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うたかたの記(うたかたのき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 17:55:56  点击:  切换到繁體中文


 この騒ぎに少女が前なりし酒はくつがへりて、もすそひたし、卓の上にこぼれたるは、蛇の如くひて、人々の前へ流れよらむとす。巨勢は熱き手掌たなぞこを、両耳の上におぼえ、驚く間もなく、またこれより熱き唇、額に触れたり。「我友に目を廻させたまふな。」とエキステル呼びぬ。人々は半ば椅子より立ちて「いみじきたわぶれかな、」と一人がいへば、「われらは継子ままこなるぞくやしき、」とほかの一人いひて笑ふを、よそなる卓よりも、皆興ありげにうちまもりぬ。
 少女がそばに坐したりし一人は、「われをもすさめ玉はむや、」といひて、右手めてさしのべて少女が腰をかき抱きつ。少女は「さても礼儀知らずの継子どもかな、汝らにふさはしき接吻のしかたこそあれ。」と叫び、ふりほどきて突立ち、美しき目よりは稲妻いなずま出づと思ふばかり、しばし一座をにらみつ。巨勢は唯あきれに呆れて見ゐたりしが、この時の少女が姿は、菫花うりにも似ず、「ロオレライ」にも似ず、さながら凱旋門上のバワリアなりと思はれぬ。
 少女はが飲みほしけむ珈琲碗に添へたりし「コップ」を取りて、中なる水を口にふくむと見えしが、唯※(「口+饌のつくり」、第4水準2-4-37)ひとふき。「継子よ、継子よ、汝らたれか美術の継子ならざる。フィレンチェ派学ぶはミケランジェロ、ヰンチイが幽霊、和蘭オランダ派学ぶはルウベンス、ファン・ヂイクが幽霊、我国のアルブレヒト・ドュウレル学びたりとも、アルブレヒト・ドュウレルが幽霊ならぬはまれならむ。会堂に掛けたる『スツヂイ』二つ三つ、値段ねだん好く売れたるあかつきには、われらは七星われらは十傑、われらは十二使徒とほしいままに見たてしてのわれぼめ。かかるえりくずにミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ。」とぞ叫びける。
 噴掛ふきかけし霧の下なるこの演説、巨勢は何事ともわきまへねど、時の絵画をいやしめたる、諷刺ふうしならむとのみは推測おしはかりて、そのおもてを打仰ぐに、女神バワリアに似たりとおもひし威厳少しもくづれず、言畢いいおわりて卓の上におきたりし手袋の酒に濡れたるを取りて、大股おおまたにあゆみて出でゆかむとす。
 皆すさまじげなる気色けしきして、「狂人」と一人いへば、「近きにむくいせではまじ」と外の一人いふを、戸口にて振りかへりて。「遺恨に思ふべき事かは、月影にすかして見よ、額に血のあとはとどめじ。吹きかけしは水なれば。」


     中

 あやしき少女おとめの去りてより、ほどなく人々あらけぬ。かえにエキステルに問へば、「美術学校にて雛形モデルとなる少女の一人にて、『フロイライン』ハンスルといふものなり。見たまひし如く奇怪なる振舞ふるまいするゆゑ、狂女なりともいひ、また外の雛形娘と違ひて、人に肌見せねば、かたはにやといふもあり。その履歴知るものなけれど、おしえありて気象よの常ならず、※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)けがれたるおこないなければ、美術諸生の仲間には、喜びて友とするもの多し。こうべなることは見たまふ如し。」と答へぬ。巨勢こせ、「我画かくにもようあるべきものなり。『アトリエ』ととのはむ日には、よと伝へたまへ。」エキステル、「心得たり。されど十三の花売娘にはあらず、裸体の研究、あやうしとはおもはずや。」巨勢、「裸体の雛形せぬ人と君もいひしが。」エキステル、「にいはれたり。されど男と接吻したるも、けふ始めて見き。」エキステルがこの言葉に、巨勢は赤うなりしが、街燈暗き「シルレル・モヌメント」のあたりなりしかば、友は見ざりけり。巨勢が「ホテル」の前にて、二人はたもとを分ちぬ。
 一週ほどのちの事なりき。エキステルが周旋にて、美術学校の「アトリエ」一間ひとまを巨勢に借されぬ。南に廊下ありて、北面の壁は硝子ガラス大窓おおまどなかばを占められ、隣の間とのへだてには唯帆木綿ほもめんとばりあるのみ。頃はみな月半ばなれど、旅立ちし諸生多く、隣に人もあらず、わざ妨ぐべきうれいなきを喜びぬ。巨勢は画額のだい[#「架」の左に「スタッファージュ」とルビ、50-11]の前に立ちて、今入りし少女に「ロオレライ」の画を指さし示して、「君に聞かれしはこれなり。面白げに笑ひたはぶれ玉ふときは、さしもおもはれねど、をりをり君がおも影の、ここなる未成の人物にいとふさはしきときあり。」
 少女は高く笑ひて。「物忘ものわすれしたまふな。おん身が『ロオレライ』のもとの雛形、すみれ売の子は我なりとは、先の夜も告げしものを。」かくいひしがにわかに色を正して。「おん身は我を信じたまはず、げにそれも無理ならず。世の人は皆我を狂女なりといへば、さおもひたまふならむ。」この声たわぶれとは聞えず。
 巨勢は半信半疑したりしが、忍びかねて少女にいふ、「余りに久しくさいなみ玉ふな。今も我がぬかに燃ゆるは君が唇なり。はかなき戯とおもへば、しひて忘れむとせしこと、幾度いくたびか知らねど、まよいは遂に晴れず。あはれ君がまことの身の上、苦しからずは聞かせ玉へ。」
 まどもとなる小机に、いま行李こりより出したるふるき絵入新聞、つかひさしたるあぶらゑの錫筒すずづつ、粗末なる烟管キセルにまだ巻烟草まきタバコはしの残れるなど載せたるその片端に、巨勢はつらづえつきたり。少女は前なるとう椅子いすに腰かけて、語りいでぬ。
「まづ何事よりか申さむ。この学校にて雛形の鑑札受くるときも、ハンスルといふ名にて通したれど、そは我まことの名にあらず。父はスタインバハとて、今の国王にでられて、ひと時さかえし画工なりき。わが十二の時、王宮の冬園ふゆその[#「冬園」の左に「ヴィンテルガルテン」とルビ、51-12]に夜会ありて、二親みな招かれぬ。うたげたけなわなる頃、国王見えざりければ、人々驚きて、移植うつしうゑし熱帯草木そうもくいやが上に茂れる、硝子ガラス屋根の下、そこかここかと捜しもとめつ。そのの片隅にはタンダルヂニスがきざめる、ファウストと少女との名高き石像あり。わが父のそのあたりに来たりし時、胸くるやうなる声して、『助けて、助けて』と叫ぶものあり。声をしるべに、黄金こがね穹窿まるてんじょうおほひたる、『キオスク』(四阿屋あずまや)の戸口に立寄れば、周囲に茂れる椶櫚しゅろの葉に、瓦斯燈ガスとうの光支へられたるが、濃き五色にて画きし、窓硝子をりてさしこみ、薄暗くあやしげなる影をなしたるうちに、一人の女の逃げむとすまふを、ひかへたるは王なり。その女のおもて見し時の、父が心はいかなりけむ。かれは我母なりき。父はあまりの事に、しばしたゆたひしが、『許したまへ、陛下へいか』と叫びて、王を推倒おしたおしつ。そのひまに母は走りのきしが、不意を打たれて倒れし王は、起き上りて父に組付きぬ。えふとりて多力なる国王に、父はいかでか敵し得べき、組敷かれて、かたわらなりし如露じょろにてしたたか打たれぬ。この事知りていさめし、内閣の秘書官チイグレルは、ノイシュワンスタインなる塔に押籠おしこめらるるはずなりしが、救ふ人ありて助けられき。われはその夜家にありて、二親の帰るを待ちしに、下女はしため来て父母帰り玉ひぬといふ。喜びて出迎ふれば、父かれて帰り、母は我を抱きて泣きぬ。」
 少女はしばらく黙しつ。けさより曇りたる空は、雨になりて、をりをり窓を打つしずく、はらはらと音す。巨勢いふ。「王の狂人となりて、スタルンベルヒの湖に近き、ベルヒといふ城にうつされ玉ひしことは、きのふ新聞にて読みしが、さてはその頃よりかかる事ありしか。」
 少女は語をぎて。「王の繁華の地を嫌ひて、ひなに住まひ、昼寝ねて夜起きたまふは、久しきほどの事なり。独逸ドイツ仏蘭西フランスいくさありし時、加特力カトリック派の国会に打勝ちて、普魯西プロシヤ方につきし、王が中年のいさをは、次第に暴政のうわさおおはれて、公けにこそ言ふものなけれ、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなど、故なくして死刑に行はれむとしたるを、その筋にて秘めたるは、誰知らぬものなし。王の昼寝し玉ふときは、近衆きんじゅうみなしりぞけられしが、囈語うわことにマリイといふこと、あまたたびいひたまふを聞きしもありといふ。我母の名もマリイといひき。望なき恋は、王の病を長ぜしにあらずや。母はかほばせ我に似たる処ありて、その美しさは宮の内にてたぐいなかりきと聞きつ。」
「父は間もなく病みて死にき。まじわり広く、ものおしみせず、世事には極めてうとかりければ、家に遺財つゆばかりもなし。それよりダハハウエル街の北のはてに、裏屋の二階明きたりしを借りて住みしが、そこに遷りてより、母も病みぬ。かかる時にうつろふものは、人の心の花なり。数知らぬ苦しき事は、わがおさなき心に、早く世の人を憎ましめき。あくる年の一月、謝肉祭の頃なりき、家財衣類なども売尽して、日々のけぶりも立てかぬるやうになりしかば、貧しき子供の群に入りてわれも菫花すみれ売ることを覚えつ。母のみまかる前、三日四日のほどを安く送りしは、おん身のたまものなりき。」
「母のなきがら片付けなどするとき、世話せしは、一階高くすまひたる裁縫師なり。あはれなるみなしごひとり置くべきにあらずとて、迎取られしを喜びしこと、今おもひ出しても口惜くやしきほどなり。裁縫師には、娘二人ありて、いたく物ごのみして、みづからてらふさまなるを見しが、迎取られてよりうかがへば、夜に入りてしばしば客あり。酒など飲みて、はては笑ひののしり、また歌ひなどす。客は外国とつくにの人多く、おん国の学生なども見えしやうなりき。或る日主人あるじわれにも新しききぬ着よといひしが、そのをりその男の我を見て笑ひし顔、何となくおそろしく、子供心にもうれしとはおもはざりき。ひるすぎし頃、四十ばかりなる知らぬ人来て、スタルンベルヒの湖水へかむといふを、主人もともすすめき。父の世にありしきとき、伴はれてゆきし嬉しさ、なほ忘れざりしかば、しぶしぶうべなひつるを、「かくてこそき子なれ」とみなめつ。連れなる男は、みちにてやさしくのみ扱ひて、かしこにては『バワリア』といふ座敷船ザロンダムフェルに乗り、食堂にゆきて物食はせつ。酒もすすめぬれど、そは慣れぬものなれば、いなみて飲まざりき。ゼエスハウプトに船はてしとき、その人はまた小舟を借り、これに乗りて遊ばむといふ。暮れゆくそらに心細くなりしわれは、はやかへらむといへど、聴かずして漕出こぎいで、岸辺に添ひてゆくほどに、人げ遠き葦間あしまきたりしが、男は舟をそこにめつ。わが年はまだ十三にて、はじめは何事ともわきまへざりしが、のちには男の顔色もかはりておそろしく、われにでもあらで、水に躍入おどりいりぬ。暫しありて我にかへりしときは、湖水のほとりなる漁師りょうしの家にて、貧しげなる夫婦のものに、介抱せられてゐたりき。帰るべき家なしと言張りて、一日ひとひ二日ふたひすぐうちに、漁師夫婦の質朴なるに馴染なじみて、不幸なる我身の上を打明けしに、あはれがりて娘として養ひぬ。ハンスルといふは、この漁師の名なり。」
「かくて漁師の娘とはなりぬれど、弱き身には舟のかじ取ることもかなはず、レオニのあたりに、富める英吉利人イギリスびとの住めるにやとはれて、小間使こまづかいになりぬ。加特力教カトリックきょう信ずる養父母は、英吉利人に使はるるを嫌ひぬれど、わが物読むことなど覚えしは、かの家なりし雇女教師やといじょきょうし[#「雇女教師」の左に「グェルナント」とルビ、55-10]めぐみなり。女教師は四十余の処女しょじょなりしが、家の娘のたかぶりたるよりは、我を愛すること深く、三年みとせがほどに多くもあらぬ教師の蔵書、ことごとく読みき。ひがよみはさこそ多かりけめ。またふみの種類もまちまちなりき。クニッゲが交際法あれば、フムボルトが長生術あり。ギョオテ、シルレルの詩抄半ばじゆしてキョオニヒが通俗の文学史をひもとき、あるはルウヴル、ドレスデンの画堂の写真絵、繰りひろげて、テエヌが美術論の訳書をあさりぬ。」
去年こぞ英吉利人一族を率ゐて国に帰りし後は、しかるべき家に奉公せばやとおもひしが、身元からねば、ところの貴族などには使はれず。この学校の或る教師に、はしなくも見出されて、雛形モデル勤めしがえにしになりて、遂に鑑札受くることとなりしが、われを名高きスタインバハが娘なりとは知る人なし。今は美術家の間に立ちまじりて、ただ面白くのみ日を暮せり。されどグスタアフ・フライタハはさすがそらごといひしにあらず。美術家ほど世に行儀しきものなければ、独立ひとりたちてまじわるには、しばしも油断すべからず。寄らず、さわらぬやうにせばやとおもひて、はからず見玉みたまふ如き不思議の癖者くせものになりぬ。をりをりは我身、みづからも狂人にはあらずやと疑ふばかりなり。これにはレオニにて読みしふみも、すこたたりをなすかとおもへど、もしらば世に博士と呼ばるる人は、そもそもいかなる狂人ならむ。われを狂人と罵る美術家ら、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれ。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気なくて※(「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1-84-56)かなはぬことは、ゼネカが論をも、シエエクスピアがげんをもたず。見玉へ、我学問のひろきを。狂人にして見まほしき人の、狂人ならぬを見る、その悲しさ。狂人にならでもよき国王は、狂人になりぬと聞く、それも悲し。悲しきことのみ多ければ、昼はせみと共に泣き、夜はかわずと共に泣けど、あはれといふ人もなし。おん身のみはつれなくあざみ笑ひ玉はじとおもへば、心のゆくままに語るをとがめ玉ふな。ああ、かういふも狂気か。」


     下

 さだめなき空に雨みて、学校の庭の木立こだちのゆるげるのみ曇りし窓の硝子ガラスをとほして見ゆ。少女おとめが話聞く間、巨勢こせが胸には、さまざまの感情戦ひたり。或ときはむかし別れし妹にひたる兄の心となり、或ときは廃園にたおしたるヱヌスの像に、ひとり悩める彫工の心となり、或るときはまた艶女えんにょに心動され、われはちじと戒むる沙門しゃもんの心ともなりしが、聞きをはりし時は、胸騒ぎ肉ふるひて、われにもあらで、少女が前にひざまずかむとしつ。少女はつと立ちて「この部屋の暑さよ。はや学校の門もささるる頃なるべきに、雨も晴れたり。おん身とならば、おそろしきこともなし。共にスタルンベルヒへき玉はずや。」とそばなるぼう取りていただきつ。そのさま巨勢が共に行くべきを、つゆ疑はずとおぼし。巨勢はただ母に引かるる穉子おさなごの如く従ひゆきぬ。
 門前にて馬車やとひて走らするに、ほどなく停車場に来ぬ。けふは日曜なれど、天気しければにや、近郷きんごうよりかへる人も多からで、ここはいとしずかなり。新聞の号外売る婦人あり。買ひて見れば、国王ベルヒの城にうつりて、容体ようだい穏なれば、侍医グッデンも護衛をゆるめさせきとなり。※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしゃ中には湖水のほとりにあつさ避くる人の、物買ひに府に出でし帰るさなるが多し。王のうわさいとかまびすし。「まだホオヘンシュワンガウの城にゐたまひし時には似ず、心しずまりたるやうなり。ベルヒに遷さるる途中、ゼエスハウプトにて水求めて飲みたまひしが、近きわたりなりし漁師りょうしらを見て、やさしくうなずきなどしたまひぬ。」とみたることばにて語るは、かひものかご手にさげたる老女おうななりき。
 車走ること一時間、スタルンベルヒに着きしはゆうべの五時なり。かちよりきてやうやう一日ほどの処なれど、はやアルペン山の近さを、唯何となく覚えて、このくもらはしき空の気色けしきにも、胸開きて息せらる。車のあちこちと廻来まわりこし、丘陵のたちまち開けたる処に、ひろびろと見ゆるは湖水なり。停車場は西南の隅にありて、東岸なる林木、漁村はゆふ霧に包まれてほのかに認めらるれど、山に近き南の方は一望きはみなし。
 案内あない知りたる少女に引かれて、巨勢は右手めてなる石段をのぼりて見るに、ここは「バワリア」のホオフといふ「ホテル」の前にて、屋根なき所に石卓いしづくえ椅子いすなど並べたるが、けふは雨後なればしめじめと人げ少し。給仕するしもべの黒き上衣うわぎに、白の前掛したるが、何事をかつぶやきつつも、卓に倒しかけたる椅子を、引起してぬぐひゐたり。ふと見れば片側ののきにそひて、つたかずらからませたるたなありて、そのもとなる円卓まるづくえを囲みたるひとむれの客あり。こはこの「ホテル」に宿りたる人々なるべし。男女打ちまじりたる中に、先の夜「ミネルワ」にて見し人ありしかば、巨勢は往きてものいはむとせしに、少女おしとどめて。「かしこなるは、君の近づきたまふべき群にあらず。われは年若き人と二人にて来たれど、づべきはかなたにありて、こなたにあらず。彼はわれを知りたれば、見玉へ、久しく座にえ忍びあへで隠るべし。」とばかりありて、かの美術諸生は果してちて「ホテル」に入りぬ。少女は僕を呼びちかづけて、座敷船はまだ出づべしやと問ふに、僕は飛行く雲を指さして、この覚束おぼつかなきそらあひなれば、最早もはやでざるべしといふ。さらば車にてレオニに行かばやとて言付けぬ。

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