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堺事件(さかいじけん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-7 9:32:46  点击:  切换到繁體中文

 明治元年戊辰(ぼしん)の歳(とし)正月、徳川慶喜(よしのぶ)の軍が伏見、鳥羽に敗れて、大阪城をも守ることが出来ず、海路を江戸へ遁(のが)れた跡で、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を棄てて潜(ひそ)み匿(かく)れ、これ等の都会は一時無政府の状況に陥った。そこで大阪は薩摩(さつま)、兵庫は長門(ながと)、堺は土佐の三藩が、朝命によって取り締ることになった。堺へは二月の初に先ず土佐の六番歩兵隊が這入(はい)り、次いで八番歩兵隊が繰り込んだ。陣所になったのは糸屋町の与力(よりき)屋敷、同心屋敷である。そのうち土佐藩は堺の民政をも預けられたので、大目附杉紀平太、目附生駒(いこま)静次等が入り込んで大通櫛屋町(くしやまち)の元総会所に、軍監府を置いた。軍監府では河内(かわち)、大和(やまと)辺から、旧幕府の役人の隠れていたのを、七十三人捜し出して、先例によって事務を取り扱わせた。市中は間もなく秩序を恢復(かいふく)して、一旦鎖(とざ)された芝居の木戸も、又開かれるようになった。
 二月十五日の事である。フランスの兵が大阪から堺へ来ると云うことを、町年寄が聞き出して軍監府へ訴え出た。横浜に碇泊(ていはく)していた外国軍艦十六艘(そう)が、摂津の天保山沖(てんぽうざんおき)へ来て投錨(とうびょう)した中に、イギリス、アメリカと共に、フランスのもあったのである。杉は六番、八番の両隊長を呼び出して、大和橋へ出張することを命じた。フランスの兵が若(も)し官許を得て通るのなら、前以て外国事務係前宇和島藩主伊達伊予守宗城(だていよのかみむねき)から通知がある筈であるに、それが無い。よしや通知が間に合わぬにしても、内地を旅行するには免状を持っていなくてはならない。持っていないなら、通すには及ばない。杉は生駒と共に二隊の兵を随(したが)えて大和橋を扼(やく)して待っていた。そこへフランスの兵が来掛かった。その連れて来た通弁に免状の有無を問わせると、持っていない。フランスの兵は小人数なので、土佐の兵に往手(ゆくて)を遮(さえぎ)られて、大阪へ引き返した。
 同じ日の暮方になって、大和橋から帰っていた歩兵隊の陣所へ、町人が駆け込んで、港からフランスの水兵が上陸したと訴えた。フランスの軍艦は港から一里ばかりの沖に来て、二十艘の端艇(はしけ)に水兵を載せて上陸させたのである。両歩兵の隊長が出張の用意をさせていると、軍監府から出張の命令が届いた。すぐに出張して見ると、水兵は別にこれと云う廉立(かどだ)った暴行をしてはいない。しかし神社仏閣(ぶっかく)に不遠慮に立ち入る。人家に上がり込む。女子を捉(とら)えて揶揄(からか)う。開港場でない堺の町人は、外国人に慣れぬので、驚き懼(おそ)れて逃げ迷い、戸を閉じて家に籠るものが多い。両隊長は諭(さと)して舟へ返そうと思ったが通弁がいない。手真似で帰れと云っても、一人も聴かない。そこで隊長が陣所へ引き立ていと命じた。兵卒が手近にいた水兵を捉えて縄を掛けようとした。水兵は波止場をさして逃げ出した。中の一人が、町家の戸口に立て掛けてあった隊旗を奪って駆けて往った。
 両隊長は兵卒を率いて追い掛けた。脚(あし)の長い、駆歩(かけあし)に慣れたフランス人にはなかなか及ばない。水兵はもう端艇に乗り移ろうとする。この頃土佐の歩兵隊には鳶(とび)の者が附いていて、市中の廻番をするにも、それを四五人ずつ連れて行くことにしてあった。隊旗を持つのもこの鳶の者の役で、その中に旗持梅吉と云う鳶頭がいた。江戸で火事があって出掛けるのに、早足の馬の跡を一間とは後(おく)れぬという駆歩の達者である。この梅吉が隊の士卒を駆け抜けて、隊旗を奪って行く水兵に追い縋(すが)った。手に持った鳶口は風を切ってかの水兵の脳天に打ち卸(おろ)された。水兵は一声叫んで仰向に倒れた。梅吉は隊旗を取り返した。
 これを見て端艇に待っていた水兵が、突然短銃で一斉射撃をした。
 両隊長が咄嗟(とっさ)の間に決心して「撃て」と号令した。待ち兼ねていた兵卒は七十余挺(ちょう)の銃口を並べ、上陸兵を収容している端艇を目当に発射した。六人ばかりの水兵はばらばらと倒れた。負傷して水に落ちたものもある。負傷せぬものも急に水中に飛び込んで、皆片手を端艇の舷(ふなばた)に掛けて足で波を蹴(けっ)て端艇を操りながら、弾丸(たま)が来れば沈んで避け、又浮き上がって汐を吐いた。端艇は次第に遠くなった。フランス水兵の死者は総数十三人で、内一人が下士であった。
 そこへ杉が駆け付けた。そして射撃を止めて陣所へ帰れと命じた。両隊が陣所へ引き上げていると、隊長二人を軍監府から呼びに来た。なぜ上司の命令を待たずに射撃したかと杉に問われて、両隊長は火急の場合で命令を待つことが出来なかったと弁明した。勿論(もちろん)端艇から先ず射撃したので、これに応戦したのではあるが、土佐の士卒は初からフランス人に対して悪感情を懐(いだ)いていた。それは土佐人が松山藩を討つために錦旗を賜わって、それを本国へ護送する途中、神戸でフランス人がその一行を遮(さえぎ)り留め、朝廷と幕府との和親を謀(はか)るためだと通弁に云わせ、錦旗を奪おうとしたと云う話が伝わっていたからである。
 杉は両隊長に言った。とにかくこうなった上は是非がない。軍艦の襲撃があるかも知れぬから、防戦の準備をせいと云った。そして報告のために生駒を外国事務係へ、下横目一人を京都の藩邸へ発足(ほっそく)させた。
 両隊長は僅(わず)か二小隊の兵を以て軍艦を防げと云われて当惑したが、海岸へは斥候(せっこう)を出し、台場へは両隊から数人ずつ交代して守備に往くことにした。そこへこの土地に這入った時収容して遣(や)った幕府の敗兵が数十人来て云った。
「若しフランスの軍艦が来るようなら、どうぞわたくし共をお使下さい。砲台には徳川家の時に据(す)え付けた大砲が三十六門あって、今岸和田藩主岡部筑前守長寛(ちくぜんのかみながひろ)殿の預りになっています。わたくし共はあれで防ぎます。あなた方は上陸して来る奴を撃って下さい」と云った。
 両隊長はその人達を砲台へ遣った。そのうち岸和田藩からも砲台へ兵を出して、望遠鏡で兵庫方面を見張っていてくれた。
 夜に入って港口へフランスの端艇が来たと云う知らせがあった。しかしその端艇は五六艘で、皆上陸せずに帰った。水兵の死体を捜索したのだろう。実際幾つか死体を捜し得て、載せて帰ったらしいと云うものもあった。

 十六日の払暁に、外国事務係の沙汰(さた)で、土佐藩は堺表(さかいおもて)取締を免ぜられ、兵隊を引き払うことになった。軍監府はそれを取り次いで、両隊長に大阪蔵屋敷へ引き上げることを命じた。両隊長はすぐに支度して堺を立った。住吉街道を経て、大阪御池通(みいけどおり)六丁目の土佐藩なかし商の家に着いたのは、未(ひつじ)の刻頃であった。
 堺の軍監府から外国事務係へ報告に往った生駒静次は、口上を一通(ひととおり)聞き取られただけである。次いで外国事務係は堺にある軍監又は隊長の内一名出頭するようにと達した。杉が出頭した。すると大阪の土佐藩邸にいる石川石之助の出した堺事件の届書を返して、更に精(くわ)しく書き替えて出せと云うことである。杉は一応引き取って、両隊長署名の届書を出し、この上御訊問(ごじんもん)の筋があるなら、本人に出頭させようと言い添えた。
 十七日には、前日評議の末、京都の土佐藩邸から、家老山内隼人(はいと)、大目附林亀吉、目附谷兎毛(ともう)、下横目数人と長尾太郎兵衛の率いた京都詰の部隊とが大阪へ派遣せられた。この一行は夜に入って大阪に着いて、すぐに林が命令して、杉、生駒と両歩兵隊長とを長堀の土佐藩邸に徙(うつ)らせた。
 十八日には、長尾太郎兵衛を以て、両歩兵隊長に勤事控を命じ、配下一同の出門を禁ぜられた。両隊長はこの事件の責を自分達二人で負って、自分達の命令を奉じて働いた配下に煩累(はんるい)を及ぼしたくないと、長尾に申し出た。両隊の兵卒一同は小頭(こがしら)池上弥三吉(やさきち)、大石甚吉を以て、両隊長に勤事控の見舞を言わせた。両隊長は長尾に申し出た趣意を配下に諭(さと)した。
 そのうち京都から土佐藩の歩兵三小隊が到着して、長堀の藩邸を警固して厳重に人の出入を誰何(すいか)することになった。
 次いで前土佐藩主山内土佐守豊信(とよしげ)の名代として、家老深尾鼎(かなえ)が大目附小南五郎右衛門と共に到着した。これは大阪に碇泊(ていはく)しているフランス軍艦Venus(ヴェニュス)[#「e」はアクサン(´)付き]号から、公使Leon(レオン)[#「e」はアクサン(´)付き] Roche(ロッシュ)が外国事務係へ損害要償の交渉をしたためである。公使の要求は直ちに朝議の容(い)るるところとなった。土佐藩主が自らヴェニュス号に出向いて謝罪することが一つ。堺で土佐藩の隊を指揮した士官二人、フランス人を殺害(せつがい)した隊の兵卒二十人を、交渉文書が京都に着いた後三日以内に、右の殺害を加えた土地に於(お)いて死刑に処することが二つ。殺害せられたフランス人の家族の扶助(ふじょ)料として、土佐藩主が十五万弗(どる)を支払うことが三つである。この処置のためには、藩主は自ら大阪に来べきであったが病気のため家老を名代として派遣したのである。
 深尾に附いて来た下横目は六番、八番両歩兵隊の士卒七十三人を、一人ずつ呼び出して堺で射撃したか、射撃しなかったかと訊問した。この訊問が殆(ほとん)ど士卒の勇怯(ゆうきょう)を試みると同じ事になったのは、人の弱点の然らしむるところで、実に已(や)むことを得ない。射撃したと答えたものが二十九人ある。六番隊では隊長箕浦猪之吉(みのうらいのきち)、小頭池上弥三吉、兵卒杉本広五郎、勝賀瀬三六(しょうがせさんろく)、山本哲助、森本茂吉、北代(きただい)健助、稲田貫之丞(かんのじょう)、柳瀬常七、橋詰愛平(はしづめあいへい)、岡崎栄兵衛、川谷(かわたに)銀太郎、岡崎多四郎、水野万之助、岸田勘平、門田鷹太郎(たかたろう)、楠瀬(くすせ)保次郎、八番隊では隊長西村左平次、小頭大石甚吉、兵卒竹内民五郎、横田辰五郎、土居徳太郎、金田時治、武内弥三郎、栄田(さかえだ)次右衛門、中城惇五郎(じゅんごろう)、横田静次郎、田丸勇六郎である。射撃しなかったと答えたものは六番隊の兵卒で浜田友太郎以下二十人、八番隊の兵卒で永野峰吉以下二十一人、計四十一人である。
 十九日になって射撃しなかったと答えたものは、夜に入って御池六丁目の商家へ移され、用意が出来次第帰国させると言い渡された。これに反して射撃したと答えたものは銃器弾薬を返上して、預けの名目の下(もと)に、前に大阪に派遣せられた砲兵隊の監視を受けることになり、六番隊は従前の通長堀の本邸に、八番隊は西邸(にしやしき)に入れられた。
 二十日には射撃しなかったと答えたものが、長堀藩邸の前から舟に乗った。後にこの人達は丸亀を経て、北山道を土佐に帰り着いた。そして数日間遠足留(えんそくどめ)を命ぜられていたが、後には平常の通心得べしと云うことになった。射撃したと答えたものの所へは、砲隊組兵卒に下横目が附いて来て、佩刀(はいとう)を取り上げた。この人達の耳にも、死刑になると云う話がもう聞えたので、中には手を束(つか)ねて刃(やいば)を受けるよりは、寧(むしろ)フランス軍艦に切り込んで死のうと云ったものがある。これは八番隊の土居八之助が無謀だと云って留めた。それから一同刺し違えて死のうと云ったものがある。丁度そこへ佩刀を取り上げに来たので、今死なずにしまったら、もう死ぬることが出来まいと、中の数人は手を下そうとさえした。やはり八番隊の竹内民五郎がそれを留めて、思う旨があるから、指図通にするが好いと云いながら「我荷物の中に短刀二本あり」と、畳に指で書いて見せた。一同遂に佩刀を渡してしまった。
 二十二日に、大目附小南が来て、六番、八番両隊の兵卒一同に、御隠居様から仰せ渡されることがあるから、すぐに大広間に出るようにと達した。御隠居様とは山内豊信が家督を土佐守豊範(とよのり)に譲って容堂と名告(なの)った時からの称呼である。隊長、小頭の四人を除いて、二十五人が大広間に居並んだ。そこへ小南以下の役人が出て席に着いた。それから正面の金襖(きんぶすま)を開くと、深尾が出た。一同平伏した。
 深尾は云った。
「これは御隠居様がお直(じき)に仰せ渡される筈(はず)であるが、御所労のため拙者が御名代として申し渡す。この度(たび)の堺事件に付、フランス人が朝廷へ逼(せま)り申すにより、下手人二十人差し出すよう仰せ付けられた。御隠居様に於いては甚だ御心痛あらせられる。いずれも穏に性命を差し上げるようとの仰せである」言い畢(おわ)って、深尾は起って内に這入った。
 次に小南が藩主豊範の命を伝えた。
「この度差し出す二十人には、誰を取り誰を除いて好いか分からぬ。一同稲荷社(いなりしゃ)に詣(まい)って神を拝し、籤引(くじびき)によって生死(しょうし)を定めるが好い。白籤に当ったものは差し除かれる。上裁を受ける籤に当ったものは死刑に処せられる。これから神前へ参れ」と云うのである。
 二十五人は御殿から下って稲荷社に往った。社壇の鈴の下に、小南が籤を持って坐る。右手には目附が一人控える。階前には下横目が二人名簿を持って立つ。社壇の前数十歩の所には、京都から来た砲兵隊と歩兵隊とが整列している。小南が指図すると、下横目が名簿を開いて、二十五人の姓名を一人ずつ読む。そこで一人ずつ出て籤を引いて、披(ひら)いて見て、それを下横目に渡す。下横目が点検する。この時参詣(さんけい)に来合せたものは、初(はじめ)何事かと恠(あやし)み、ようよう籤引の意味を知って、皆ひどく感動し、中には泣いているものもある。
 上裁を受ける籤を引いたものは、六番隊で杉本、勝賀瀬、山本、森本、北代、稲田、柳瀬、橋詰、岡崎栄兵衛、川谷の十人、八番隊で竹内、横田辰五郎、土居、垣内(かきうち)、金田、武内の六人、計十六人で、これに隊長、小頭各二人を加えると、二十人になる。白籤を引いたものは六番隊で岡崎多四郎以下五人、八番隊で栄田次右衛門以下四人である。
 籤引が済んで一同御殿に引き取ると、白籤組の内、八番隊の栄田次右衛門以下四人、即(すなわ)ち栄田、中城、横田静次郎、田丸が連署の願書を書いて出した。自分等は籤引によって生死の二組に分れたが、初より同腹一心の者だから、一同上裁を受ける籤に当ったと同様の処置を仰せ付けられたいと云うのである。願書は人数が定まっているからと云うので、そのまま却下せられた。
 所謂(いわゆる)上裁籤の組十六人は箕浦、西村両隊長、池上、大石両小頭と共に、引き纏(まと)めて本邸に留め置かれることになった。白籤組はすぐに隊籍を除かれて、土佐藩兵隊中に預けられ、別室に置かれた。数日の後に、白籤組には堺表より船牢(ふねろう)を以て国元へ差し下すと云う沙汰があって、下横目が附いて帰国し、各親類預けになったが、間もなく以後別儀なく申し付けると達せられた。
 夜に入って上裁籤の組は、皆国元の父母兄弟その他親戚(しんせき)故旧に当てた遺書を作って、髻(もとどり)を切ってそれに巻き籠め、下横目に差し出した。
 そこへ藩邸を警固している五小隊の士官が、酒肴(しゅこう)を持たせて暇乞(いとまごい)に来た。隊長、小頭、兵卒十六人とは、別々に馳走(ちそう)になった。十六人は皆酔い臥(ふ)してしまった。
 中に八番隊の土居八之助が一人酒を控えていたが、一同鼾(いびき)をかき出したのを見て、忽(たちま)ち大声で叫んだ。
「こら。大切な日があすじゃぞ。皆どうして死なせて貰(もら)う積じゃ。打首になっても好いのか」
 誰やら一人腹立たしげに答えた。
「黙っておれ。大切な日があすじゃから寐(ね)る」
 この男はまだ詞(ことば)の切れぬうちに、又鼾をかき出した。
 土居は六番隊の杉本の肩を掴(つか)まえて揺り起した。
「こら。どいつも分からんでも、君には分かるだろう。あすはどうして死ぬる。打首になっても好いのか」
 杉本は跳(は)ね起きた。
「うん。好く気が附いた。大切な事じゃ。皆を起して遣ろう」
 二人は一同を呼び起した。どうしても起きぬものは、肩を掴まえてこづき廻した。一同目を醒(さ)まして二人の意見を聞いた。誰一人成程と承服せぬものはない。死ぬるのは構わぬ。それは兵卒になって国を立った日から覚悟している。しかし耻辱(ちじょく)を受けて死んではならぬ。そこで是非切腹させて貰おうと云うことに、衆議一決した。
 十六人は袴(はかま)を穿(は)き、羽織を着た。そして取次役の詰所へ出掛けて、急用があるから、奉行衆(ぶぎょうしゅう)に御面会を申し入れて貰いたいと云った。
 取次役は奥の間へ出入して相談する様子であったが、暫(しばら)くして答えた。
「折角の申出ではあるが、それは相成らぬ。おのおのはお構(かまい)の身分じゃ。夜中に推参して、奉行衆に逢いたいと云うのは宜しくない」と云うのである。十六人はおこった。
「それは怪(け)しからん。お構の身とは何事じゃ。我々は皇国のために明日一命を棄てる者共じゃ。取次をせぬなら、頼まぬ。そこを退け。我々はじきに通る」
 一同は畳を蹴立(けた)てて奥の間へ進もうとした。
 奥の間から声がした。
「いずれも暫く控えておれ。重役が面会する」と云うのである。
 襖(ふすま)をあけて出たのは、小南、林と下横目数人とである。
 一同礼をした上で、竹内が発言した。
「我々は朝命を重んじて一命を差し上げるものでございます。しかし堺表に於いて致した事は、上官の命令を奉じて致しました。あれを犯罪とは認めませぬ。就いては死刑と云う名目(みょうもく)には承服が出来兼ねます。果して死刑に相違ないなら、死刑に処せられる罪名が承りとうございます」
 聞いているうちに、小南の額には皺(しわ)が寄って来た。小南は土居の詞の畢(おわ)るのを待って、一同を睨(にら)み付けた。
「黙れ。罪科のないものを、なんでお上で死刑に処せられるものか。隊長が非理の指揮をしてお前方は非理の挙動に及んだのじゃ」
 竹内は少しも屈しない。
「いや。それは大目付のお詞とも覚えませぬ。兵卒が隊長の命令に依って働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人一人理非を考えたら、戦争は出来ますまい」
 竹内の背後(うしろ)から一人二人膝(ひざ)を進めたものがある。
「堺での我々の挙動には、功はあって罪はないと、一同確信しております。どう云う罪に当ると云う思召か。今少し委曲(いきょく)に御示下さい」
「我々も領解(りょうかい)いたし兼ねます」
「我々も」
 一同の気色(けしき)は凄(すさま)じくなって来た。
 小南は色を和(やわら)げた。
「いや。先の詞は失言であった。一応評議した上で返事をいたすから、暫く控えておれ」
 こう云って起って、奥に這入った。
 一同奥の間を睨んで待っていたが、小南はなかなか出て来ない。
「どうしたのだろう」
「油断するな」
 こんなささやきが座中に聞える。
 良(やや)暫くして小南が又出た。そして頗(すこぶ)る荘重な態度で云った。
「只今のおのおのの申条(もうしじょう)[#「おのおのの申条」は底本では「おのおの申条」と誤記]を御名代に申し上げた。それに就いて御沙汰があるから承れ。抑々(そもそも)この度の事件では、お上御両所共非常な御心痛である。太守様は御不例の所を、押して長髪のまま大阪へお越になり、直ちにフランス軍艦へ御挨拶にお出になって、そのまま御帰国なされた。君辱(はずか)しめらるれば臣死すとも申すではないか。おのおの御沙汰を承った上で、仰せ付けられた通、穏かに振舞ったら宜しかろう。これから御沙汰じゃ。この度堺表の事件に就いては、外国との交際を御一新あらせられる折柄、公法に拠って御処置あらせられる次第である。即ち明日堺表に於て切腹仰せ付けられる。いずれも皇国のためを存じ、難有くお受いたせ。又歴々のお役人、外国公使も臨場せられる事であるから、皇国の士気を顕(あらわ)すよう覚悟いたせ」
 小南は沙汰書を取り出して見ながら、こう演説した。太守様と云ったのは、当主土佐守豊範を斥(さ)したのである。
 十六人は互に顔を見合せて、微笑を禁じ得なかった。竹内は一同に代って答えた。
「恩命難有くお受いたします。それに就いて今一箇条お願申し上げたい事がございます。これは手順を以て下横目へ申し立つべき筋ではございますが、御重役御出席中の事ゆえ、今生(こんじょう)の思出にお直(じき)に申し上げます。只今の御沙汰によれば、お上に置かせられても、我々の微衷(びちゅう)をお酌取(くみとり)下されたものと存じます。然らば我々一同には今後士分のお取扱いがあるよう、遺言同様の儀なれば、是非共お聞済下さるようにお願いいたします」
 小南は暫く考えて云った。
「切腹を仰せ付けられたからは、一応尤(もっと)もな申分のように存ずる。詮議(せんぎ)の上で沙汰いたすから、暫時(ざんじ)控えておれ」
 こう云って再び座を起った。
 又良暫くしてから、今度は下横目が出て云った。
「出格の御詮議を以て、一同士分のお取扱いを仰せ付けられる。依って絹服(けんぷく)一重(ひとかさね)ずつ下し置かれる」
 こう言って目録を渡した。
 一同目録を受け取って下がりしなに、隊長、小頭の所に今夜の首尾を届けに立ち寄った。隊長等も警固隊の士官に馳走せられて快よく酔って寐ていたが、配下の者共が打ち揃(そろ)って来たので、すぐに起きて面会した。十六人は隊長、小頭と引き分けられてから、今夜まで一度も逢う機会がなかったが、大目付との対談の甲斐があって、切腹を許され、士分に取り立てられ、今は誰も行住動作に喙(くちばし)を容れるものがないので、公然立ち寄ることが出来たのである。
 隊長、小頭は配下一同の話を聞いて、喜びかつ悲んだ。悲んだのは、四人が自分達の死を覚悟していながら、二十人の死をフランス公使に要求せられたと云うことを聞(きか)せられずにいたので、十六人の運命を始めて知って悲んだのである。喜んだのは、十六人が切腹を許され、士分に取り立てられたのを喜んだのである。隊長、小頭の四人と配下の十六人とは、まだ夜の明けるに間があるから、一寐入(ひとねいり)して起きようと云うので、快よく別れて寝床に這入(はい)った。
 二十三日は晴天であった。堺へ往く二十人の護送を命ぜられた細川越中守慶順(えっちゅうのかみよしゆき)の熊本藩、浅野安芸守茂長(あきのかみしげなが)の広島藩から、歩兵三百余人が派遣せられて、未明に長堀土佐藩邸の門前に到着した。邸内では二十人に酒肴(しゅこう)を賜わった。両隊長、小頭は大抵新調した衣袴(いこ)を着け、爾余(じよ)の十六人は前夜頂戴した絹服を纏った。佩刀は邸内では渡されない。切腹の場所で渡される筈である。
 一同が藩邸の玄関から高足駄(たかあしだ)を踏み鳴らして出ると、細川、浅野両家で用意させた駕籠(かご)二十挺を舁(か)き据えた。一礼してそれに乗り移る。行列係が行列を組み立てる。先手(さきて)は両藩の下役人数人で、次に兵卒数人が続く。次は細川藩の留守居馬場彦右衛門、同藩の隊長山川亀太郎、浅野藩の重役渡辺競(きそう)の三人である。陣笠小袴(こばかま)で馬に跨(またが)り、持鑓(もちやり)を竪(た)てさせている。次に兵卒数人が行く。次に大砲二門を挽(ひ)かせて行く。次が二十挺の駕籠である。駕籠一挺毎に、装剣の銃を持った六人の兵が附く。二十挺の前後は、同じく装剣の銃を持った兵が百二十人で囲んでいる。後押(あとおさえ)は銃を負った騎兵二騎である。次に両藩の高張提灯(たかはりぢょうちん)各十挺が行く。次に両藩士卒百数十人が行く。以上の行列の背後に少し距離を取って、土佐藩の重臣始め数百人が続く。長径凡(およ)そ五丁である。
 長堀を出発して暫く進んでから、山川亀太郎が駕籠に就いて一人々々に挨拶して、箕浦の駕籠に戻ってからこう云った。
「狭い駕籠で、定めて窮屈でありましょう。その上長途の事ゆえ、簾(すだれ)を垂れたままでは、鬱陶(うっとう)しく思われるでありましょう。簾を捲かせましょうか」と云った。
「御厚意忝(かたじけの)う存じます。差構(さしかまい)ない事なら、さよう願いましょう」と、箕浦が答えた。
 そこで駕籠の簾は総て捲き上げられた。
 又暫く進むと、山川が一人々々の駕籠に就いて、
「茶菓の用意をしていますから、お望の方に差し上げたい」と云った。
 両藩の二十人に対する取扱は、万事非常に鄭重(ていちょう)なものである。
 住吉新慶町(しんけいまち)辺に来ると、兼(かね)て六番、八番の両隊が舎営していたことがあるので、路傍に待ち受けて別(わかれ)を惜むものがある。堺の町に入れば、道の両側に人山(ひとやま)を築いて、その中から往々欷歔(すすりなき)の声が聞える。群集を離れて駕籠に駆け寄って、警固の兵卒に叱られるものもある。

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