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カズイスチカ(カズイスチカ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 18:04:25  点击:  切换到繁體中文

 父が開業をしていたので、花房はなぶさ医学士は卒業する少し前から、休課に父のもとへ来ている間は、代診の真似事まねごとをしていた。
 花房の父の診療所は大千住おおせんじゅにあったが、小金井きみ子という女が「千住の家」というものを書いて、くわしくこの家の事を叙述しているから、locoロコ citatoチタト としてここにはぜいせない。Monetモネエ なんぞは同じ池に同じ水草のえている処を何遍も書いていて、時候が違い、天気が違い、一日のうちでも朝夕の日当りの違うのを、人にあじわわせるから、一枚見るよりは較べて見る方が面白い。それは巧妙な芸術家の事である。同じモデルの写生を下手へたに繰り返されては、たまったものではない。ここらで省筆せいひつをするのは、読者に感謝してもらってもい。
 もっともきみ子はあの家の歴史を書いていなかった。あれを建てた緒方某おがたぼうは千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩たかがりの時、千住で小休みをする度毎たびごとに、緒方の家が御用を承わることにまっていた。花房の父があの家をがらくたと一しょに買い取った時、天井裏から長さ三尺ばかりの細長い箱が出た。ふた御鋪物おんしきものと書いてある。御鋪物とは将軍の鋪物である。今は花房の家で、その箱に掛物が入れてある。
 火事にもわずに、だいぶ久しく立っている家と見えて、すこぶる古びが附いていた。柱なんぞは黒檀こくたんのように光っていた。硝子ガラスの器を載せた春慶塗しゅんけいぬりの卓や、白いシイツをおおうた診察用の寝台ねだいが、この柱と異様なコントラストをなしていた。
 この卓や寝台の置いてある診察室は、南向きの、一番広い間で、花房の父が大きい雛棚ひなだなのような台を据えて、盆栽を並べて置くのは、この室の前の庭であった。病人を見て疲れると、このひげの長いおきなは、目を棚の上の盆栽に移して、ひそかに自らたのしむのであった。
 待合まちあいにしてある次の間には幾ら病人がまっていても、翁は小さい煙管きせるで雲井を吹かしながら、ゆっくり盆栽をながめていた。
 午前に一度、午後に一度は、極まって三十分ばかり休む。その時は待合の病人の中を通り抜けて、北向きの小部屋に這入はいって、煎茶せんちゃを飲む。中年の頃、石州流の茶をしていたのが、晩年に国を去って東京に出た頃から碾茶ひきちゃめて、煎茶を飲むことにした。盆栽と煎茶とが翁の道楽であった。
 この北向きの室は、家じゅうで一番狭い間で、三畳敷である。何の手入もしないに、年々宿根しゅくこんが残っていて、秋海棠しゅうかいどうが敷居と平らに育った。その直ぐ向うは木槿もくげ生垣いけがきで、垣の内側にはまばらに高い棕櫚しゅろが立っていた。
 花房が大学にいる頃も、官立病院に勤めるようになってからも、休日に帰って来ると、ずこの三畳で煎茶を飲ませられる。当時八犬伝に読みふけっていた花房は、これをお父うさんの「三茶の礼」と名づけていた。
 翁が特に愛していた、蝦蟇出がまでという朱泥しゅでい急須きゅうすがある。わたり二寸もあろうかと思われる、小さい急須の代赭色たいしゃいろはだえPemphigusペンフィグス という水泡すいほうのような、大小種々のいぼが出来ている。多分焼く時に出来損ねたのであろう。この蝦蟇出の急須に絹糸の切屑きりくずのように細かくよじれた、暗緑色の宇治茶を入れて、それに冷ました湯をいで、しばらく待っていて、茶碗ちゃわんらす。茶碗の底には五立方サンチメエトル位の濃い帯緑黄色の汁が落ちている。花房はそれをめさせられるのである。
 甘みはかすかで、苦みの勝ったこの茶をも、花房は翁の微笑と共に味わって、それを埋合せにしていた。
 或日こう云う対坐の時、花房が云った。
「お父うさん。わたくしも大分理窟だけは覚えました。少しお手伝をしましょうか」
「そうじゃろう。理窟はわしよりはえらいに違いない。むずかしい病人があったら、見て貰おう」
 この話をしてから、花房は病人をちょいちょい見るようになったのであった。そして翁の満足をち得ることも折々あった。
 翁の医学は Hufelandフウフェランド の内科を主としたもので、その頃もう古くなって用立たないことが多かった。そこで翁は新しい翻訳書を幾らか見るようにしていた。とフウフェランドは蘭訳らんやくの書を先輩の日本訳の書に引き較べて見たのであるが、新しい蘭書を得ることが容易たやすくなかったのと、多くの障碍しょうがいしのいで横文おうぶんの書を読もうとする程の気力がなかったのとのめに、昔読み馴れた書でない洋書を読むことを、翁は面倒がって、とうとう翻訳書ばかり見るようになったのである。ところが、その翻訳書のかずが多くないのに、善い訳は少ないので、翁の新しい医学の上の智識にはすこぶる不十分な処がある。
 防腐外科なんぞは、翁は分っている積りでも、実際本当には分からなかった。丁寧に消毒した手を有合ありあわせ手拭てぬぐいくような事が、いつまでも止まなかった。
 これに反して、若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coupクウ d'※(リガチャOE小文字)ilドヨイユ であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二十四時間以内に死ぬる。それが花房にはどう見ても分からなかった。
 只これだけなら、少花房が経験の上で老花房に及ばないと云うに過ぎないが、実はそうでは無い。翁の及ぶべからざる処が別に有ったのである。
 翁は病人を見ている間は、全幅の精神をもって病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽をもてあそんでいる時もその通りである。茶をすすっている時もその通りである。
 花房学士は何かしたい事もしくはするはずの事があって、それをせずにしばらく病人を見ているという心持である。それだから、同じ病人を見ても、平凡な病だとつまらなく思う。Int※(アキュートアクセント付きE小文字)ressantエントレッサン の病症でなくてはき足らなく思う。又偶々たまたま所謂いわゆる興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論もちろん発見も発明も出来るならしようとは思うが、それを生活の目的だとは思わない。始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。或時は何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう。女の形をしている時もある。種々の栄華の夢になっている時もある。それかと思うと、その頃碧巌へきがんを見たり無門関むもんかんを見たりしていたので、禅定ぜんじょうめいた contemplatifコンタンプラチイフ な観念になっている時もある。とにかく取留めのないものであった。それが病人を見る時ばかりではない。何をしていても同じ事で、これをしてしまって、片付けて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。
 そして花房はその分からない或物が何物だということを、いて分からせようともしなかった。ただ或時はその或物を幸福というものだと考えて見たり、或時はそれを希望ということに結び付けて見たりする。その癖又それを得れば成功で、失えば失敗だというような処までは追求しなかったのである。
 しかしこの或物が父に無いということだけは、花房もとっくに気が付いて、初めは父がつまらない、内容の無い生活をしているように思って、それは老人だからだ、老人のつまらないのは当然だと思った。そのうち、熊沢蕃山くまざわばんざんの書いたものを読んでいると、志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪をくしけずったりするのも道を行うのであるという意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生へいぜいを考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事をい加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場しゅくばの医者たるに安んじている父の r※(アキュートアクセント付きE小文字)signationレジニアション の態度が、有道者の面目に近いということが、朧気おぼろげながら見えて来た。そしてその時からにわかに父を尊敬する念を生じた。
 実際花房の気の付いた通りに、翁の及び難いところはここにそんじていたのである。
 花房は大学を卒業して官吏になって、半年ばかりも病院で勤めていただろう。それから後は学校教師になって、Laboratoriumラボラトリウム出入しゅつにゅうするばかりで、病人というものを扱った事が無い。それだから花房の記憶には、いつまでも千住の家で、父の代診をした時の事が残っている。それが医学をした花房の医者らしい生活をした短い期間であった。
 その花房の記憶にわずかに残っている事を二つ三つ書く。一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬ぜいたくぐすりを飲む人も、病気が死活問題になっている人も、ひとしくこれ casusカズス である。Casusカズス として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにしまった。花房はまだ病人が人間に見えているうちに、病人を扱わないようになってしまった。そしてその記憶には唯 Curiosaクリオザ が残っている。作者が漫然と医者の術語を用いて、これに Casuisticaカズイスチカ と題するのは、花房の冤枉えんおうとする所かも知れない。
 落架風らっかふう。花房が父に手伝をしようと云ってから、間のない時の事であった。丁度新年で、門口に羽根をいていた、花房の妹の藤子が、きゃっと云って奥の間へ飛び込んで来た。花月新誌の新年号を見ていた花房が、なんだと問うと、恐ろしい顔の病人が来たと云う。どんな顔かと問えば、只食い附きそうな顔をしていたから、二目と見ずに逃げて這入ったと云う。そこへ佐藤という、色の白い、髪を長くしている、越後えちご生れの書生が来て花房に云った。
「老先生が一寸ちょっといで下さるようにとおっしゃいますが」
「そうか」
 と云って、花房は直ぐに書生と一しょに広間に出た。
 春慶塗の、楕円形だえんけいをしている卓の向うに、翁はにこにこした顔をして、椅子いすり掛かっていたが、花房に「あの病人を御覧」と云って、顔で方角を示した。
 寝台ねだいの据えてあるあたりの畳の上に、四十しじゅう余りのおかみさんと、二十はたちばかりの青年とが据わっている。藤子が食い付きそうだと云ったのは、この青年の顔であった。
 色の蒼白あおじろい、面長おもながな男である。下顎したあご後下方こうかほうへ引っ張っているように、口をいているので、その長い顔がほとんど二倍の長さに引き延ばされている。絶えずよだれが垂れるので、畳んだ手拭であごを拭いている。顔位の狭い面積の処で、一部を強く引っ張れば、全体の形が変って来る。醜くくはない顔の大きい目が、外眦がいさいを引き下げられて、異様にひらいて、物に驚いたように正面を凝視している。藤子が食い付きそうだと云ったのも無理は無い。
 附き添って来たお上さんは、目のふちを赤くして、涙声で一度翁に訴えた通りを又花房に訴えた。
 お上さんの内には昨夜ゆうべ骨牌会かるたかいがあった。息子さんはたれやらと札の引張合いをして勝ったのが愉快だというので、大声に笑った拍子に、顎が両方一度にはずれた。それから大騒ぎになって、近所の医者に見て貰ったが、めてはくれなかった。このままで直らなかったらどうしようというので、息子よりはお上さんが心配して、とうとうられなかったというのである。
「どうだね」
 と、翁は微笑ほほえみながら、若い学士の顔を見て云った。
「そうですね。診断は僕もお上さんに同意します。両側下顎脱臼りょうそくかがくだっきゅうです。昨夜ゆうべ脱臼したのなら、直ぐに整復が出来る見込です」
って御覧」
 花房は佐藤にガアゼを持って来させて、両手の拇指おやゆびを厚く巻いて、それを口にし入れて、下顎を左右二箇所で押えたと思うと、後部を下へぐっと押し下げた。手をゆるめると、顎は見事に嵌まってしまった。
 二十の涎繰よだれくりは、今まで腮を押えていた手拭で涙を拭いた。お上さんもたもとから手拭を出してうれし涙を拭いた。
 花房はしたり顔に父の顔を見た。父は相変らず微笑んでいる。
「解剖を知っておるだけの事はあるのう。始てのようではなかった」
 親子が喜び勇んで帰ったあとで、翁はことばいでこう云った。
「下顎の脱臼は昔は落架風と云って、或る大家は整復の秘密を人に見られんように、大風炉敷おおぶろしきを病人の頭からかぶせて置いて、術を施したものだよ。骨の形さえ知っていれば秘密は無い。皿の前の下へ向いて飛び出している処を、背後うしろへ越させるだけの事だ。学問は難有ありがたいものじゃのう」
 一枚板。これは夏のことであった。瓶有村かめありむらの百姓が来て、せがれが一枚板になったから、来て見て貰いたいと云った。佐藤が色々容態を問うて見ても、只繰り返して一枚板になったというばかりで、その外にはなんにも言わない。言うすべを知らないのであろう。翁は聞いて、丁度暑中休みで帰っていた花房に、なんだか分からないが、余り珍らしい話だから、往って見る気は無いかと云った。
 花房は別に面白い事があろうとも思わないが、訴えのことばに多少の好奇心を動かされないでもない。とにかく自分が行くことにした。
 蒸暑い日の日盛りに、車で風を切って行くのは、かえって内にいるよりは好い心持であった。田と田との間に、堤のように高く築き上げてある、長い長い畷道なわてみちを、汗を拭きながらいて行く定吉に「暑かろうなあ」と云えば「なあに、寝ていたって、暑いのは同じ事でさあ」と云う。一本一本のはんの木から起るせみの声に、空気の全体がかすかにふるえているようである。

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