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ヰタ・セクスアリス(ウィタ・セクスアリス)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 17:53:50  点击:  切换到繁體中文


        *

 十五になった。
 去年の暮の試験に大淘汰とうたがあって、どの級からも退学になったものがあった。そしてこの犠牲の候補者は過半軟派から出た。埴生なんぞのようなちびさえ一しょに退治られたのである。
 逸見も退学した。しかしこれはつい昨今急激な軟化をして、着物の袖を長くし、袴の裾を長くし、天を指していた椶櫚しゅろのような髪の毛に香油を塗っていたのであった。
 この頃僕に古賀と児島との二人の親友が出来た。
 古賀は顴骨かんこつの張った、四角な、あから顔の大男である。安達あだちという美少年に特別な保護を加えている処から、服装から何から、誰が見ても硬派中の鏘々そうそうたるものである。それが去年の秋頃から僕に近づくように努める。僕は例の短刀の※(「木+霸」、第3水準1-86-28)つかを握らざることを得なかった。
 然るに淘汰の跡で、寄宿舎の部屋割が極まって見ると、僕は古賀と同室になっていた。鰐口は顔に嘲弄ちょうろうの色を浮べて、こう云った。
「さあ。あんたあ古賀さあの処へ往って可哀がって貰いんされえか。あはははは」
 例のとおりお父様の声色こわいろである。この男は少しも僕を保護してはくれなんだ。しかし僕は構わぬのが難有ありがたかった。彼の cynic な言語挙動は始終僕に不愉快を感ぜしめるが、とにかく彼も一種の奇峭きしょうな性格である。同級の詩人が彼に贈った詩の結句は、竹窓夜静にして韓非かんぴを読むというのであった。人が彼をおそれ憚る。それが間接に、僕の為めには保護になっていたのである。
 僕はこの間接の保護を失わねばならない。そして頗る危険なる古賀の室へ引き越さねばならない。僕は覚えず慄然りつぜんとした。
 僕は獅子のいわやに這入るようなつもりで引き越して行った。埴生が、君の目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目がいよいよかど立っていたであろう。古賀は本も何も載せてない破机やぶれづくえの前に、鼠色になった古毛布を敷いて、その上に胡坐あぐらをかいて、じっと僕を見ている。大きな顔の割に、小さい、真円まんまるな目には、喜の色があふれている。
「僕をこわがって逃げ廻っていた癖に、とうとう僕の処へ来たな。はははは」
 彼は破顔一笑した。彼の顔はおどけたような、威厳のあるような、妙な顔である。どうも悪い奴らしくはない。
「割り当てられたから為方しかたがない」
 随分無愛想な返事である。
「君は僕を逸見と同じように思っているな。僕はそんな人間じゃあない」
 僕は黙って自分の席を整頓せいとんし始めた。僕は子供の時から物を散らかして置くということが大嫌である。学校にはいってからは、学科用のものと外のものとをり分けてきちんとして置く。この頃になっては、僕のノオトブックの数は大変なもので、丁度外の人の倍はある。その訳は一学科毎に二冊あって、しかもそれを皆教場に持って出て、重要な事と、只参考になると思う事とを、聴きながら選り分けて、開いてかさねてある二冊へ、ペンで書く。その代り、外の生徒のように、寄宿舎に帰ってから清書をすることはない。寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸ギリシャラテンの語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。僕はノオトブックと参考書とを同じ順序にシェルフに立てた。黒と赤とのインキを瓶のひっくりかえらない用心に、菓子箱のあいたのに、並べて入れたのに、ペンを添えて、机の向うの方に置いた。大きい吸取紙を広げて、机の前の方に置いた。その左に厚い表紙の附いている手帖を二冊かさねて置いた。一冊は日記で、寝る前に日日の記事をきちんと締め切るのである。一冊は学科に関係のない事件の備忘録で、表題には生利なまぎきにも紺珠かんじゅという二字がペンで篆書てんしょに書いてある。それから机の下に忍ばせたのは、貞丈ていじょう雑記が十冊ばかりであった。その頃の貸本屋の持っていた最も高尚なものは、こんな風な随筆類で、僕のように馬琴京伝の小説を卒業すると、随筆読になるより外ないのである。こんな物の中から何かしら見出みいだしては、例の紺珠に書き留めるのである。
 古賀はにやりにやり笑って僕のする事を見ていたが、貞丈雑記を机の下に忍ばせるのを見て、こう云った。
「それは何の本だ」
「貞丈雑記だ」
「何が書いてある」
「この辺には装束の事が書いてある」
「そんな物を読んで何にする」
「何にもするのではない」
「それではつまらんじゃないか」
「そんなら、僕なんぞがこんな学校に這入って学問をするのもつまらんじゃないか。官員になる為めとか、教師になる為めとかいうわけでもあるまい」
「君は卒業しても、官員や教師にはならんのかい」
「そりゃあ、なるかも知れない。しかしそれになる為めに学問をするのではない」
「それでは物を知る為めに学問をする、つまり学問をする為めに学問をするというのだな」
「うむ。まあ、そうだ」
「ふむ。君は面白い小僧だ」
 僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまいに面白い小僧だは、結末が余り振ってい過ぎる。僕は例の倒三角形の目で相手をにらんだ。古賀は平気でにやりにやり笑っている。僕は拍子抜けがして、この無邪気な大男を憎むことを得なかった。
 その日の夕かたであった。古賀が一しょに散歩に出ろと云う。鰐口なんぞは、長い間同じ部屋にいても、一しょに散歩に出ようと云ったことはない。とにかく附いて出て見ようと思って、承諾した。
 夏の初の気持の好い夕かたである。神田の通りを歩く。古本屋の前に来ると、僕は足をめてのぞく。古賀は一しょに覗く。その頃は、日本人の詩集なんぞは一冊五銭位で買われたものだ。柳原の取附とっつきに広場がある。ここに大きな傘を開いて立てて、その下で十二三位な綺麗な女の子にかっぽれを踊らせている。僕は Victor Hugo の Notre Dame を読んだとき、Emeraude とかいう宝石のような名の附いた小娘の事を書いてあるのを見て、この女の子を思出して、あの傘の下でかっぽれを踊ったような奴だろうと思った。古賀はこう云った。
「何の子だか知らないが、非道い目に合わせているなあ」
「もっと非道いのは支那人だろう。赤子を四角な箱に入れて四角に太らせて見せ物にしたという話があるが、そんな事もし兼ねない」
「どうしてそんな話を知っている」
「虞初新誌にある」
「妙なものを読んでいるなあ。面白い小僧だ」
 こんな風に古賀は面白い小僧だを連発する。柳原を両国の方へ歩いているうちに、古賀は蒲焼かばやき行灯あんどんの出ている家の前で足を留めた。
「君はうなぎを食うか」
「食う」
 古賀は鰻屋へ這入った。大串を誂える。酒が出ると、ひとりで面白そうに飲んでいる。そのうちのどたんがひっ掛かる。かっと云うと思うと、縁の外の小庭を囲んでいる竹垣を越して、痰が向うの路地に飛ぶ。僕はあっけに取られて見ている。鰻が出る。僕はお父様に連れられて鰻屋へ一度行って、鰻飯を食ったことしか無い。古賀がいくらだけ焼けと金で誂えるのに先ず驚いたのであったが、その食いようを見て更に驚いた。串を抜く。大きなきれを箸で折り曲げて一口に頬張る。僕は口には出さないが、面白い奴だと思って見ていたのである。
 その日は素直に寄宿舎に帰った。寝るとき、明日の朝は起してくれえ、頼むぞと云って、ぐうぐう寝てしまった。
 朝は四時頃から外があかるくなる。僕は六時に起きる。顔を洗って来て本を見ている。七時にまかないの拍子木が鳴る。古賀を起す。古賀は眠むそうに目をく。
「何時だ」
「七時だ」
「まだ早い」
 古賀はくるりと寝返りをして、ぐうぐう寝る。僕は飯を食って来る。三十分になる。八時には日課が始まるのである。古賀を起す。
「何時だ」
「七時三十分だ」
「まだ早い」
 十五分前になる。僕は前晩に時間表を見てそろえて置いたノオトブックとインクとを持って出掛けて、古賀を起す。
「何時だ」
「十五分前だ」
 古賀は黙ってね起きる。紙と手拭とを持って飛び出す。これから雪隠せっちんに往って、顔を洗って、飯を食って、教場へ駈け附けるのである。
 古賀鵠介こくすけの平常の生活はこんな風である。折々古賀の友達で、児島十二郎というのが遊びに来る。その頃絵草紙屋に吊るしてあった、錦絵の源氏の君のような顔をしている男である。体じゅうが青み掛かって白い。綽号あだなを青大将というのだが、それを言うと怒る。もっともこの名は、児島の体の或る部分を浴場ふろで見て附けた名だそうだから、怒るのも無理は無い。児島は酒量がない。言語も挙動も貴公子らしい。名高い洋学者で、勅任官になっている人の弟である。十二人目の子なので、十二郎というのだそうだ。
 どうして古賀と児島とが親しくしているだろうと、僕は先ず疑問を起した。さて段々観察していると、触接点がある。
 古賀は父親をひどく大切にしている。その癖父親は鵠介の弟の神童じみたのが夭折ようせつしたのを惜んで、鵠介を不肖の子として扱っているらしい。鵠介は自分が不肖の子として扱われれば扱われるだけ、父親の失った子の穴填あなうめをして、父親に安心させねばならないように思うのである。児島は父親が亡くなって母親がある。母親は十何人という子を一人で生んだのである。これも十三人目の十三郎というのが才子で、その方が可哀がられているらしい。しかし十三郎は才子である代りに、や放縦で、或る新聞縦覧所の女に思われた為めに騒動が起って新聞の続物に出た。女は元と縦覧所を出している男の雇女で、年の三十も違う主人に、脅迫せられて身を任せて、めかけの様になっていた。それが十三郎を慕うので、主人が嫉妬から女を虐遇する。女は十三郎に泣き附く。その十三郎が勅任官の家の若殿だから、新聞の好材料になったのである。その為めに、十三郎は或る立派な家に養子に貰われていたのが破談になる。母親は十三郎の為めに心痛する。十二郎はその母親の心を慰めようと、熱心に努めているのである。
 こんな事をだらだらと書くのは、僕の性欲的生活に何の関係もないようだが、実はそうでない。これが重大な関係を有している。
 僕は古賀と次第に心安くなる。古賀を通じて児島とも心安くなる。そこで三角同盟が成立した。
 児島は生息子きむすこである。彼の性欲的生活はゼロである。
 古賀は不断酒を飲んでぐうぐう寝てしまう。しかし月に一度位荒日あれびがある。そういう日には、おれは今夜は暴れるから、君はおとなしくして寝ろと云い置いて、廊下を踏み鳴らして出て行く。誰かの部屋の外から声を掛けるのに、戸を締めて寝ていると、拳骨げんこつで戸を打ち破ることもある。下の級の安達という美少年の処なぞへ這入り込むのは、そういう晩であろう。荒日には外泊することもある。翌日帰って、しおしおとして、昨日は獣になったと云って悔んでいる。
 児島の性欲の獣は眠っている。古賀の獣は縛ってあるが、おりおりいましめを解いて暴れるのである。しかし古賀は、あたかも今の紳士の一小部分が自分の家庭だけを清潔に保とうとしている如くに、自分の部屋を神聖にしている。僕は偶然この神聖なる部屋を分つことになったのである。
 古賀と児島と僕との三人は、寄宿舎全体を白眼に見ている。暇さえあれば三人集まる。平生性欲の獣を放し飼にしている生徒は、この triumviri の前では寸毫すんごうも仮借せられない。中にも、土曜日の午後に白足袋を穿いて外出するような連中は、人間ではないように言われる。僕の性欲的生活が繰延になったのは、全くこの三角同盟のお陰である。後になって考えて見れば、しこの同盟に古賀がいなかったら、この同盟は陰気な、貧血性な物になったのかも知れない。幸に荒日を持っている古賀が加わっていたので、互に制裁を加えている中にも、活気を失わないでいることを得たのであろう。
 或る土曜の事である。三人で吉原を見に行こうということになる。古賀が案内に立つ。三人共小倉袴に紺足袋で、朴歯ほおばの下駄をがらつかせて出る。上野の山から根岸を抜けて、通新町を右へ折れる。お歯黒どぶの側を大門おおもんに廻る。吉原を縦横に濶歩かっぽする。軟派の生徒で出くわした奴は災難だ。白足袋がこそこそと横町に曲るのを見送って、三人一度にどっと笑うのである。僕は分れて、今戸いまどわたしを向島へ渡った。

 同じ歳の夏休は、やはり去年どおりに、向島の親の家で暮らした。その頃はまだ、書生が暑中に温泉や海浜へ行くということはなかった。親を帰省するのが精々であった。僕のような、判任官の子なんぞは、親の処に帰って遊んでいるより上の愉快を想像することは出来なかったのである。
 相変らず尾藤裔一と遊ぶ。裔一の母親はもういない。悪いうわさが立ったので、榛野は免職になって国へ帰る。尾藤の母親も国の里方へ返されたのである。
 裔一と漢文の作りくらをする。それがこうじて、是非本当の漢文の先生に就いてって見たいということになる。
 その頃向島に文淵ぶんえん先生という方がおられた。二町程の田圃を隔てて隅田川の土手を望む処に宅を構えておられる。二階建の母屋に、庭の池に臨んだ離座敷の書斎がある。土蔵には唐本が一ぱい這入っていて、書生が一抱ずつ抱えては出入だしいれをする。先生は年が四十二三でもあろうか。三十位の奥さんにお嬢さんの可哀いのが二三人あって、母屋おもやに住んでおられる。先生は渡廊下で続いている書斎におられる。お役は編修官。月給は百円。手車で出勤せられる。僕のお父様が羨ましがって、あれが清福というものじゃと云うておられた。その頃は百円の月給で清福を得られたのである。
 僕はお父様に頼んで貰って、文淵先生の内へ漢文を直して貰いに行くことにした。書生が先生の書斎に案内する。どんな長い物を書いて持って行っても、先生は「どれ」と云って受け取る。朱筆をる。片端から句読くとうを切る。句読を切りながら直して行く。読んでしまうのと直してしまうのと同時である。それでも字眼じがんなぞがあると、しるしを附けて行かれるから、照応を打ち壊されることなぞはめったに無い。度々行くうちに、十六七の島田まげが先生のお給仕をしているのに出くわした。帰ってからお母様に、今日は先生の内の一番大きいお嬢さんを見たと話したら、それはお召使だと仰ゃった。お召使というには特別な意味があったのである。
 或日先生の机の下から唐本が覗いているのを見ると、金瓶梅きんぺいばいであった。僕は馬琴の金瓶梅しか読んだことはないが、唐本の金瓶梅が大いに違っているということを知っていた。そして先生なかなか油断がならないと思った。

        *

 同じ歳の秋であった。古賀の機嫌きげんが悪い。病気かと思えばそうでもない。或日一しょに散歩に出て、池の端を歩いていると、古賀がこう云った。
「今日は根津へ探検に行くのだが、一しょに行くかい」
「一しょに帰るなら、行っても好い」
「そりゃあ帰る」
 それから古賀が歩きながら探険の目的を話した。安達が根津の八幡楼やわたろうという内のお職と大変な関係になった。女が立て引いて呼ぶので、安達は殆ど学課を全廃した。女の処には安達の寝巻や何ぞが備え附けてある。女の持物には、ことごとく自分の紋と安達の紋とが比翼ひよくにして附けてある。二三日安達の顔を見ないとしゃくを起す。古賀がどんなに引き留めても、女の磁石力が強くて、安達はふらふらと八幡楼へ引き寄せられて行く。古賀は浅草にいる安達の親に denunciate した。安達と安達の母との間には、悲痛なる対話があった。さて安達の寄宿舎に帰るのを待ち受けて、古賀が「どうだ」と問うた。安達は途方に暮れたという様子で云った。「今日は母に泣かれて困った。母が泣きながら死んでしまうというのを聞けば、気の毒ではある。しかし女も泣きながら死んでしまうというから、為方しかたがない」と云ったというのである。
 古賀はこの話をしながら、憤慨して涙をこぼした。僕は歩きながらこの話を聞いて、「なる程非道い」と云った。そうは云ったが、頭の中では憤慨はしない。恋愛というものの美しい夢は、断えず意識の奥の方に潜んでいる。初て梅暦を又借をして読んだ頃から後、漢学者の友達が出来て、剪燈余話せんとうよわを読む。燕山外史えんざんがいしを読む。情史を読む。こういう本に書いてある、青年男女の naively な恋愛がひどく羨ましい、ねたましい。そして自分が美男に生れて来なかった為めに、この美しいものが手の届かない理想になっているということを感じて、頭の奥には苦痛の絶えるひまがない。それだから安達はさぞ愉快だろう、縦令たとい苦痛があっても、その苦痛は甘い苦痛で、自分の頭の奥に潜んでいるような苦い苦痛ではあるまいという思遣おもいやりをなすことを禁じ得ない。それと同時に僕はこんな事を思う。古賀の単純極まる性質は愛す可きである。しかし彼が安達の為めに煩悶はんもんする源を考えて見れば、少しも同情に値しない。安達はむしろ不自然の回抱かいほうを脱して自然のふところに走ったのである。古賀がこの話を児島にしたら、児島は一しょに涙を翻したかも知れない。いかにも親孝行はこの上もない善い事である。親孝行のお蔭で、性欲を少しでも抑えて行かれるのは結構である。しかしそれをし得ない人間がいるのに不思議はない。児島は性欲を吸込の糞坑ふんこうにしている。古賀は性欲を折々掃除をさせる雪隠のかめにしている。この二人と同盟になっている僕が、同じように性欲の満足を求めずにいるのは、果して僕の手柄であろうか。それはすこぶる疑わしい。僕が若し児島のような美男に生れていたら、僕は児島ではないかも知れない。僕は神聖なる同盟の祭壇の前で、こんな heretical な思議を費していたのである。
 僕は古賀の跡に附いて、始て藍染橋あいぞめばしを渡った。古賀は西側の小さい家に這入って、店の者と話をする。僕は閾際しきいぎわに立っている。この家は引手茶屋である。古賀は安達が何日いくか何日いくかとに来たかというような事を確めている。店のものは不精々々に返辞をしている。古賀はしばらくしてしおしおとして出て来た。僕等は黙って帰途に就いた。
 安達は程なく退学させられた。一年ばかり立ってから、浅草区に子守女や後家なぞに騒がれる美男の巡査がいるという評判を聞いた。又数年の後、古賀が浅草の奥山で、唐桟とうざんづくめの頬のこけたすごい顔の男に逢った。奥山に小屋掛けをして興行している女の軽技師かるわざしがあって、その情夫が安達の末路であったそうだ。

        *

 十六になった。
 僕はその頃大学の予備門になっていた英語学校を卒業して、大学の文学部に這入った。
 夏休から後は、僕は下宿生活をすることになった。古賀や児島と毎晩のように寄席よせに行く。一頃悪い癖が附いて寄席に行かないと寝附かれないようになったこともある。講釈にきて落語を聞く。落語に厭きて女義太夫をも聞く。寄席の帰りに腹が減って蕎麦そば屋に這入ると、妓夫が夜鷹よたかを大勢連れて来ていて、僕等はその百鬼夜行の姿をランプの下に見て、覚えず戦慄せんりつしたこともある。しかし「仲までお安く」という車なぞにはとうとう乗らずにしまった。
 多分生息子で英語学校を出たものは、児島と僕と位なものだろう。文学部に這入ってからも、三角同盟の制裁は依然としていて、児島と僕とは旧阿蒙きゅうあもうであった。
 この歳は別に書く程の事もなくて暮れた。

        *

 十七になった。
 この歳にお父様が、世話をする人があって、小菅こすげの監獄署の役人になられた。某省の属官をしておられたが、頭がつかえて進級が出来ない。監獄の役人の方は、官宅のようなものが出来ていて、それに住めば、向島の家から家賃があがる。月給も少し好い。そこで意を決して小菅へ越されたのである。僕は土曜日に小菅へ行って、日曜日の晩に下宿に帰ることになった。
 僕は依然として三角同盟の制裁の下に立っているのである。休日の前日が来て、小菅の内へ帰る度に通新町を通る。吉原の方へ曲る角の南側は石の玉垣のある小さい社で、北側は古道具屋である。この古道具屋はいつも障子が半分締めてある。その障子の片隅に長方形の紙が貼ってあって、看板かきの書くような字で「秋貞」と書いてある。小菅へ行く度に、いきにもかえりにも僕はこの障子の前を通るのを楽にしていた。そしてこの障子の口に娘が立っていると、僕は一週間の間何となく満足している。娘がいないと、僕は一週間の間何となく物足らない感じをしている。
 この娘はそれ程まれな美人というのではないかも知れない。只薄紅の顔がつやつやと露がしたたるようで、ぱっちりした目に形容の出来ない愛敬がある。洗髪を島田に結っていて、赤い物なぞは掛けない。夏は派手な浴衣ゆかたを着ている。冬は半衿はんえりの掛かった銘撰めいせんか何かを着ている。いつも新しい前掛をしているのである。
 僕はこの頃から、ずっと後に大学を卒業するまで、いや、そうではない、それから二年目に洋行するまで、この娘を僕の美しい夢の主人公にしていたに相違ない。春のなまめかしい自然でも、秋の物寂しい自然でも、僕の情緒を動かすことがあると、ふいと秋貞という名が唇に上る。実に馬鹿らしいわけである。何故というのに、秋貞というのはその店に折々見える、紺の前掛をした、せこけた爺さんの屋号と名前の頭字とに過ぎないのである。この娘は何という娘だということをも僕は知らないのである。しかし不思議と云えば不思議である。僕が顔を覚えてから足掛五年の間、この娘は娘でいる。僕の空想の中に娘でいるのは不思議ではないが、この娘が実在の娘でいるのは不思議である。僕の例の美しい夢の中で、若しやこの娘は、僕が小菅へ往復する人力車を留めて、話をし掛けるのを待っているのではあるまいかとさえ思ったこともある。しかしまさかうつつの意識でそれを信ずる程の詩人にもなれなかった。余程年が立ってから、僕は偶然この娘の正体を聞いた。この娘はじきあの近所の寺の住職が為送しおくりをしていたのであった。
 つまらない話のついでに、も一つ同じようなのを話そう。お父様の住まっておいでになる、小菅の官舎の隣に十三ばかりの娘がある。それが琴の稽古をしている。師匠は下谷の杉勢というのであるが、遠方の事だから、いつも代稽古の娘が来る。お母様が聞いていらっしゃるに、隣の娘がいても、代稽古に来る娘が弾いても、余り好いがしたことはない。それが或日まるで変った音がした。言って見れば、今までのが寝惚ねぼけた音なら、今度のは目のめた音である。お母様が隣の奥さんにその事を話すと、あれは琴を商売にしている人ではない。杉勢の弟子で、五軒町に住んでいる娘である。代稽古に来る娘が病気なので、好意で来てくれたということであった。そのうちその琴の上手な娘が、お母様にめられたのを聞いて、それではいつか往って弾いて聞かせようと云った。
 それから折々内に寄るので、僕が休日に帰っていて落ち合うこともある。子供の時に Hydrocephalus ででもあったかというような頭の娘で、髪がや薄く、色があおくて、下瞼したまぶたが紫色を帯びている。性質はごく勝気かちきである。琴はいかにも virtuoso の天賦を備えている。これが若し琴を以て身を立てようとする人であったら、師匠に破門せられて、別に一流を起すというたちかも知れない。
 この娘が段々お母様と親密になって、話の序に、遠廻しのようで、実は頗る大胆に、僕の妻になりたいということをほのめかすのである。お母様が、せがれも卒業すれば、是非洋行をさせねばならないが、卒業試験の点数次第で、官費で遣られるか、どうだか知れないと話すと、わたくしがお金を持っていれば、有るだけ出して学資にして戴きとうございますなどという。
 お母様にもこの娘の怜悧りこうなのが気に入る。そこで身元などを問い合わせて見られる。このおれいさんという娘は可なりの役を勤めていた士族の娘で、父親に先立たれて、五軒町の借屋に母親と一しょに住んでいる。しかし妙なことには、その家にお兄いさんというのがいて、余程お人好と見えて、お麗さんに家来のように使われている。それが実はむこ養子に来たものだということである。壻養子に来たのではあるが、お麗さんはその人の妻になりたくないから、家をその人に遣って、自分はどこかへよめに行きたいと云っている。そしてお麗さんの望は、少くも学士位な人を夫に持ちたいというのだそうだ。そこで僕がその選にあたったというわけである。
 お母様にはそのお兄いさんというもののいるのが気に入らない。僕はこの怜悧で活溌な娘が嫌ではないが、早く妻を持とうという気はないのだから、この話はどうなるともなしに、水が砂地に吸い込まれるように、立消たちぎえになってしまった。
 これは性欲問題では勿論無い。そんならと云って、恋愛問題とも云われまい。言わば起り掛かって止んだ縁談に過ぎないが、思い出したから書いて置く。お麗さんは望どおりに或る学士の奥さんになって横浜あたりにいるということである。

        *

 十八になった。
 夏休の間の出来事である。卒業試験が近くなるので、どこかいつもより静かな処にいて勉強したいと思った。さいわい向島の家が借手がなくて明いている。そこへ書物を持って這入はいる。お母様が二三日来ていて、世話をして下さる。しかし材料さえ集めて置いて貰えば、僕が自炊をするというのである。お母様は覚束おぼつかないと仰ゃる。
 この話を隣の植木屋が聞いた。お父様が畠に物を作る相談をせられるので、心安くなっていた植木屋である。この植木屋のお上さんが、親切にもこういう提議をした。植木屋にお蝶という十四になる娘がある。体は十六位かと見えるように大きいが、まるで子供である。煮炊にたきもろくな事は出来ない。しかし若旦那よりは上手であろう。これを貸してくれようと云うのである。お母様は同意なすった。僕も初から女を置くということには反対していたが、鼻を垂らして赤ん坊を背負っていたのを知っている、あのお蝶なら好かろうというので、同意した。
 お蝶は朝来て夜帰る。むくむくと太った娘で、大きな顔に小さな目鼻が附いている。もう鼻は垂らさない。島田に結っている。これは僕のお召使になるというので、自ら好んで結って貰ったのだそうだが、大きな顔の上に小さい島田髷が載っている工合は随分可笑しい。
 飯の時にはお蝶がお給仕をする。僕はその様子を見て、どうしても蝶ではなくての方だなどと思っている。見るともなしに顔を見る。少したてに向いて附いた眉の下に、水平な目があるので、内眦めがしらの処が妙にせせこましくなっている。俯向うつむいてその目で僕を見ると、滑稽を帯びた愛敬がある。
 お蝶は好く働く。僕は飯の時に給仕をさせるだけで、跡は何をしていようと構わない。お菜は何にしましょうと云って来ると、何でも好いから、お前の内でこしらえるような物を拵えろと云う。そんな風で二週間程立った。
 或日今年は親類の内に往っていると聞いていた尾藤裔一が来た。僕は学科の本に読みきていたので、喜んで話しかけたが、裔一はひどくしおれている。僕は不審に思った。
「君どうかしているようじゃないか」
「僕は本科に這入はいることはめた」
「どうして」
「実は君には逢わずに国へ立ってしまおうと思ったのだ。ところが、親父おやじ暇乞いとまごいに来て聞けば、君がいるというので、つい逢いたくなって遣って来た」
 お蝶が茶を持って出た。裔一は茶を一息に飲んで話を続けた。裔一の学資は父親の手から出ていない。木挽町こびきちょうに店を出している伯父が出していたのである。その伯父の所帯が左前になったので、いよいよ廃学をしなくてはならないようになった。そこで国へ帰って小学校の教員でもしようかと思っている。しかし教員になるにしても、そのかたわら何か遣りたい。西洋の学問をするには、素養が不十分な上に、新しい本を買うのは容易でない。そこで一時のしのぎにと云って、伯父の出してくれた金の大部分は漢籍にしてしまった。それを持って国へ引込んで読むというのである。
 僕は気の毒でたまらなかった。しかし何とも言いようがない。意味のない慰めなんぞを言うと、裔一は怒り兼ない。為方しかたなしに黙っていた。
 間もなく裔一は帰ると云った。そして立ちそうにして立たずに、すこぶる唐突にこんな事を言い出した。
「僕の伯父の立ち行かなくなったのは、元はおばの為めだ」
「おばさんはどんな人なんだ」
「伯父が一人でいたときの女中だ」
「ふむ」
「それがどうしても離れないのだ。女房に内助なんということを要求するのは無理かも知れないが、訣の分らない奴が附いていて離れないというものは、人生の一大不幸だなあ。左様なら」
 裔一はふいと帰って行った。
 僕はあっ気に取られて跡を見送った。戸口に掛けてあるすだれを透して、冠木門かぶきもんを出て行く友の姿が見える。白地の浴衣ゆかた麦稈帽むぎわらぼうを被った裔一は、ひる過の日のかっかっと照っている、かなめ垣の道に黒い、短い影を落しながら、遠ざかって行く。
 裔一は置土産に僕を諷諫ふうかんしたのである。僕は一寸腹が立った。何もその位な事を人に聞かなくても好いと思う。それも人による。万事に掛けて自分よりは鈍いように思っていた裔一には、出過ぎた話だと思う。その上お蝶が何だ。こっちはまるで女とも何とも思っていないのではないか。人をらないのだ。えんもまたはなはだしいと思ったのである。
 机に向いて読み掛けていた本を開ける。どうも裔一の云ったことが気になる。僕はお蝶を何とも思ってはいない。しかしお蝶はどうだろう。僕とお蝶とは殆ど話というものをしないから、お蝶が何と云ったというような記憶は無い。何か記憶に留まった事はないかと思うと、ふいと今朝の事を思い出す。今朝散歩に出た。出るときお蝶は蚊屋かやを畳み掛けていた。三十分も歩いたと思って帰って見ると、お蝶は畳んだ蚊屋を前に置いて、目はくうを見てぼんやりしてすわっていた。もうとっくに片付けてしまっているだろうと思ったのに、意外であった。その時僕は少しなまけて来たなと思った。あの時お蝶は三十分が間も何を思っていたのだろう。こう思って、僕は何物をか発見したような心持がした。
 この時から僕はお蝶に注意するようになった。別な目でお蝶を見る。飯の給仕をしてくれる時に、彼の表情に注意する。注意して見ると、こういう事がある。初の頃は俯向いてはいたが、度々僕の顔を見ることがあった。それがこの頃は殆ど全く僕の顔を見ない。彼の態度は確に変って来たのである。
 僕は庭なぞを歩くとき、これまでは台所の前を通っても、中でことこと言わせているのを聞きながら、其方そっちを見ずに通ったのが、今度は見て通る。物なんぞを洗い掛けて手を休めて、くうを見て、じっとしているのが目に附く。何か考えているようである。
 又飯の給仕に来る。僕の観察の目が次第に鋭くなる。彼は何も言わず、顔も上げずにいるが、彼の神経の情態が僕に感応して来るような気がする。彼の体が電気か何かの蓄積している物体ででもあるように感ぜられる。そして僕は次第に不安になって来た。
 僕は本を見ていても、台所の方で音がすれば、お蝶は何をしているのかと思う。呼べばすぐに来る。来るのは当りまえではあるが、呼ぶのを待っていたなと思う。夕かたになると暇乞をして勝手の方へ行く。そして下駄を穿いて出て、戸を締める音がするまで、僕は耳をそばだてている。そしてその間の時間が余り長いように思う。彼は帰り掛けて、僕の呼び戻すのを待っているのではないかと思う。僕の不安はいよいよ加わって来たのである。
 その頃僕はこんな事を思った。尾藤裔一は鋭敏な男ではない。しかし彼は父親の処にいる時も、伯父の処にいる時も、僕の内とは違う雰囲気の中に栖息せいそくしていたのである。そこで一寸茶を持って出ただけのお蝶の態度を見て、何物かを発見したのではあるまいかと思った。
 或日お母様がお出なすった。僕は、もう向島は嫌になったから、小菅に帰ろうと思うと云った。お母様は、そんな事なら、何故葉書でもよこさなかったかと仰ゃる。僕は、切角手紙を出そうと思っていた処だと云った。実はお母様のお出なすったのを見て、急に思い附いたのである。僕はお母様に、お蝶と植木屋のものとに跡を片附けさせて帰って下さるように頼んで置いて、本を二三冊持って、ついと出て、小菅へ帰った。
 お蝶の精神か神経かの情態に、何か変ったことがあったかどうだか、恋愛が芽ざしていたか、性欲が動いていたか、それとも僕の想像が跡形もない事を描き出したのであったか、僕はとうとう知らずにしまった。

        *

 十九になった。
 七月に大学を卒業した。表向の年齢を見て、二十になったばかりで学士になるとは珍らしいと人が云った。実は二十にもなってはいなかった。とうとう女というものを知らずに卒業した。これは確に古賀と児島とのお蔭である。そして児島だけは、僕より年は上であったが、やはり女を知らなかったらしい。
 その当座宴会がむやみにある。上野の松源という料理屋がその頃盛であった。そこへ卒業生一同で教授を請待しょうだいした。
 数寄屋すきや町、同朋町どうぼうちょうの芸者やお酌が大勢来た。宴会で芸者を見たのはこれが始である。
 今でも学生が卒業する度に謝恩会ということがある。しかし今からあの時の事を思って見ると、客も芸者も風が変っている。
 今は学士になると、別に優遇はせられないまでも、ひどく粗末にもせられないようだ。あの頃は僕なんぞをば、芸者がまるで人間とは思っていなかった。
 あの晩の松源の宴会は、はっきりと僕の記憶に残っている。床の間の前に並んでいる教授がたの処へ、卒業生がかわがわるお杯を頂戴しに行く。教授の中には、わざと卒業生の前へ来て胡坐あぐらをかいて話をする人もある。席は大分入り乱れて来た。僕はぼんやりしてすわっていると、左の方から僕の鼻の先へ杯を出したものがある。
「あなた」
 芸者の声である。
「うむ」
 僕は杯を取ろうとした。杯を持った芸者の手はひょいと引込んだ。
「あなたじゃあ有りませんよ」
 芸者はたしなめるように、ちょいと僕を見て、僕の右前の方の人に杯を差した。笑談じょうだんではない。笑談をよそおってもいない。右前にいたのは某教授であった。芸者の方には殆ど背中を向けて、右隣の人と話をしておられた。僕の目には先生のの羽織の紋が見えていたのである。先生はやっと気が附いて杯を受けられた。僕がいくらぼんやりしていても、人の前に出した杯を横から取ろうとはしない。僕は羽織の紋に杯を差すものがあろうとは思い掛けなかったのである。
 僕はこの時忽ち醒覚せいかくしたような心持がした。たとえば今まで波の渦巻の中にいたものが、岸の上に飛び上がって、波の騒ぐのを眺めるようなものである。宴会の一座が純客観的に僕の目に映ずる。
 教場でむつかしい顔ばかりしていた某教授が相好そうごうを崩して笑っている。僕のすぐ脇の卒業生をつかまえて、一人の芸者が、「あなた私の名はボオルよ、忘れちゃあ嫌よ」と云っている。お玉とでも云うのであろう。席にいただけのお酌が皆立って、笑談半分に踊っている。誰も見るものはない。杯を投げさせて受け取っているものがある。お酌の間へ飛び込んで踊るものがある。置いてある三味線を踏まれそうになって、あわてて退ける芸者がある。さっき僕にけんつくを食わせた芸者はねえさん株と見えて、しきりに大声を出して駈け廻って世話を焼いている。
 僕の左二三人目に児島がすわっている。彼はぼんやりしている。僕の醒覚前の態度と余り変っていないようだ。その前に一人の芸者がいる。締った体の権衡けんこうが整っていて、顔も美しい。若し眼窩がんかの縁を際立たせたら、西洋の絵で見る Vesta のようになるだろう。初め膳を持って出て配った時から、僕の注意をいた女である。傍輩ほうばい小幾こいくさんと呼ばれたのまで、僕の耳に留まったのである。その小幾が頻りに児島に話し掛けている。児島は不精々々に返詞をしている。聞くともなしに、対話が僕の耳に這入る。
「あなた何が一番お好」
橘飩きんとんが旨い」
 真面目な返詞である。生年二十三歳の堂々たる美丈夫の返詞としては、不思議ではないか。今日の謝恩会に出る卒業生の中には、捜してもこんなのがいないだけはたしかである。頭が異様にひややかになっていた僕は、間の悪いような可笑おかしいような心持がした。
「そう」
 優しい声を残して小幾は座を立った。僕は一種の興味を以て、この出来事の成行を見ている。暫くして小幾は可なり大きなどんぶりを持って来て、児島の前に置いた。それは橘飩であった。
 児島は宴会の終るまで、橘飩を食う。小幾はその前にきちんとすわって、橘飩の栗が一つ一つ児島の美しい唇の奥に隠れて行くのを眺めていた。
 僕は小幾が為めに、児島のなるたけ多くの橘飩を、なるたけゆっくり食わんことを祈って、黙って先へ帰った。
 後に聞けば、小幾は下谷第一の美人であったそうだ。そして児島は只この美人の※(「敬/手」、第3水準1-84-92)げ来った橘飩を食ったばかりであった。小幾は今某政党の名高い政治家の令夫人である。

        *

 二十はたちになった。
 新しい学士仲間は追々口を捜して、多くは地方へ教師になりに行く。僕は卒業したときの席順が好いので、官費で洋行させられることになりそうな噂がある。しかしそれがなかなか極まらないので、お父様は心配しておいでなさる。僕は平気で小菅の官舎の四畳半に寝転ねころんで、本を見ている。
 遊びに来るものもめったに無い。古賀は某省の参事官になって、女房を持って、女房の里に同居して、そこから役所へ通っている。児島はそれより前に、大阪の或会社の事務員になって、東京を立った。それを送りに新橋へ行ったとき、古賀が僕に※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやいだ。「僕のかかあになってくれるというものがあるよ。妙ではないか」これは謙遜したのではない。児島に比べては、余程世情に通じている古賀も、さすが三角同盟の一隅だけあって、無邪気なものである。僕は妙とも何とも思わなかった。
 僕にも縁談を持って来るものがある。お母様の考では、たとい洋行をさせられるにしても、妻は持って置く方が好いというのである。お父様には別に議論は無い。そこでお母様が僕にお勧なさるが、僕は生返詞をしている。お母様には僕の考が分らない。僕は又考はあっても言いたくない。言うにしても、頗る言いにくいような気がする。お母様は根気好くお尋なさる。僕は或日ついつい追い詰められて、こんな事を言った。
 妻というものを、どうせいつか持つことになるだろう。持つには嫌な奴では困る。嫌か好かをこっちで極めるのは容易である。しかし女だって嫌な男を持っては困るだろう。生んで貰った親に対して、こう云うのは、恩義に背くようではあるが、女が僕の容貌を見て、好だと思うということは、一寸想像しにくい。或は自知のめいのあるお多福が、僕を見て、あれで我慢をするというようなことは無いにも限るまい。しかし我慢をしてくれるには及ばない。そんな事はこっちから辞退したい。そんなら僕のたましいの側はどうだ。余り結構な霊を持ち合わせているとも思わないが、これまで色々な人に触れて見たところが、僕の霊がそう気恥かしくて、包み隠してばかりいなければならないようにも思わない。霊の試験を受ける事になれば、僕だって必ず落第するとも思わない。さて結婚の風俗を見るに、容貌の見合はあるが、霊の見合は無い。その容貌の見合でさえ、なかだちをするものの云うのを聞けば、いつでも先方では見合を要せないと云っているということだ。女は好嫌を言わない。只こっちが見て好嫌を言えば好いというのだ。娘の親は売手で、こっちが買手ででもあるようだ。娘はまるで物品扱を受けている。羅馬ロオマ法にでも書いたら、奴隷と同じように、res としてしまわねばならない。僕は綺麗なおもちゃを買いに行く気はない。
 ざっとこう云うような事を、なるたけお母様に分るように説明して見た。お母様は、僕が霊では落第しないが、容貌では落第しそうだと云うのが、大不服である。「わたしはお前を片羽かたわに産んだ覚えはない」と、憤慨に堪えないような口気で仰ゃる。これには僕もひどく恐縮せざることを得ない。それから男が女をえらぶように、女も男を択ぶのが、正当な見合であるということも、お母様は認めて下さらない。お母様の仰ゃるには、おお方そんな事を言うのは、男女同権とかいう話と同じ筋の話だろう。昔から町家の娘には、見合でむこをことわるということがあった。侍の娘は男の魂を見込んでよめに往くのだから、男の顔を見てかれこれ云う筈はない。それが日本ばかりの事であっても、好い事なら好いではないか。しかしお父様のお話を聞いたうちに、西洋の王様が家来を隣国へって娵を見させるという話があった。そうして見れば、西洋でも王様なんぞは日本流に娵を取られると見えると、こう仰ゃる。僕は、西洋の事なんぞは、なるたけ言わないようにしているのに、お母様に西洋の例を引いて弁じ附けられて、僕は少し狼狽ろうばいした。
 僕の方にはまだ言いたい事は沢山有ったが、この上反駁はんばくを試みるのも悪いと思って、それきりにしてしまった。
 この話をして間もなく、お父様の心安くしていらっしゃる安中あんなかという医者が来て、或る大名華族の末家まっけの令嬢を貰えと勧めた。令嬢は番町の一条という画家の内におられる。いつでも見せて遣るということである。お母様は例に依ってお勧なさる。
 僕はふと往って見る気になった。それが可笑しい。そのお嬢さんを見ようと思うのではなくて、見合というものをして見ようと思うのであった。少し無責任な事をしたようではあるが、僕はどんなお嬢さんでも貰わないと極めていたわけではない。貰う気になったら貰おうとだけは思っていたのである。
 三月頃でもあったか、まだ寒かった。僕は安中に連れられて、番町の一条の内へ行った。黒い冠木門かぶきもんのある陰気なような家であった。主人の居間らしい八畳の間に通された。安中と火鉢を囲んで雑談をしていると、主人が出て逢われた。五十ばかりの男で、磊落らいらくな態度である。画の話なぞをする。暫くして奥さんが令嬢を連れて出られた。
 主人夫婦は色々な話をして座を持っておられる。ゆっくり話して行け、酒を飲むなら酒を出そうかと云う。僕は酒は飲まないと云う。主人がそんなら何を御馳走しようかと云って、首を傾ける。その頃僕は齲歯むしばに悩まされていて、内ではよく蕎麦掻そばがきを食っていた。そこで、御近所に蕎麦の看板があったから、蕎麦掻を御馳走になろうと云った。主人がこれは面白い御注文だと云って笑う。奥さんが女中を呼んで言い付ける。
 令嬢はこの時まで奥さんの右の方に、大人しくすわって、膝に手を置いておられた。ふっくりした丸顔で、目尻が少し吊り上がっている。俯向うつむかないで、正面を向いていて、少しもわるびれた様子がない。顔にはこれという表情もなかった。それが蕎麦掻の注文を聞いて、思わずにっこり笑った。
 僕は蕎麦掻の注文をしてしまって、児島の橘飩きんとんにも譲らないと思って、ひとりで可笑おかしがった。暫くは蕎麦の話が栄える。主人も蕎麦掻は食べる。ある時病気で、粒立った物が食えないので、一月も蕎麦掻ばかり食っていたと云う。奥さんが、あの時はほんとにあきれたと云って、気が附いて僕にあやまる。


 

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