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魚玄機(ぎょげんき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:24:45  点击:  切换到繁體中文

 魚玄機(ぎょげんき)が人を殺して獄に下った。風説は忽(たちま)ち長安人士の間に流伝せられて、一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった。
 唐(とう)の代(よ)には道教が盛であった。それは道士等(どうしら)が王室の李(り)姓であるのを奇貨として、老子を先祖だと言い做(な)し、老君に仕うること宗廟(そうびょう)に仕うるが如(ごと)くならしめたためである。天宝以来西の京の長安には太清宮(たいせいきゅう)があり、東の京の洛陽(らくよう)には太微宮(たいびきゅう)があった。その外(ほか)都会ごとに紫極宮(しきょくきゅう)があって、どこでも日を定めて厳かな祭が行われるのであった。長安には太清宮の下(しも)に許多(いくた)の楼観がある。道教に観があるのは、仏教に寺があるのと同じ事で、寺には僧侶(そうりょ)が居(お)り、観には道士が居る。その観の一つを咸宜観(かんぎかん)と云って女道士(じょどうし)魚玄機はそこに住んでいたのである。
 玄機は久しく美人を以て聞えていた。趙痩(ちょうそう)と云わむよりは、むしろ楊肥(ようひ)と云うべき女である。それが女道士になっているから、脂粉の顔色を※(「さんずい+宛」、第4水準2-78-67)(けが)すを嫌っていたかと云うと、そうではない。平生粧(よそおい)を凝(こら)し容(かたち)を冶(かざ)っていたのである。獄に下った時は懿宗(いそう)の咸通(かんつう)九年で、玄機は恰(あたか)も二十六歳になっていた。
 玄機が長安人士の間に知られていたのは、独り美人として知られていたのみではない。この女は詩を善(よ)くした。詩が唐の代に最も隆盛であったことは言を待たない。隴西(ろうせい)の李白(りはく)、襄陽(じょうよう)の杜甫(とほ)が出て、天下の能事を尽した後に太原(たいげん)の白居易(はくきょい)が踵(つ)いで起って、古今の人情を曲尽(きょくじん)し、長恨歌(ちょうこんか)や琵琶行(びわこう)は戸ごとに誦(そら)んぜられた。白居易の亡くなった宣宗(せんそう)の大中(たいちゅう)元年に、玄機はまだ五歳の女児であったが、ひどく怜悧(れいり)で、白居易は勿論(もちろん)、それと名を斉(ひとし)ゅうしていた元微之(げんびし)の詩をも、多く暗記して、その数は古今体を通じて数十篇に及んでいた。十三歳の時玄機は始て七言絶句を作った。それから十五歳の時には、もう魚家の少女の詩と云うものが好事者(こうずしゃ)の間に写し伝えられることがあったのである。
 そう云う美しい女詩人が人を殺して獄に下ったのだから、当時世間の視聴を聳動(しょうどう)したのも無理はない。

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 魚玄機の生れた家は、長安の大道から横に曲がって行く小さい街にあった。所謂(いわゆる)狭邪(きょうしゃ)の地でどの家にも歌女(かじょ)を養っている。魚家もその倡家(しょうか)の一つである。玄機が詩を学びたいと言い出した時、両親が快く諾して、隣街の窮措大(きゅうそだい)を家に招いて、平仄(ひょうそく)や押韻の法を教えさせたのは、他日この子を揺金樹(ようきんじゅ)にしようと云う願があったからである。
 大中十一年の春であった。魚家の妓(ぎ)数人が度々ある旗亭(きてい)から呼ばれた。客は宰相令狐綯(れいことう)の家の公子で令狐※(れいこかく)[#「さんずい+高」、195-7]と云う人である。貴公子仲間の斐誠(ひせい)がいつも一しょに来る。それに今一人の相伴があって、この人は温姓(おんせい)で、令狐や斐に鍾馗(しょうき)々々と呼ばれている。公子二人は美服しているのに、温は独り汚れ垢(あか)ついた衣(きぬ)を着ていて、兎角(とかく)公子等に頤使(いし)せられるので、妓等は初め僮僕(どうぼく)ではないかと思った。然(しか)るに酒酣(たけなわ)に耳熱して来ると、温鍾馗は二公子を白眼に視(み)て、叱咤(しった)怒号する。それから妓に琴を弾かせ、笛を吹かせて歌い出す。かつて聞いたことのない、美しい詞(ことば)を朗かな声で歌うのに、その音調が好く整っていて、しろう人(と)とは思われぬ程である。鍾馗の諢名(あだな)のある于思※(「目+于」、第3水準1-88-76)目(うさいかんもく)の温が、二人の白面郎に侮られるのを見て、嘲謔(ちょうぎゃく)の目標にしていた妓等は、この時温の傍(そば)に一人寄り二人寄って、とうとう温を囲んで傾聴した。この時から妓等は温と親しくなった。温は妓の琴を借りて弾いたり、笛を借りて吹いたりする。吹弾(すいたん)の技も妓等の及ぶ所ではない。
 妓等が魚家に帰って、頻(しきり)に温の噂(うわさ)をするので、玄機がそれを聞いて師匠にしている措大に話すと、その男が驚いて云った。「温鍾馗と云うのは、恐らくは太原の温岐(おんき)の事だろう。またの名は庭※(「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63)(ていいん)、字(あざな)は飛卿(ひけい)である。挙場にあって八たび手を叉(こまぬ)けば八韻の詩が成るので、温八叉(おんはっしゃ)と云う諢名もある。鍾馗と云うのは、容貌(ようぼう)が醜怪だから言うのだ。当今の詩人では李商隠(りしょういん)を除いて、あの人の右に出るものはない。この二人に段成式(だんせいしき)を加えて三名家と云っているが、段はやや劣っている」と云った。
 それを聞いてからは、妓等が令狐の筵会(えんかい)から帰る毎(ごと)に、玄機が温の事を問う。妓等もまた温に逢(あ)う毎に玄機の事を語るようになった。そしてとうとうある日温が魚家に訪ねて来た。美しい少女が詩を作ると云う話に、好奇心を起したのである。
 温と玄機とが対面した。温の目に映じた玄機は将(まさ)に開かむとする牡丹(ぼたん)の花のような少女である。温は貴公子連と遊んではいるが、もう年は四十に達して、鍾馗の名に負(そむ)かぬ容貌をしている。開成の初に妻を迎えて、家には玄機とほとんど同年になる憲と云う子がいる。
 玄機は襟(えり)を正して恭(うやうやし)く温を迎えた。初め妓等に接するが如き態度を以て接しようとした温は、覚えず容(かたち)を改めた。さて語を交えて見て、温は直に玄機が尋常の女でないことを知った。何故(なぜ)と云うに、この花の如き十五歳の少女には、些(ちと)の嬌羞(きょうしゅう)の色もなく、その口吻(こうふん)は男子に似ていたからである。
 温は云った。「卿(けい)の詩を善くすることを聞いた。近業があるなら見せて下さい」と云った。
 玄機は答えた。「児(じ)は不幸にして未(いま)だ良師を得ません。どうして近業の言うに足るものがありましょう。今伯楽(はくらく)の一顧を得て、奔※(「足へん+是」、第4水準2-89-42)(ほんてい)して千里を致すの思があります。願わくは題を課してお試み下さい」と云ったのである。
 温は微笑を禁じ得なかった。この少女が良驥(りょうき)を以て自ら比するのは、いかにもふさわしくないように感じたからである。
 玄機は起(た)って筆墨を温の前に置いた。温は率然「江辺柳」の三字を書して示した。玄機が暫(しばら)く考えて占出(せんしゅつ)した詩はこうである。

賦得江辺柳
翠色連荒岸(すゐしよくくわうがんにつらなり)。 烟姿入遠楼(えんしゑんろうにいる)。
影鋪秋水面(かげはしうすゐのおもてにのべ)。 花落釣人頭(はなはつりびとのかうべにおつ)。
根老蔵魚窟(ねはおいてぎよくつかくれ)。 枝低繋客舟(えだはひくくきやくしうつながる)。
蕭々風雨夜(せうせうたりふううのよ)。 驚夢復添愁(ゆめよりさめてまたうれひをそふ)。
 温は一誦(しょう)して善(よ)しと称した。温はこれまで七たび挙場に入った。そして毎(つね)に堂々たる男子が苦索して一句を成し得ないのを見た。彼輩(かのはい)は皆遠くこの少女に及ばぬのである。
 此を始として温は度々魚家を訪ねた。二人の間には詩筒(しとう)の往反(おうへん)織るが如くになった。

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 温は大中元年に、三十歳で太原(たいげん)から出て、始て進士の試(し)に応じた。自己の詩文は燭(しょく)一寸を燃(もや)さぬうちに成ったので、隣席のものが呻吟(しんぎん)するのを見て、これに手を仮(か)して遣(や)った。その後挙場に入る毎に七八人のために詩文を作る。その中には及第するものがある。ただ温のみはいつまでも及第しない。
 これに反して場外の名は京師(けいし)に騒いで、大中四年に宰相になった令狐綯も、温を引見して度々筵席に列せしめた。ある日席上で綯が一の故事を問うた。それは荘子(そうし)に出ている事であった。温が直ちに答えたのは好(い)いが、その詞(ことば)は頗(すこぶ)る不謹慎であった。「それは南華に出ております。余り僻書(へきしょ)ではございません。相公(しょうこう)も※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67)理(しょうり)の暇(いとま)には、時々読書をもなさるが宜(よろ)しゅうございましょう」と云ったのである。
 また宣宗が菩薩蛮(ぼさつばん)の詞を愛するので、綯が填詞(てんし)して上(たてまつ)った。実は温に代作させて口止をして置いたのである。然るに温は酔ってその事を人に漏した。その上かつて「中書堂内坐将軍(ちゆうしよだうないしやうぐんをざせしむ)」と云ったことがある。綯が無学なのを譏(そし)ったのである。
 温の名は遂(つい)に宣宗にも聞えた。それはある時宣宗が一句を得て対を挙人中に求めると、温は宣宗の「金歩揺(きんほよう)」に対するに「玉条脱(ぎよくじようだつ)」を以てして、帝に激賞せられたのである。然るに宣宗は微行をする癖があって、温の名を識(し)ってから間もなく、旗亭で温に邂逅(かいこう)した。温は帝の顔を識らぬので、暫く語を交えているうちに傲慢(ごうまん)無礼の言をなした。
 既にして挙場では、沈詢(ちんじゅん)が知挙になってから、温を別席に居らせて、隣に空席を置くことになった。詩名はいよいよ高く、帝も宰相もその才を愛しながら、その人を鄙(いやし)んだ。趙※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)(ちょうせん)の妻になっている温の姉などは、弟のために要路に懇請したが、何の甲斐(かい)もなかった。

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 温の友に李億(りおく)と云う素封家があった。年は温より十ばかりも少くて頗(すこぶ)る詞賦(しふ)を解していた。
 咸通(かんつう)元年の春であった。久しく襄陽(じょうよう)に往っていた温が長安に還(かえ)ったので、李がその寓居(ぐうきょ)を訪ねた。襄陽では、温は刺史(しし)徐商(じょしょう)の下(もと)で小吏になって、やや久しく勤めていたが、終(つい)に厭倦(えんけん)を生じて罷(や)めたのである。
 温の机の上に玄機の詩稿があった。李はそれを見て歎称(たんしょう)した。そしてどんな女かと云った。温は三年前から詩を教えている、花の如き少女だと告げた。それを聞くと、李は精(くわ)しく魚家のある街(まち)を問うて、何か思うことありげに、急いで座を起った。
 李は温の所を辞して、径(ただ)ちに魚家に往(い)って、玄機を納(い)れて側室にしようと云った。玄機の両親は幣(へい)の厚いのに動された。
 玄機は出(いで)て李と相見た。今年はもう十八歳になっている。その容貌の美しさは、温の初て逢った時の比ではない。李もまた白皙(はくせき)の美丈夫(びじょうふ)である。李は切に請い、玄機は必ずしも拒まぬので、約束は即時に成就して、数日の後に、李は玄機を城外の林亭(りんてい)に迎え入れた。
 この時李は遽(にわか)に発した願が遽に※(「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1-84-56)(かな)ったように思った。しかしそこに意外の障礙(しょうがい)が生じた。それは李が身を以て、近(ちかづ)こうとすれば、玄機は回避して、強いて逼(せま)れば号泣するのである。林亭は李が夕(ゆうべ)に望を懐(いだ)いて往き、朝(あした)に興を失って還るの処(ところ)となった。
 李は玄機が不具ではないかと疑って見た。しかしもしそうなら、初に聘(へい)を卻(しりぞ)けたはずである。李は玄機に嫌われているとも思うことが出来ない。玄機は泣く時に、一旦(いったん)避けた身を李に靠(もた)せ掛けてさも苦痛に堪えぬらしく泣くのである。
 李はしばしば催してかつて遂げぬ欲望のために、徒らに精神を銷磨(しょうま)して、行住座臥(こうじゅうざが)の間、恍惚(こうこつ)として失する所あるが如くになった。
 李には妻がある。妻は夫の動作が常に異なるのを見て、その去住に意を注いだ。そして僮僕(どうぼく)に啗(くら)わしめて、玄機の林亭にいることを知った。夫妻は反目した。ある日岳父が婿(むこ)の家に来て李を面責し、李は遂に玄機を逐(お)うことを誓った。
 李は林亭に往って、玄機に魚家に帰ることを勧めた。しかし魚は聴かなかった。縦令(たとい)二親(ふたおや)は寛仮するにしても、女伴(じょはん)の侮(あなどり)を受けるに堪えないと云うのである。そこで李は兼(かね)て交っていた道士趙錬師(ちょうれんし)を請待(しょうだい)して、玄機の身の上を託した。玄機が咸宜観に入って女道士になったのは、こうした因縁である。

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 玄機は才智に長(た)けた女であった。その詩には人に優れた剪裁(せんさい)の工(たくみ)があった。温を師として詩を学ぶことになってからは、一面には典籍の渉猟に努力し、一面には字句の錘錬(ついれん)に苦心して、ほとんど寝食を忘れる程であった。それと同時に詩名を求める念が漸(ようや)く増長した。
 李に聘せられる前の事である。ある日玄機は崇真観(しゅうしんかん)に往って、南楼に状元(じょうげん)以下の進士等が名を題したのを見て、慨然として詩を賦(ふ)した。
遊崇真観南楼(しゆうしんくわんのなんろうにあそび)。覩新及第題名処(しんきふだいのなをだいせしところをみる)。
雲峯満目放春晴(うんぽうまんもくしゆんせいをはなち)。 歴々銀鈎指下生(れきれきたるぎんこうかせいをさす)。
自恨羅衣掩詩句(みづからうらむらいのしくをおほふを)。 挙頭空羨榜中名(かうべをあげてむなしくばうちゆうのなをうらやむ)。
 玄機が女子の形骸(けいがい)を以て、男子の心情を有していたことは、この詩を見ても推知することが出来る。しかしその形骸が女子であるから、吉士(きっし)を懐(おも)うの情がないことはない。ただそれは蔓草(つるくさ)が木の幹に纏(まと)い附こうとするような心であって、房帷(ぼうい)の欲ではない。玄機は彼があったから、李の聘に応じたのである。此(これ)がなかったから、林亭の夜は索莫(さくばく)であったのである。
 既にして玄機は咸宜観に入った。李が別に臨んで、衣食に窮せぬだけの財を餽(おく)ったので、玄機は安んじて観内で暮らすことが出来た。趙が道書を授けると、玄機は喜んでこれを読んだ。この女のためには経(けい)を講じ史を読むのは、家常の茶飯であるから、道家の言が却(かえ)ってその新を趁(お)い奇を求める心を悦(よろこ)ばしめたのである。
 当時道家には中気真術と云うものを行う習(ならい)があった。毎月朔望(さくぼう)の二度、予め三日の斎(ものいみ)をして、所謂(いわゆる)四目四鼻孔云々(うんぬん)の法を修するのである。玄機は※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)(のが)るべからざる規律の下(もと)にこれを修すること一年余にして忽然(こつぜん)悟入する所があった。玄機は真に女子になって、李の林亭にいた日に知らなかった事を知った。これが咸通二年の春の事である。

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 玄機は共に修行する女道士中のやや文字ある一人と親しくなって、これと寝食を同じゅうし、これに心胸を披瀝(ひれき)した。この女は名を采蘋(さいひん)と云った。ある日玄機が采蘋に書いて遣(や)った詩がある。
贈隣女(りんぢよにおくる)
羞日遮羅袖(ひをさけてらしうもてさへぎる)。   愁春懶起粧(はるをうれひてきしやうするにものうし)。
易求無価宝(もとめやすきはあたひなきたから)。   難得有心郎(えがたきはこゝろあるらう)。
枕上潜垂涙(ちんじやうひそかになみだをながし)。   花間暗断腸(くわかんひそかにはらわたをたつ)。
自能窺宋玉(みづからよくそうぎよくをうかゞふ)。   何必恨王昌(なんぞかならずしもわうしやうをうらまん)。

 采蘋は体が小くて軽率であった。それに年が十六で、もう十九になっている玄機よりは少(わか)いので、始終沈重(ちんちょう)な玄機に制馭(せいぎょ)せられていた。そして二人で争うと、いつも采蘋が負けて泣いた。そう云う事は日毎にあった。しかし二人は直(ただち)にまた和睦(わぼく)する。女道士仲間では、こう云う風に親しくするのを対食と名づけて、傍(かたわら)から揶揄(やゆ)する。それには羨(せん)と妬(と)とも交(まじ)っているのである。
 秋になって采蘋は忽(たちまち)失踪(しっそう)した。それは趙の所で塑像を造っていた旅の工人が、暇(いとま)を告げて去ったのと同時であった。前に対食を嘲(あざけ)った女等が、趙に玄機の寂しがっていることを話すと、趙は笑って「蘋也飄蕩(ひんやへうたう)、※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)也幽独(けいやいうどく)」と云った。玄機は字(あざな)を幼微と云い、また※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)蘭(けいらん)とも云ったからである。

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