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あそび(あそび)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 17:07:25  点击:  切换到繁體中文


 木村は「非常持出」と書いた札の張ってある、煤色すすいろによごれた戸棚から、しめっぽい書類を出して来て、机の上へ二山に積んだ。低い方の山は、其日々々に処理して行くもので、その一番上に舌を出したように、赤札の張ってある一綴ひとつづりの書類がある。これが今朝課長に出さなくてはならない、急ぎの事件である。高い方の山は、相間あいま々々にぽつぽつ遣れば好い為事である。当り前の分担事務の外に、字句の訂正を要するために、余所よその局からも、木村の処へ来る書類がある。そんなのも急ぎでないのはこの中に這入っている。
 書類を持ち出して置いて、椅子いすに掛けて、木村は例の車掌の時計を出して見た。まだ八時までに十分ある。課長の出勤するまでには四十分あるのである。
 木村は高い山の一番上の書類を広げて、読んで見ては、小さい紙切れに糊板のりいたの上の糊を附けて張って、それに何やら書き入れている。紙切れは幾枚かを紙撚こよりつないで、机の横側に掛けてあるのである。役所ではこれを附箋と云っている。
 木村はゆっくり構えて、絶えずこつこつと為事をしている。その間顔は始終晴々としている。こういう時の木村の心持は一寸説明しにくい。この男は何をするにも子供の遊んでいるような気になってしている。同じ「遊び」にも面白いのもあれば、詰まらないのもある。こんな為事はその詰まらない遊びのように思っている分である。役所の為事は笑談じょうだんではない。政府の大機関の一小歯輪となって、自分も廻転しているのだということは、はっきり自覚している。自覚していて、それを遣っている心持が遊びのようなのである。顔の晴々としているのは、この心持が現れているのである。
 為事が一つ片附くと、朝日を一本飲む。こんな時は木村の空想も悪戯いたずらをし出す事がある。分業というものも、貧乏くじを引いたもののためには、随分詰まらない事になるものだなどとも思う。しかし不平は感じない。そんならと云って、これが自分の運だとあきらめているという fatalisteファタリスト らしい思想を持っているのでもない。どうかすると、こんな事はめたらどうだろうなどとも思う。それから罷めた先きを考えて見る。今の身の上で、ランプの下で著作をするように、朝から晩まで著作をすることになったとして見る。この男は著作をするときも、子供が好きな遊びをするような心持になっている。それは苦しい処がないという意味ではない。どんな sportスポオト をしたって、障礙しょうがいしのぐことはある。また芸術が笑談でないことを知らないのでもない。自分が手に持っている道具も、真の鉅匠きょしょう大家の手に渡れば、世界を動かす作品をも造り出すものだとは自覚している。自覚していながら、遊びの心持になっているのである。ガンベッタの兵が、あるとき突撃をし掛けてほこが鈍った。ガンベッタが喇叭らっぱを吹けと云った。そしたら進撃のは吹かないで、r※(アキュートアクセント付きE小文字)veilレウエイユ の譜を吹いた。イタリア人は生死の境に立っていても、遊びの心持がある。兎に角木村のためには何をするのも遊びである。そこで同じ遊びなら、好きな、面白い遊びの方が、詰まらない遊びより好いには違いない。しかしそれも朝から晩までしていたら、単調になってきるだろう。今の詰まらない為事にも、この単調を破るだけの功能はあるのである。
 この為事を罷めたあとで、著作生活の単調を破るにはどうしよう。それは社交もある。旅もある。しかしそれには金がいる。人の魚を釣るのを見ているような態度で、交際社会に臨みたくはない。ゴルキイのような vagabondageワガボンダアジュ をして愉快を感じるには、ロシア人のような遺伝でもなくては駄目だめらしい。やはりけちな役人の方が好いかも知れないと思って見る。そしてそう思うのが、別に絶望のような苦しい感じを伴うわけでもないのである。
 ある時は空想がいよいよ放縦になって、戦争なんぞの夢も見る。喇叭は進撃の譜を奏する。高く※(「敬/手」、第3水準1-84-92)かかげた旗を望んで駈歩をするのは、さぞ爽快そうかいだろうと思って見る。木村は病気というものをしたことがないが、小男でせているので、徴兵に取られなかった。それで戦争に行ったことはない。しかし人の話に、壮烈な進撃とは云っても、実は土嚢どのうかざして匍匐ほふくして行くこともあると聞いているのを思い出す。そして多少の興味をがれる。自分だってその境に身を置いたら、土嚢を翳して匍匐することは辞せない。しかし壮烈だとか、爽快だとかいう想像は薄らぐ。それからたとい戦争に行くことが出来ても、輜重しちょうに編入せられて、運搬をさせられるかも知れないと思って見る。自分だって車の前に立たせられたら、きもしよう。後に立たせられたら、しもしよう。しかし壮烈や爽快とは一層縁遠くなると思うのである。
 ある時は航海の夢も見る。屋の如き浪をしのいで、大洋を渡ったら、愉快だろう。地極の氷の上に国旗を立てるのも、愉快だろうと思って見る。しかしそれにもやはり分業があって、蒸汽機関の火をかせられるかも知れないと思うと、enthousiasmeアンツウジアスム の夢が醒めてしまう。
 木村は為事が一つ片附いたので、その一括の書類を机の向うに押し遣って、高い山からまた一括の書類を卸した。初のは半紙の罫紙けいしであったが、こん度のは紫板むらさきばんの西洋紙である。手の平にべたりと食っ附く。丁度物干竿ものほしざおと一しょに蛞蝓なめくじつかんだような心持である。
 この時までに五六人の同僚が次第に出て来て、いつか机が皆ふさがっていた。八時のたくが鳴って暫くすると、課長が出た。
 木村は課長がまだ腰を掛けないうちに、赤札の附いた書類を持って行って、少し隔たった処に立って、課長のゆっくり書類を portefeuilleポルトフョイユ から出して、硯箱すずりばこふたを取って、墨をるのを見ている。墨を磨ってしまって、偶然のようにこっちへ向く。木村よりは三つ四つ歳の少い法学博士で、目附鼻附のまった、余地の少い、敏捷びんしょうらしい顔に、金縁の目金を掛けている。
「昨日お命じの事件を」と云いさして、書類を出す。課長は受け取って、ざっと読んで見て、「これで好い」と云った。
 木村は重荷を卸したような心持をして、自分の席に帰った。一度出して通過しない書類は、なかなか二度目位で滞りなく通過するものではない。三度も四度も直させられる。そのうちには向うでも種々に考えて見るので、最初云った事とは多少違って来る。とうとう手が附けられなくなってしまう。それで一度で通過するのを喜ぶのである。
 席に帰って見ると、茶が来ている。八時に出勤したとき一杯と、午後勤務のあるときは三時頃に一杯とは、黙っていても、給仕が持って来てくれる。色が附いているだけで、味のない茶である。飲んでしまうと、茶碗の底にかすが沢山よどんでいる。木村は茶を飲んでしまうと、相変らずゆっくり構えて、絶間なくこつこつと為事しごとをする。低い方の山の書類の処理は、折々帳簿を出して照らし合せて見ることがあるばかりで、ぐんぐんはかが行く。三件も四件も烟草休なしに済ましてしまうことがある。済んだのは、検印をして、給仕に持たせて、それぞれ廻す先へ廻す。書類中には直ぐに課長の処へ持って行くのもある。
 その間には新しい書類が廻って来る。赤札のは直ぐに取り扱う。その外はどの山かの下へ入れる。電報は大抵赤札と同じようにするのである。
 為事をしているうちに、急に暑くなったので、ふいと向うの窓を見ると、朝から灰色の空の見えていた処に、紫掛かった暗色の雲がまろがって居る。
 同僚の顔を見れば、皆ひどく疲れた容貌ようぼうをしている。大抵下顎したあごゆるんで垂れて、顔が心持長くなっているのである。室内の湿った空気が濃くなって、頭をすように感ぜられる。今のように特別に暑くなった時でなくても、執務時間がやや進んでから、便所に行った帰りに、廊下から這入ると、悪い烟草のにおいと汗の香とでせるような心持がする。それでも冬になって、煖炉だんろいて、戸を締め切っている時よりは、夏のこの頃がはるかにましである。
 木村は同僚の顔を見て、一寸顔をしかめたが、すぐにまた晴々とした顔になって、為事に掛かった。
 暫くすると雷が鳴って、大降りになった。雨が窓にぶっ附かって、恐ろしい音をさせる。部屋中のものが、皆為事を置いて、窓の方を見る。木村の右隣の山田と云う男が云った。
「むしむしすると思ったら、とうとう夕立が来ましたな。」
「そうですね」と云って、晴々とした不断の顔を右へ向けた。
 山田はその顔を見て、急に思い附いたらしい様子で、小声になって云った。
「君はぐんぐん為事をはかどらせるが、どうもはたで見ていると、笑談にしているようでならない。」
「そんな事はないよ」と、木村は恬然てんぜんとして答えた。
 木村が人にこんな事を言われるのは何遍だか知れない。この男の表情、言語、挙動は人にこういうことばを催促していると云っても好い。役所でも先代の課長は不真面目ふまじめな男だと云って、ひどく嫌った。文壇では批評家が真剣でないと云って、けなしている。一度妻を持って、不幸にして別れたが、平生何かの機会で衝突する度に、「あなたはわたしを茶かしてばかしいらっしゃる」と云うのが、その細君の非難の主なるものであった。
 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる為事に対する「遊び」の心持が、ノラでない細君にも、人形にせられ、おもちゃにせられる不愉快を感じさせたのであろう。
 木村のためには、この遊びの心持は「与えられたる事実」である。木村と往来しているある青年文士は、「どうも先生には現代人の大事な性質がけています、それは nervosit※(アキュートアクセント付きE小文字)ネルウォジテエ です」と云った。しかし木村は格別それを不幸にも感じていないらしい。
 夕方のあとはまた小降になって余り涼しくもならない。
 十一時半頃になると、遠い処に住まっているものだけが、弁当を食いに食堂へ立つ。木村は号砲ドンが鳴るまでは為事をしていて、それから一人で弁当を食うことにしている。
 二三人の同僚が食堂へ立ったとき、電話のベルが鳴った。給仕が往って暫く聞いていたが、「少々お待下さい」と云って置いて、木村の処へ来た。
「日出新聞社のものですが、一寸電話口へおいで下さいと申すことです。」
 木村が電話口に出た。
「もしもし。木村ですが、なんの御用ですか。」
「木村先生ですか。お呼立て申して済みません。あの応募脚本ですが、いつ頃御覧済になりましょうか。」
「そうですなあ。此頃忙しくて、まだ急には見られませんよ。」
「さようですか。」なんと云おうかと、暫く考えているらしい。「いずれまた伺います。何分宜しく。」
「さようなら。」
「さようなら。」
 微笑の影が木村の顔をかすめて過ぎた。そしてあの用箪笥の上から、当分脚本は降りないのだと、心の中で思った。昔の木村なら、「あれはもう見ない事にしました」なんぞと云って、電話で喧嘩けんかを買ったのである。今は大分おとなしくなっているが、彼れの微笑の中には多少の Bosheitボオスハイト がある。しかしこんな、けちな悪意では、ニイチェ主義の現代人にもなられまい。
 号砲ドンが鳴った。皆が時計を出して巻く。木村も例の車掌の時計を出して巻く。同僚はもうとっくに書類を片附けていて、どやどや退出する。木村は給仕とただ二人になって、ゆっくり書類を戸棚にしまって、食堂へ行って、ゆっくり弁当を食って、それから汗臭い満員の電車に乗った。

(明治四十三年八月)





底本:「普請中 青年 森鴎外全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版森鴎外全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月~9月刊
入力:鈴木修一
校正:mayu
2001年6月19日公開
2005年11月16日修正
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    「目+(「薨」の「死」に代えて「目」)」    121‐8

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