにしたがって酔い泣きをすることがますますはげしくなってゆく。衛門督えもんのかみのおかしそうに笑っておられるのが恥ずかしい。歳月はさかさまに進むものではないからね。あなたがたでも老いはのがれられないのですよ」
 と言ってその人の顔を御覧になる。だれよりもまじめに堅くなっていて、偽りでなく身体からだの具合も悪く思われ、おもしろいことも目にとまらぬ気持ちになっている衛門督を、お名ざしになり、酔態に託してこう仰せられるのは戯れらしくはあったが、その人ははっと胸がとどろいて、めぐって来た杯は手に取ってもただ少ししか飲まないのを、院は見とがめになって、御座からたびたび侍者に酒を持たせておつかわしになり、おしいになるのを、困りながら辞退する取りなしなども、平凡な人とは見えず感じよく院はお思いになった。身心の苦痛に堪えられなくなって衛門督はまだ宴の終わらぬうちに辞して帰ったが、悪酔いからさめることのできないのは、院をのあたり見て罪の自責に苦しんだために逆上したのであろうが、それほど臆病おくびょうな自分ではなかったはずであるがと悲しんだ。一時的な酒精の毒ではなくてそのまま衛門督は寝ついて重い容体になった。衛門督の父母がよそに置いてあるのが不安になり、自邸へつれもどすことにしたのを、夫人の宮の悲しがっておいでになるのがまた衛門督には苦しく思われた。何事もなかった間は、衛門督自身も、宮をお愛しする情熱のありなしすら忘れているほどの良人であったが、もうこの世での別れかもしれぬと予感される今日の心には、宮をお残しして行くことが悲しくて、未亡人の寂しい人におさせするのが堪えられない苦痛に思われ、またもったいなくも思われなげかれるのであった。宮の御母の御息所みやすどころも非常に悲しんだ。
「世間のならいでは親は親として、御夫婦というものはどんな時にもごいっしょにおいでになることになっています。あちらへ移っておしまいになって、御回復なさるまで別々においでになるのは、宮様のためにおかわいそうなことですから、せめてもうしばらくの間こちらで養生をなさいませ」
 この人が病床との隔てに几帳きちょうだけを置いて看護をしているのである。
「ごもっともです。私ごとき者と結婚をしてくださいました宮様のためには、せめて私が長生きをして相当な地位を得るように努力せねばならぬと心がけてはいたのですが、こんな病人になってしまいましては、私の愛がどれほどのものであったかを宮様にわかっていただけないで終わるかと思いますことで、もう命の助からぬような気のしますうちでも、死なれぬ気がするのです」
 などと泣き合っていて、迎えようとするのに、すぐに移っても来ないのを母の夫人は気づかわしがって、
「そんな場合に、どうして親の所へ来ようとあなたは思ってくれないのだろう。私が病気をする時には、おおぜいの子供の中でも特にあなたがそばにいてほしく、またいてくれれば頼もしくてうれしいのだのに、いつまでもなぜそちらにあなたはいる」
 こんなことを使いに言わせて来るのにももっともなところがあって、衛門督えもんのかみは母へ同情をせずにはおられないのであった。
「私がいちばん初めに生まれたためなのでしょうが、大事にされていまして、こんなになってもまだ母はかわいがりまして、しばらくの間でもわずにいることを苦しがるのですから、もう頼み少ない病状になっている際に、母の逢いたがる心を満足させないのは未来の世までの罪になるだろうと思われますから、とにかく病床をあちらへ移します。もういよいよ危篤になったというしらせがありましたら、そっと大臣邸へおいでなさい。必ずもう一度お目にかかりましょう。ぼんやりとした性質なものですから、気もつかずにあなたを不愉快におさせしたような場合もあったであろうと思われますのが残念でなりません。こんなに短命で終わろうとは思いませんで、長い将来に誠意をくんでいただける日が必ずあるもののように思って安心していました」
 と、衛門督は宮に申して、泣く泣く父の家へ移って行った。宮はあとに思いこがれておいでになった。大臣家では病人の扱いに大騒ぎをして、祈祷きとうやその他に全力を尽くすのであった。病は最悪という容態でもない。ただ食慾しょくよくがひどく減退して、もうこちらへ来てからは果物くだものをさえ取ろうとしなかった。教養の足りた優秀な高官と見られている人が、こんなふうに頼み少ない容体になっていることを世間は惜しんで、見舞いを申し入れに来ぬ人もない。宮中からも法皇の御所からもしばしばお見舞いの御使みつかいが来て、衛門督の病状を御心痛あそばされているのを見ても、両親は悲しくばかり思われた。六条院も非常に残念に思召おぼしめして、たびたび懇切なお見舞いの手紙を大臣へ下された。左大将はまして仲のよい友人であったから、病床へもよくたずねて来て、衛門督をいたましがっていた。
 法皇の御賀は二十五日になった。現在での花形の高官が重い病気をしてその一家一族の人たちがうれいに沈んでいる時に決行されるのは寂しいことのように院はお思いになったが、月々に支障があって延びてきたことであったし、ぜひ今年じゅうにせねばならぬことでもあったから、やむをえぬことだったのである。院は姫宮の心情を哀れにお思いになっていた。かねての計画のように五十か寺での御誦経ずきょうが最初にあって、法皇のおいであそばされる寺でも大日如来だいにちにょらいの御祈りが行なわれた。





底本:「全訳源氏物語 中巻」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年11月30日改版初版発行
   1994(平成6)年6月15日39版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年1月15日44版を使用しました。
入力:上田英代
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年2月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



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